8 八州燃ゆ
「大兄……」
道場の奥。かつて張角が病に伏せっていたからっぽの牀に向かって張梁はひとりごとをつぶやいていた。
「なにもかもが駄目だ……」
張梁は、自分は悲観的な人物だ、永年そう思っていたが、実際には楽天家に過ぎたようだった。今回の蜂起に関し、ここまで全てがうまくいかない、という想定まではしていなかったからだ。
各所の郵に居る信者達が必死の思いで廣宗の本部道場に届けてくれた報告が意味するところは、洛陽での作戦が失敗に終わった、という事である。そして太平道を討伐する軍が編成されつつある事。そして自分達を捕まえる手配が進んでいるという事である。
少なくとも帝は確保できると思っていた。宦官と洛陽宮内の兵が蜂起すればそれはた易い筈だった。一旦身柄を抑えれば士太夫達による帝の奪還は困難を極める筈だった。
洛陽市街が制圧できなかったとしても冀荊楊の三州で蜂起した大方三万が攻め寄せて洛陽を制圧する予定だったのだ。
唐周が裏切るとは。馬元義も宦官も捕まるとは。味方の兵は城外に追いやられ、玉体を確保できていないとは。
兄、張寶からは鄴の役所への焼き討ちに成功した、という連絡が来ている。遠すぎて連絡が来ていないが、荊州、楊州の蜂起も成功していると張梁は見ている。だかそれは必ずしも喜ぶべきことではない。もはや我々は引込みがつかない所へ来てしまったということである。
「ははっ」
張梁は乾いた笑いを漏らすとぴしゃりと額を叩いた。びっしょりと汗に濡れていた。
「もう全面対決しか残ってねぇじゃねぇか」
洛陽で反乱を起こし宦官と組んで政権を奪取する、という当初方針は捨てざるを得ない。残るは太平道の武力で漢家を倒すしかない。出血の少ないやり方を捨て、血塗られた道を行くのだ。
「伝令を!」
道場の表へ出た張梁は──冷静沈着を装って──てきぱきと指示を出した。
「全国諸方へ伝えよ。各方はこの命令届き次第、各個で蜂起せよ。郡県の役場を焼け。隣県へ、隣県へと破壊を広げよ!」
(とにかく、巧遅より拙速だ)
これで乱は全国に広がり、そう簡単に鎮圧できるものでなくなる。張梁は自分の決断に関し、今出来る最善を尽くした、そう思っていた。
だが、張梁は気付いていなかった。この指示のために、太平道は乱をどう勝つかという作戦も、どうやって兵を養うかの戦略もない、ただひたすら暴れる集団として暴走する事になった事を。
張梁はもう一つ思い付いた事を命令に付け加えた。帝が手に入らなかった、その代替を。
「諸侯王を捕まえて本部道場へ送れ!但し河間には手出し無用!」
帝が居なくとも王族を人質にし、それを交渉材料にできればよい。都に居る帝と違い、諸国に封じられた王族は警備が緩いだろう。ただ河間国への手出しは止めた。帝が故郷を愛しているのは誰もが知っている。そこを荒せば逆鱗に触れ兼ねない。
用意していた伝令達が全国に散る。彼らは全国の道観を郵代わりに使い、この指示を迅速に届けてくれる筈だ。
***
「蒼天既に死す!黄天まさに立つべし!」
どこから来たのか黄色い布を頭に巻いた集団が突然に押し寄せた。信都県の城門は内応により中から開けられ、城壁の土塁は防備の意味を成さなかった。
「歳は甲子にあり!天下大吉!」
口々に唱える集団が諸侯王の居る館を取り囲んだ。
冀州安平国信都県。章帝の子孫が代々この国に諸侯王として封じられてきた。当代は劉續という。
諸侯王はこの国の象徴であるが、実権は無く、政治は国相が執る決まりである。だがその国相は印綬を置いて既に逃げ出していた。間もなくやってきたのが黄巾賊である。劉續は誰に何を命令すれば国王の館が防衛されるのかさっぱり判らなかった。誰彼構わずわめきちらしているうちに、扉が破られ、黄色い頭巾を巻いた男達がなだれこんできた。
劉續は逃げようとしたが、何本もの手がわらわらと伸びて来て劉續を掴む。
「道兄、多分こいつですぜ」
銀糸の入った綬に玉の印。男の一人が諸侯王の証である印綬を劉續の腰から引きずり出すと、後から来た男に示す。
「よっし。これ以上傷付けるなよ。本部道場へ連行する」
引き起こされた劉續は胴を縄で括られると、城外に連れ出された。
「余はいったいどうなるのだ?」
よろよろと歩く劉續の質問に、道兄、と呼ばれた男が答える。
「廣宗の本部道場に行ってもらう。お前さんは人質なんでな」
劉續は、左右を見回してから尋ねた。
「く、車は?車はどこにある?」
「あほう。お前の足で歩くんだよ」
「そんな……そんな遠くまではとてもとても。車を仕立ててもらえぬか」
悲痛な表情の劉續に、道兄と呼ばれた男が答えた。
「郡境越えるだけじゃねぇか。それに城の馬はもう皆の腹の中だ。諦めな」
隣の甘陵国でも、甘陵の県城が襲われ、甘陵王劉忠は嗣子を殺され、自身も捕まった。
***
楊州から北上した楊州黄巾の前に、徐州の下邳がその身を横たえていた。下邳国。人口六十万の大国であり、郡治所の下邳県も巨大。当然、激しい攻防がある、そう楊州黄巾の方としては考えていた。しかし。
「なんだぁ?無防備にも程があるぞ……」
抵抗らしい抵抗もなく、黄巾賊は城門を通過した。
余裕で下邳王の館に向かう。下邳王劉意は齢九十にもなろうかという老人である。これならここも抵抗はなかろう、と踏んでいた。
館の前で待っていたのはニコニコと微笑む一人の士太夫だった。
「自分は陳漢瑜と申す者。太平道の皆様にお願いがあり、お待ちしておりました」
陳珪、字は漢瑜。五年前、陽球と共に獄死した永樂少府陳球の甥にあたる。
「ここまで御覧の通り、この下邳は無防備にございます。手荒な真似さえなさらなければ、皆様に不自由が無いよう食糧などを都合致しましょう」
「既に我々はこの城を自由にできるのに、交渉になるとでも?」
楊州黄巾を束ねる方は、鼻で笑った。陳珪の目が冷たく光った。
「わたしども下邳の民の多くが浮屠の教えを守っております。我々は浮屠の教えに従い、争いを嫌うものです。しかし我らとて無体には時に暴力で応えます。そう簡単に皆様の自由にはなるとはお思いになられぬよう」
「ぐっ……」
消極的な協力を代償に狼籍をやめろ、という交渉である。確かに、内応者が少ないこの城を一万二万の兵力で蹂躙するのは難しいかもしれない。
「……王だけは引き渡してもらう」
その要求に陳珪は苦い顔になった。
「それが……王はとっくにお逃げになられました」
***
下邳に黄巾賊が襲来する前々日に遡る。
県丞の孫堅が竹簡を握り締め、役場から飛び出してきて叫んだ。
「戦さだ!戦さに行くぞ!俺は朱中郎将の司馬として都へ向かうぞ!ついて来たい奴はついて来い!」
「おう!」
役場の回りの若者達が即反応し、喚声をあげた。
丞なのにやたらに尉の仕事をやりたがるこの若者に、大人達は眉を顰めていたが、荒くれを手なづけ、自費で面倒を見てやっていた為、一部の若者には妙に受けがよかったのである。
楊州で反乱が起きた、という話は既に伝わっていた。どう考えてもこの下邳に向かって来るだろうと思われた。ところが一番頼もしいこの男が下邳を去るという。不安に思った者達が孫堅に問い、その回答に腰を抜かす程驚く羽目になった。
「ああ、どのみちここでは黄巾を防げない。なにせ国相も県令も辞めてしまわれたのでな」
ぽん、と相手の肩を叩くと孫堅は言った。
「大丈夫。俺がまた取り返しに来てやる!」
孫堅は血気盛んな若者……貴重な戦力を千人も引き連れ、西は洛陽に向けて旅立ってしまった。
それだけではない。
国相が辞任し逃走。県令も辞任し逃亡。県丞が戦力を千人も引き抜いて去る、という話を聞いた下邳王劉意は、息子劉宣──こちらももういい加減老人である──を連れ、国を捨てた。孫堅たち一行の後について国境を越えたのである。
一族から三公を輩出した地元名士の陳珪に後始末が回って来たのは、この異常事態の為である。
「実に驚く程逃げ足の早い方であられまして……」
(孫堅のクソガキめ。何が取り戻しにくる、だ。無責任な)
陳珪は黄巾賊の方に向かい、腹立たしさをなんとか隠して作り笑いをした。
***
守令が逃げ出した郡県の城という城の住民は、黄巾賊に襲われることを恐れ、皆手に持てる家財をかかえて城から離れるようになった。だがここに、平穏を保つひとつの城があった。豫州陳国。陳王劉寵の陳県の城である。
ビン。
空気を切り裂く音がして、黄色い布を巻いた男が前のめりに倒れる。男の頭には矢が突き立っており、どくどくと血が吹き出す。
死体はその男だけではない。既に何人もの黄巾の仲間が、周囲に斃れていた。皆一矢で射殺されている。
「おい、誰でもいい。門へ取り付け」
応えるものはない。頭目はため息をつき、城門の真上の人影を睨んだ。城門の上には陳王劉寵その人が、弩を携え無表情に立っている。城壁の上にはずらりと弩が並べてある。数、数千張にも及ぼうか。
(噂は本当……いやそれ以上だった)
陳国王の劉寵は弩の名人で、十発射て全て同じ場所に当てる程の達人だという。嘘だと思っていた。皆が国王に媚びを売ってそういっているのだと。だが本当だった。劉寵は一射で必ず一人殺し、置かれた弩を次々と拾っては確実に殺して行く。
集団で掛かってみた。結果は城壁沿いに並ぶ骸である。城壁にたどり着いても内応者が門を開けないのだ。仲間は次々と射殺されていった。
射手は国王たった一人。だがその射程に入った者はことごとく死んだ。
太平道は元々救命互助の宗教である。部下に死ねという強い命令は出せない。いや、全く出せない訳ではないが、それには熱狂が必要である。必中の弩の待つ城壁に突撃せよ、という状況でそれは期待できなかった。
(こんなのが居たんじゃ、内応する気にもならんか)
陳県の城内にも太平道に同心する信者は居る筈だ。だが、住民の国王への信頼が高いので内応を諦めてしまったのだろう。
(──あるいは既に射殺されたか)
結果は膠着。黄巾賊は陳城を緩やかに包囲するが、恐れを為して誰も射程に突入できない、という時間が続いた。
しばらくして。城壁に立つ劉寵は右手だけで弩を支えると、左手を、手の平を上にして胸の高さまで持ち上げた。そして手首から先を、くいっと自分に向けて巻いた。「来なさい」という意味なのは明白だった。
頭目の肩ががっくりと落ちた。
「鉦を鳴らせ。撤退だ」
黄巾賊は陳県の攻略を諦めたのである。
「俺達だけ被害を増やしたら渠帥に申し訳ない」
彼らは波才という渠帥の率いる豫州大方の一部隊である。国王の居るここ陳県は鉄壁だが、他はそうでもあるまい。方の他の隊が攻略している筈である。
去り際に頭目が振り返ると、城壁の上の劉寵は楽しい道具を取り上げられた子供のようにしょぼくれていた。




