7 党錮を解く
夕陽が沈もうとしている。洛陽の外壁のそこここが夕陽に照らされ赤く光る。
洛陽から十里程離れた都亭は、兵士達でごったがえしていた。明らかな収容能力不足で、都亭の周囲は野営の天幕が林立する状況にあった。
皇后の兄であり、いまや大将軍に任じられた何進は、大勢の幕僚と護衛を引き連れ、その天幕の間を抜け、視察を繰り返していた。
(河南尹というのも柄ではなかったが、大将軍というのはもっと柄じゃないな)
河南尹は洛陽と長安を束ねた首都地方の行政官である。これは完全に自分の領域を超えていたが、王朝の武人の最高位、というのはもう想像を絶する高みだった。
自分はひと一人殺したことはないし、今後も殺せそうにない。豚をおいしく切り捌くのとはわけが違うのだ。
(俺はなんなの為にここに居るんだろう?)
突然帝に呼び出され、大将軍の印綬を渡された。ついでに鉞も。
洛陽城内外の全兵力を引き連れ、都のそばの都亭に駐屯せよ。脱走者は許さず処刑すること──全く意味が判らなかった。
それから数日、何かが起こるわけでなく無駄な日が続いている。
(まぁ楽だからいいが)
***
「無能、というのが安心な時もあるのじゃな」
そもそも外戚……皇后の親族は過去の通例で大将軍に就任するものである。梁冀も、竇武もそうであった。大将軍は武官の最高位である。あらゆる武官を率いるだけの格式がある。
楊賜の献策は、虎賁、羽林、五営……洛陽に居る全ての兵力を何進に率いさせ、洛陽城内から引き剥す事であった。敵か味方か判らない兵が城内に居る、という状況の排除である。残る懸念は何進が太平道の信者だった場合だが、軍を率いた経験もないので大した事はできなかろう、というのが楊賜の判断であった。
これにより城内反乱の芽は摘まれた。妨害するだけの力を持つものが居なくなった状況で、周斌は喜々として洛陽を飛び回っている。馬元義、中常侍の封諝、徐奉は即日逮捕された。
時を待たず、冀州、荊州、楊州で反乱が起きた、という第一報が洛陽へ届いた。唐周の密告を裏付けるものである。
楊賜は太尉府の自室で戦況を整理していた。
洛陽での反乱は事前に阻止した。完全な阻止だったが、実に危ういところだった。
冀州では鄴が落ちた。荊州では南陽の大都市である宛が。楊州の黄巾は北上を続けている。唐周によるとこれら三方から各数万の兵が洛陽を目指すと言う。
(三方から来るそれぞれ数万の兵を阻止し、壊滅せねばならん)
楊賜は既に方策を練っていた。
洛陽を目指す反乱である。他州が保有する兵を統合し大兵団を編成する暇はなかろう。手元の兵力からやりくりするしかない。
(まず中核は洛陽常駐の兵であるべきだ)
洛陽郊外の都亭の何進の元に駐屯する兵のうち、太平道に染まっていないものを選抜して中核とし、三河──河南尹、河東郡、河内郡から徴募した兵で増員して軍を編成する。
(虎賁と羽林は難しいか)
城内で反乱の計画があった事からしてこの二隊は太平道……宦官の買収を受けている可能性が高い。その影響を除外するには洛陽城守備の歩兵、屯騎、越騎、長水、射声の五営を中心とせざるを得ない。
まずは洛陽の防衛である。
東は旋門関。冀州から黄河を渡り兗州に入った敵を防ぐ。
東南は大谷関と轘轅関。豫州との間を塞ぐ。
南は伊闕関、廣城関。荊州との往来を止める。
西は名高い函谷関。長安と洛陽の間を遮断する。
北は孟津と小平津。冀州、并州からの黄河の渡河を阻止する。
洛陽を囲むこの八つの関に防衛拠点を築く。設備が整えば少数の兵でも鉄壁の守備が期待できるだろう。
防備が充実したら次に反撃である。討伐軍を洛陽から出撃させ、賊軍を撃破する。三方向からの敵に、楊賜が選んだ将は三人。
一人は戦上手と評判の皇甫嵩。現在は北地太守として涼州に居る。
もう一人は諫議大夫の朱儁、三年前交州刺史の時に交阯賊梁龍の数万の反乱を鎮圧した実績がある。
最後は、東観で名を馳せる議郎の盧植。学者として高名な彼だが、かつて九江、廬江で賊を鎮圧したことがある。その名声と、頼りがいのある容姿の彼ならやってくれるだろう。
楊賜は、この献策を奏上の為に竹簡にまとめあげ、紐で縛ると、更にもう一通、ま新しい竹簡を取り出した。辞表を書くためである。この乱を未然に防げなかった責任が、太尉にはある。
***
「強よ、読んでみるがよい」
帝劉宏は楊賜の献策を読み終わると、側の呂強に竹簡をばらりと渡した。
「……強は用兵を解せませんからなんとも申せませんが、血涌き肉躍るような勇ましい心地になりますな」
その感想を聞いた後で、劉宏はもう一つの竹簡を呂強に手渡した。
「……こちらは?」
「まだ辞令も出していないのに、皇甫嵩が急書を送ってきた」
皇甫嵩は涼州は北地郡にいる。涼州の中では東に位置するが、決して洛陽から近くではない。
呂強は一読後、驚いて帝の顔を直視した。
「そうだ。強よ。嵩はお前と同じ意見のようだ」
あの密談の日、呂強は帝に進言していた。
『党人を大赦なさいませ。黄老に染まらぬ味方をお増やしになるのです。党錮が久しく続き、多くの士太夫が怨みに思っております。もし許さねば彼らは張角と合力し大乱を呼ぶやも知れません。そして刺史、二千石が能く力を発揮しているか料簡なさいませ、左右に貪濁の者が居たら誅されませ』
皇甫嵩の上書には、党錮を解除する様書かれていた。さらに、皇室が貯めていた銭と、西園に集めている馬を軍の編成に使う願いも。
読み終えた呂強がにっこりと笑うと、帝劉宏も微笑んだ。
その日、詔が下った。
「天下に党人を大赦する。流罪になっているものは帰って来てよろしい。張角は許さぬ。公卿は馬と弩を供出し列将の子孫や吏民で戦陣に明るいものあれば推挙せよ。公車を以て招こう。北中郎将盧植よ。冀州へ向かい張角を討て。左中郎将皇甫嵩よ、右中郎将朱儁よ、潁川の賊を討て」
次いで、太平道の首謀者、張角らを逮捕するよう、州郡に命令が下された。
***
その郵人は、届いた木簡を一読し、一端脇に置いて上司に申告した。
「手配書です。写しを作ります」
隣の郵から送られて来た木簡には「寫傳」の指示があり、幽州の役場まで、伝達する全ての経路で写しを作り、一通はそのまま次の郵へ、もう一通はその郡県の役場へ届けて広めよという広域指示になっていた。無論、内容は張角の捕縛である。
郵人は、写しを作るとそれを県役場への転送待ちの棚に置き、自身は原本を抱えて次の郵へ向かった。大した距離でもないのに隣接する駅から馬を引き出し、北に向かって走っていった。残された写しにはでたらめな殺人犯の名と人相特徴が書かれていた。郵人は二度とこの郵に戻ることは無かった。




