1 黄夫(光和七年四月/184)
森の向こうに薄いもやが立った。土煙はそこに大人数が移動していることを意味している。時間が経つにつれ、土煙が濃くなっていく。
県を囲む城壁……土を突き固め、盛り上げた土塁の上に立つ見張り番は、その動きに危機を感じた。商人の車が起こす土煙の濃さではないからだ。
「おい、近付いて来ていないか?」
「そう見えるよな……」
前ぶれもなく大人数が移動するような事が起きるとすれば、それが軍にせよ賊にせよ厄介事に決まっている。
「県令殿へ御報告を──」
「あいつは昨日逃げちまったただろ。とりあえず県尉殿だな」
県尉は県令の下で県の軍事を担当する官である。県令は昨日、その身分を証明する県令の印と綬とを執務室に置きどこかへ逐電していた。つまり目下この県城には責任者がいない。
「丞殿は?」
県令の次官である県丞の事である。
「どっちにも御報告だろ!急げ!」
ごたごたしている間に土煙が地響きに変った。森の間の街道筋から、わらわらと男達が駆け出して来た。それも何百という数である。なぜか全員が頭に黄色い布を巻いていた。
『蒼天既に死す!』
彼らは口々に叫びながら、こちらに向かって走って来る。
『黄天まさに立つべし!』
その手には薪雑棒、石包丁、剣に戈。男達の手には、思い思いの、そして不揃いの武器が握られている。官軍ではありえない。賊だ!
『歳は甲子にありて』
その叫び声はどんどんと大きくなる。
「閉門!閉門!」
城壁上からの切迫した声に、門番が慌てて門を閉じようと左右の重い門扉を引く。が、閉め終わる事ができずにばたりと倒れた。もう一つの門扉を引く筈の門番が、突然後ろから同僚を刺したのである。
「おい!お前いったい!?」
上からのぞき込む見張りの声を無視して、刺した方の門番は懐から黄色い布を取り出して悠々と頭に巻いて言った。
「天下大吉」
***
役所が燃えている。三老の家も燃えている。どれも数日前に白泥で「甲子」と落書されていた家だ。落書の意味は今なら判る。内通者が燃やすべき場所を示したのだ。
抵抗した者は皆殺された。武器を捨て命乞いをした住民は一箇所に集められた。男と、女子供老人に分けられ、どちらも武装した男達に囲まれていた。
黄色い頭巾の男の一人が、悄然としている住民達に向かって話し掛けた。
「皆さん、太平道へのご寄進、ありがとうございます」
にこやかに笑う男の後ろにはここの住民の家という家からかき集められた食糧が山と積まれていた。
「皆さんにはこれからの生き方を選んでいただきたい。食糧の無くなったこの県に残って飢え死ぬか、我ら太平道に入り隣の県へ寄進を頂戴に行くか、です。どちらの場合でも皆さんのご家族は我々に御同道頂きます。悪しからず」
優しげな男の口調にも関わらず、黄色い集団は何の選択肢も与える気が無いことは明白だった。家族を人質にするから賊に身を投じろ、という意味だ。
黄色い集団の中には昨日までの隣人も散らばっていた。内応までして城の陥落に手を貸した彼らは黄色い頭巾を巻いて一段上からにやにやと笑っていた。
苦虫を噛み潰す様な表情で、一人、また一人と住民が黄巾の賊に応じることを承諾していった。
「皆様の太平道への入信、大変喜ばしい。幸い食糧に余裕があるので祝宴と致しましょう。祝宴が終わったら、次の県へ向かいます。存分に食べて英気を養ってください」
男も、女も、老人も、自分達の貯えていた食糧が浪費されていくのを虚ろな目で見つめていた。




