6 甲子(光和七年三月五日/184.3.5)
燃えている。鄴の役所が燃えている。役所だけではない。町のいろいろな場所から黒煙が上がっている。燃えている建物の門には、すべて白泥で「甲子」という字が塗られていた。
張寶は燃える役所に見入っていたが、門が崩れ落ちたところでやっと我に返った。今日は太平道蜂起の約定の日。冀州の方、二万の信者を率い、鄴を襲うのが張寶に与えられた役割だった。
ここまでは簡単だった。ここ鄴は太平道の本拠地のすぐ側である。住民にも、城の兵士にも、信者は沢山居た。一斉に立ち上がるだけで全てが終わった。
(役場は全部を燃やさないと、ここに鎮圧軍が編成される、……だっけ?)
ここ鄴は冀州最大の町である。その役場は炎上し、もう間もなく灰になるだろう。
役場も金持ちの家も金銀食物を取り出してから燃やせ。弟はそう言っていた。
国に納める算……人頭税は銭納である。庶民は銭など持たないので、秋の収穫が来たら銭を手に入れるために収穫したばかりの粟を売る。銭を持つ金持ちは、秋には粟を買い叩くので春先はたんまり粟を持っている。夏に粟の値が上がったら売って更に儲けるつもりなのだ。その粟をぶんどって、それを食いながら洛陽へ向かう、というのが確か作戦だった。
収奪した食糧は、行軍の為に車に積まねばならない。やることが山積みである。
(早く助けに行ってやらないと)
張寶は焦っていた。今頃、洛陽では弟弟子の馬元義が蜂起している筈なのだから。
***
「これは本当かもな」
「ああ、参ったな」
騎兵が二騎、森の外れに並んでいる。彼らの視線の先には冀州最大の城砦、鄴の城がある。
鄴の城内から幾筋もの黒煙が上がっている……しかし城門は開かれたままであった。城壁上に戦闘の気配はない。問題は城の周囲を埋め尽くす黄色、黄色。
揃って頭に黄色い頭巾を巻いた男達が城外を埋め尽くしているのである。
「黄檗かな?梔子かな?」
「──それは全く重要じゃないな」
前日、鄴で起きた異変は、その周辺の亭長により、洛陽に、そして黎陽営に送られていた。
報告の、郵を使ったものの大部分は太平道の信者の妨害で届かなかったが、ごく一部の妨害を受けなかったものと、郵ではなく駅を使った直接報告が黎陽営に届いた。
黎陽営。それは冀州南端、黎陽県にある屯所である。ここには北辺の異民族対策として騎兵千騎が駐屯している。
基本的に常備軍を持たない漢王朝では、遠征軍は人口地帯での徴集か、兵役で徴集済みの郡県の兵を糾合して臨時に編成される。しかし、このやり方では常時の訓練が必要な騎兵は賄えない。そこでこの黎陽に少数ながら騎兵が常備されているのである。異変を聞いた黎陽営が出した斥候がこの二人であった。
「どうする?もっと敵状を調べるか?」
「いや、鄴程の城を一日で陥落させる相手だ。近付くのは危険だ」
郡の城を守るのはその地域で徴兵義務を果たす地元住民である。戦闘の跡も見えずに占領されているとすれば地元住民が裏切った可能性が高い。よそ者が潜入するなど危険極まりない。
「報告に帰ろう。黎陽営から洛陽に報告し、討伐軍を組んでもらうしかなかろう」
黎陽営は騎兵主体である。攻城戦には向かない。歩兵の応援が必要だった。
鄴で正体不明の賊による反乱が起き、すでに陥落。……黄色の頭巾を巻いた賊徒が
更に集結中。──黄巾の乱のはじまりである。




