13 董卓壘(光和七年六月)
皇甫嵩と朱儁の連合軍は、長社の戦いで勢いを取り戻し、潁川と汝南郡の境の西華で、そして潁川と陳国との国境で黄巾賊を駆逐した。
「ようやく始められますな」
「全くだ」
二人は暗黙の了解で、皇甫嵩は荊州を、朱儁は楊州を平定に行くと考えていた。だが、太尉鄧盛の指示は想定と違っていた。
皇甫嵩には洛陽の東、兗州で蜂起した東郡黄巾の征伐が命じられた。そして朱儁が荊州の南陽黄巾を担当することになったのである。
荊州の北端、南陽郡。司隷の南に接した重要な郡である。その郡治である大都市、宛。そこに黄巾賊が大軍で駐屯している。
南陽に到着した朱儁は宛城を囲む黄巾の威容を見た。
「彼らが洛陽を狙わなくて幸いだったな」
荊州黄巾賊は豫州のそれと違い、反乱はじまって以降、ずっと宛に定住していた。
南陽黄巾の大方であった張曼成は、万余の信者を宛で一斉蜂起させ、南陽太守の褚貢を殺害した。
人公将軍張梁からの指示で洛陽への進撃を中止してから百日余り。張曼成は渠帥ではなく神上使を名乗り、周辺の郡県の信者の糾合と、宛での布教に努めた。
宛は大都市で、略奪などしなくても──略奪に近い強要ではあったが──太平道の信徒が飢えない環境だった。
王朝に反感を持つものも多かった。褚貢の前に太守をしていたのが張忠。母が董太后の姉である、彼は任期の間に数億銭を荒稼ぎして帰った。何皇后がここから出たのに何の得もない。変化を望むものもまた、多かった。
張曼成はむしろ大都市である宛を警戒し、配下を城内でなく、城外で養った。数万という手勢でも、大きな宛の城を守備しきれる人数ではなかったからである。
褚貢の後任として新たに南陽太守に任命された秦頡はそこに目を付けた。神上使の布教活動は広範囲に行なわれ、目立ち、そして十分に守られていなかった。まだ信者ではない者と触れ合うのが布教だからである。
張曼成は秦頡の手の者により暗殺された。
この動きは結果的に見ると逆効果となった。暗殺では兵は減らない。しかも神上使の死は神格化され、布教は実を結んだ。結果、宛の黄巾賊は十万を超える規模に膨れ上がったのである。
張曼成に代わり、渠帥となったのは趙弘である。
「趙渠帥、官軍二万、包囲を始めましたが、どう致しましょうか?」
「好きにさせておけ」
趙弘は官軍が全く怖くなかった。巨城に十万を超える兵力で待ち構えているのである。二万ぽっちの兵でどうにか出来るはずが無かったからだ。
攻める朱儁の側もそれは認識済みである。荊州刺史の徐璆と南陽太守秦頡の兵と合わせ、一万八千で宛城を囲んだ。
***
まだ豫州で皇甫嵩と朱儁が激戦を繰り広げていた頃、冀州を行く盧植の軍は連戦連勝を続けていた。
盧植の本隊が黄巾賊を個別に捕捉し正面から対峙している所へ、副将の護烏桓中郎将の宗員が率いる黎陽騎兵が駆逐して行く。
南方の二将と違い、騎兵を保有する差は大きかった。斬られ獲えられた黄巾賊は既に一万を超える。鄴も、奪われた諸侯国も解放した。
周囲を斬り従えた盧植はついに太平道の本拠である廣宗県に到達した。
「ちと面倒な事になったわい」
口ではそう言いながら廣宗の県城を見渡す盧植の表情は平然としたものだった。
廣宗県の県城は、城外の本部道場も囲う二重の外郭が盛られ、難攻不落の巨城と化していた。おそらく、周囲の県から奪った食糧が運び込まれているだろう。
「土を盛れ!囲いを作るぞ」
盧植は黄巾賊の逆撃に備え、県城を囲う土盛りを作った。
土盛りにはひと工夫あり、馬出しを複数そなえていた。廣宗の県城に立てこもる黄巾賊に黎陽騎兵は役に立たないが、廣宗の県城から出撃する黄巾賊は速やかに騎兵が刈り取れる。これにより包囲側の兵力が少ないながらも戦いは野戦から包囲攻城戦の局面へ移行した。
「隊を分けて木を切らせろ。雲梯が要る」
盧植は楽観していた。こちらに補給が続く限り、落せない城なぞない。だが同時に、長期戦も覚悟していた。包囲側が少ない以上、力攻めはしづらい。年単位は覚悟の上だった。
盧植が包囲陣を設営するのに従って、城砦化した廣宗県の中と、冀州の他県との連絡はどんどん難しくなっていった。
──廣宗の本部道場。
人公将軍である張梁は、木簡に筆を入れては削り、入れては削りを繰り返していた。兄である地公将軍張寶への私信である。
兄の張寶は盧植によって鄴からたたき出された後、廣宗に帰りたい、張梁に合流したいとの連絡をよこして来たのである。
(兄者に帰ってきてもらってもな)
官軍に包囲されてしまったとはいえ、まだ張梁は生を諦めたりはしていない。悪逆な朝廷のやり方に反発した百姓は太平道を支持してくれている。今後も戦い続ける必要があった。
そして籠城を成功させるには、最終的に外から解囲してくれる援軍が必要だ。
薊で蜂起した幽州の黄巾はまだ無傷である。既に彼らに救援を依頼している。張寶にはそこに合流してもらう様、指示を書いているのだが、兄に理解できるよう、兄が傷つかぬよう、言葉を選ぶのに苦慮していたのだ。
だが、急いで書かねば包囲網が完成し、外との連絡が遮断されてしまう。
(これが最後になるかもしれないな)
ふと、浮かんだ言葉に戦慄した。
(……当面の間。当面の間、という事だ)
張梁は首を何度も横に振り、弱気を追い出した。
数日後、土塁の工事がひととおり完了し、廣宗の包囲の輪が閉じた。これから双方が根気比べに入る。
そんな時である。盧植の元へ一人の宦官が訪ねて来た。
「中郎将の戦い振りを陛下にご報告するのが私の役目でございます」
小黄門の左豐、とその宦官は名乗った。盧植はあからさまに嫌そうな顔になった。だが帝の命令とあらば仕方が無い。盧植は自ら囲いを案内した。
「黄巾賊はあの県城に籠城して一ヶ月。こちらは兵力が少ないので力攻めはできません。囲みを厳重にし、賊が干上がるのを待つばかりです」
実のところ左豐が来た本当の目的は盧植を監察することではない。彼が張讓から命じられたのは、廣宗落城の際に宦官が共謀していたという証拠を隠滅することである。
だが当分廣宗が落ちないならここに居続けることはできない。左豐は洛陽へ戻る事とした。その時、左豐は悪い癖を出したのである。任務を忘れ、宦官としての習い性を。
「盧中郎将。私は洛陽へ戻り戦況を帝へお伝えします。大長秋、中常侍の皆様へもなにがしかの付け届けをしたほうがよろしいのではないですか?それも軍費のうちですよ」
盧植は首を横に振って静かに拒否した。この豪放磊落な男としては最大限の忍耐であった。
落胆した左豐は洛陽へ戻り、こう報告した。
「廣宗はたやすく破れそうですのに、盧中郎は塁を作って息をひそめ、天誅が下るのをまっております」
怠慢であると讒したのである。この報告に帝は激怒した。
「檻車を廣宗へ送れ!盛!盧植の後任を手配せよ!」
檻車は囚人を運搬する車である。帝は罪人として盧植を扱ったのである。兵が少ない側が籠城する多数を包囲するのだ。困難も多く時間も掛かる事だろう。皆そう弁えていた。しかし帝の激怒を前に盧植を庇うものはいなかった。
実際に盧植は檻車で洛陽に送還された。この大儒が故郷である冀州を檻車で引き回されたのである。大いなる屈辱だったが、盧植は何も言わなかった。
最前線から将が更迭される。鄧盛はこの穴埋めに苦慮した。
護烏桓中郎将の宗員を後任に格上げしただけではとても包囲が維持できないだろう。実戦経験のある頼もしい将がいい。援軍も送りたい。なによりとにかく早く手を打つ必要がある。
鄧盛の脳裏にようやく最適解が浮かんだ。
***
「北東だ!北東へ急ぐ!」
司隷の中央には東西に黄河が横たわっている。洛陽は黄河の南岸。河東郡は黄河の北岸にある。つまり、河東から冀州に向かえば、大軍を渡河させる必要がない。
河東から黄河沿いに真東に移動し、并州の上党郡を抜ければすぐ冀州に入る。魏郡趙国を抜ければ鉅鹿郡。廣宗は目と鼻の先である。
張角討伐の為に新たに東中郎将に任じられた董卓は、その道を行く事ができなかった。河東で集めた兵を自ら率い、北東へ急いだ。
冀州常山郡を通り北へ。
教祖の危機を知った幽州黄巾が南下している、との報告を受けたからである。これが廣宗に襲い掛かれば宗員の包囲陣は壊滅するであろう。彼らを救うため、幽州黄巾を阻止する必要があった。
董卓の軍は急行軍で常山郡を通り抜けた。鉅鹿郡の北端、下曲陽県。そこで幽州黄巾と遭遇した。
***
「待て!こいつも乗せろ!」
董卓は担いでいた負傷兵を車に乗せた。負傷兵で山盛りの車が、のろのろと南へ動き出す。
自分の車を失った董卓は、徒歩でそれに着いて行く。
(くそ素人の戦いだった)
敵の渠帥は素人同然であった。だが兵力差で押し切られた。
考えてみれば自分も素人である。主将になるのは初めてで、大兵力の会戦も初めて。そして今回の相手とは裏で手を握ったりしていない。左右両方に騎射できる弓術も何の役にも立たなかった。
将も素人で兵も素人同然の徴用兵。条件が同じならば兵の多い側が勝ってなんの不思議もなかった。他人の目で見たら、多分ぐだぐだの戦闘だったと思う。両軍ともに冴えた知謀は発揮されず、正面からの雑な殴り合いに終始。双方が決め手を欠く為、士気が崩壊するより前に兵達は疲労で倒れそうな状態。董卓はこのまま続けても勝利することができない、と判断し引き鉦を打たせた。
「賊が追撃してこなくて助かったな」
意識して軽口を叩いた。
相手も素人なのだろう。退却する董卓をとっさに追撃できなかった。怪我人は多いが死者は少ない。輜重も失わず、なにより決定的な追撃を食らっていない。負けたものの、董卓軍の兵士の表情は明るい。だから董卓はこの敗北を笑い話にしようと考えている。
実のところ、董卓には将として、一つだけ絶対に守ろう思っていることがあった。
兵を大事にする将軍、そう呼ばれること。
兵法書など読んだことが無い董卓が、それだけは絶対に失ってはならない評判なのである。
「将軍!追撃来ます!」
後方を警戒させていた兵が報告に来た。
「全員、後ろへ向け。この場で守るぞ。怪我人は先にいかせろ」
敗退し、西南へ逃げる董卓を、幽州黄巾が執拗に追いかけて来る。
「承知!」
既に何度目かの対応である。兵達が慣れた動きで防備を構える。決定的な攻撃力を双方が持たないので、追撃に対し、体力が尽きるまで付き合う、という不毛な応酬である。
散発的な追撃をかわしながら、数日を掛け、董卓軍は常山国を横断し、元氏県の西へたどり着いた。
董卓が選んだのは緩やかな丘陵。
「疲れてるだろうが、怪我人以外は穴掘りだ。ここに保塁を築く。これ以上追撃されるのはかなわん。ここで連中に諦めてもらおう」
さすがに冀州から追い出されるわけにはいかない、という事もあった。
急いで麓の土が掘り起こされ頂きに盛られる。築山の途中に逆茂木が埋められ、短時間で防御陣地が完成した。後世、董卓壘と呼ばれる野戦陣地である。
完成した土塁の上で待ち構える董卓軍に、幽州黄巾の大群が押し寄せて来た。
「頂きを抜かれるな!本気出して突き放せ!」
董卓の激で兵士が奮起する。突然現れた土壁を乗り越えようとする黄巾を、兵士達が戟で戈で突き落す。死ぬ高さではないが、怪我は避けられまい。土盛りの壁を乗り越えるため、黄巾賊は武器を振るえない。こちらはほとんど傷を受けない一方的な防御戦である。
「皆!生きて帰るぞ!」
「オウッ!」
次から次に登って来る黄巾を叩き落す、長い長い防衛戦は日が傾きかけた頃に終わった。多数の死体と動けない怪我人を残し、幽州黄巾がのろのろと退却していく。満身創痍で。
(相手は俺よりずっと素人だな。『城』相手に力攻めをやめようとしなかった)
幽州黄巾の勢いはようやく削げた。だが、董卓の軍もそれは変わらない。廣宗の味方に合流できないまま、軍としては壊滅といっていいだろう。
(俺の所にも檻車は来るのかな?)
だが、生き残った兵士達の笑顔を見て、それでもいいか、と董卓は思った。




