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俺解釈三国志  作者: じる
第八話 歳在甲子(光和七年/184)
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4 月光

 月の明るい夜である。廣宗県の県令である唐周は一人きりで城外を歩いていた。


 県城のそば、城壁の外にはだれ一人歩いていない。当然である。この時間県城の門は閉じているのだから。唐周は県令だからこそ、門番に命令し、自分一人で外出できている。


 唐周が県令としてここ廣宗へ赴任して二年。もちろん宦官に賄賂を送ってやってきた口である。県令として苛斂誅求の限りを尽くし賄賂分の元を取るつもりだった。


 だが、彼は張角うんめいに出会ってしまった。


 切っ掛けはひどい頭痛だった。幾昼夜を越えても収まらない頭痛に、唐周は一睡もできず弱りきっていた。医者の処方した煎じ薬を飲んでも好転しなかった。しかたなく地元の高名な巫医である張角に頼った。半信半疑だった。


 張角は薄くそいだ木の板に何事かをさらさらと書くと、小さな炉の上にそれをかざした。先端から白い煙と青い炎が立ち昇り、道観を爽やかな香りが満たした。素焼きの皿の上に置かれた板はみるみるうちに根本まで燃え、灰だけが残った。

 張角はその皿を持ち上げると木の椀の上に持っていった。皿が傾くと、不思議な事に灰は舞い散らずにさらさらと椀に流れ込んだ。

 張角がその椀を唐周に差し出す。椀にはいつのまにか水が満たされており、唐周は張角の微笑みに誘導されながらそれを飲み干した。


 痛みで朦朧とする中、張角に導かれるまま、唐周は自分の過去の悪業を告白した。どんな悪事で財を成したか。どう宦官に取り入ったか。ここ廣宗でどんな悪事を働こうと考えていたか。


 気が付くと痛みは消えていた。気持ちは不思議なほどすっきりしていた。世界が変ったと思った。施術を終えた張角が慈しみの目で自分を見ていた。


 その瞬間、唐周は太平道の熱心な信者になった。県令の仕事をほったらかし、道場に入り浸った。もちろん悪事はしなくなった。無論、県の百姓からは何の文句も起きなかった。いつの間にか高弟の一人に数えられるようにまでなった。


 唐周はここ廣宗県の県令である。八州に飛んだ他の高弟と違い、ずっと廣宗県に居続けている。だから気付いてしまった。この数ヵ月、張角が表に出てきていない事に。


 唐周が独り夜道を歩き、たどり着いたのは張家の墓所である。


 唐周はかついできたスコップを表土の上に突き刺した。


(……軟らかい)


 あまりに軽い手応えに落胆した。その柔らかさはつい最近この場所を誰かが掘り起こした事を意味していた。落胆しながらも、下に下に掘り進める。


 ここは豪族の巨大な墓ではない、庶民の小さな墓だ。深さもたかが知れている。すぐに石に付き当たった。何枚か石の板が横に渡され、蓋の役目をしている。唐周は棺を納めに来たのではないので、自分が通り抜けれる幅だけ、石板をずらした。


 石の板の隙間から唐周は小さな空間に降り立った。僅かな隙間から月の光が入り込み、四角い棺の形を微かに浮かびあがらせていた。埃と、そして乾いた死の臭いがした。

 唐周がその棺の方へ向くと、彼の体がその僅かな月光を遮り、地下の墓室全体がほとんど闇に包まれてしまった。


 唐周は手探りで棺に近付き、棺をまさぐった。


(新しい……)


 木棺は乱雑なもので、素人の手製に思えた。だが、風化した感触ではない。まだ水分の残った新しい木材の触感だった。唐周はより一段と落胆した。


 唐周の指先がとっかかりを見付けた。棺の蓋である。指先の力だけで蓋を引き剥す。ばこん、と予想より大きな音がして蓋が外れた。


 棺の中は僅かな光も入り込まぬ真っ暗な空間だった。唐周はその暗闇にそっと指を進めた。


 指先がかさかさと骨張ったものに触れた。冷たかった。乾いていたが弾力が残っていた。でこぼこから胸郭だとわかった。手を頭の方向に移動させる。組まれた腕を、筋張った首を越え、唐周の両手は痩せこけた死骸のほほを包んだ。


(───────!)


 唐周の目から熱いものが迸り、棺の暗闇に落ちていった。喉からは呻き声が涌き起こり、その嗚咽が狭い墓室にこだました。


 唐周が惚れ込んだ神人。あの神威、あの超常はもうこの世にはない。


(せめて死体がなければ諦めもついたのに……)


 道士が仙人になる方法に尸解、というものがある。道士は一度死ぬ。そして離れた魂魄がもう一度死体を取り戻し昇仙するのだ。その場合棺に死骸は残らない。ここに敬愛する張角の死骸があるという事は。


(あの人は、死んでしまった。常人の様に)


 痩せこけた道士だった。骨と皮ばかりで、いつも鬼気を漂わせていた。いつ死んでもおかしくない様に見えた。だがそれは神通力の代償だと知っていた。唐周は今でも張角の超常を信じている。彼が常人の如く普通に死んだとしても、それは揺らいではいない。その命を他人の為に燃やし尽くしたのだから。


(でも)


 唐周の信仰は張角本人に捧げられたもので、教団や弟達には向いていない。この瞬間、唐周は醒めたのである。現実に戻ったのである。


 唐周は蓋をそっと戻すと、暗闇の中で棺に拝跪して、穴を抜け出した。石の蓋を戻し、土を掛け直す。ここまで行なった逆順の作業に没頭した。だが、思考はある一点に集中していた。


(あの方が居られないのに彼らは成功するだろうか?)


 両手でパンパンと土を叩き、平たくならす。


(無理だ)


 月の光を浴びながら唐周は確信した。


(張梁は田舎の小才子に過ぎん。宦官を甘く見ている)


 唐周が廣宗の県令になれたのは宦官と癒着したからである。宦官のしぶとさ、恥知らずさを熟知していた。洛陽で成功の頂点で腰斬され晒される張梁の姿が脳裏に浮かんだ。太平道がいいように使われた末に滅ぼされる未来が見えた。


(いや、そもそもそこまで成功しないか)


 官軍に攻められ、炎上する廣宗の道場。


(俺も助からんだろうな)

 

 太平道の反乱を看過した事で罪に問われる事は間違いない。


(密告しかない)


 太平道の反乱を密告する事で罪を相殺するのだ。


(……郵は無理だな。自分で行くしかない)


 太平道は巨大組織である。彼らはどこにでも混じっている。役所だってそうだ。そもそも自分がその一員である。当然郵にも入り込んでいるだろう。封泥した上書で密告するとしても安心できない。洛陽まで自分でたどり着き、密告しなければ。県令が許可無く自分の支配する県境を越える事は許されない。その禁を破って強行軍するのである。県令を辞めてしまえば罰せられないだろうが、無官になってしまえば誰も会ってくれないだろう。県令の印綬は必要だった。


(ぎりぎり直前に、ここを出奔する事になるな)


 唐周はその算段をしながら廣宗の城門へ戻る夜道を歩いた。月だけがそれを見ていた。


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