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俺解釈三国志  作者: じる
幕間8 女の戦い(熹平四年/174)
107/173

11 皇后

 洛陽北宮章徳殿。年の暮れの冷たい空気の中、左右に百官が立ち並ぶ中央を何貴人は歩む。

 進む先に立てられたかさの下には天を司る太尉が。左には皇室の序列を記録する宗正が。右には皇后の長秋宮の長官、大長秋の曹節が。何貴人の到来を待ち構えている。陛の上では皇帝がその様子を見下ろしている。


「……汝何貴人を皇后と為す」


 宗正が、先日帝から発せられた、何貴人を皇后に迎え入れよという詔を読み上げた。何貴人……いや、何皇后は謹んで拝受した。

続いて太尉が捧げ持った綬を何皇后に授ける。直接のやりとりはできないので、大長秋が跪いてうやうやしく受け取り、何皇后にお渡しする──


 何皇后は一連の儀式が終わり、ようやく肩の荷が降りた気がした。


 この一年のつきっきりの教育で、皇子はなんとか挨拶ができるまでには成長した。今上への目通りも叶った。陛下は何貴人を皇后にすることに同意したが、皇子を立太子する事は保留とした。今後の成長を見て決める、ということである。


 なんとか、ここまでこぎ着けた、その安堵感である。今後も愛情を注げば、皇子もきっと。


 空を見上げる。掖庭から見る空と何一つ違わないが、掖庭の外、というだけで開放感があった。なにしろ六年ぶりの外。はじめての北宮。立后の儀式があるから出られたのである。


 あたしたち囚人みたい。華やかな囚人。


 百官の中に、満面の笑みを浮かべる兄が居た。役人の衣装が随分板についていたが、あの笑みは知っている。猪を捌いて最高の肉を目にした時の笑みだ。


(あたしはいままでで一番高く売れた肉ってわけか)


 囚人ですらなかった。


***


「美人。お薬でございます」


 やってきた宦官はそういって薬湯の入った小さな杯が置かれた盆を捧げ持ち、微笑んだ。王美人は震える指でその杯を摘んだ。


 王美人は美人にして豊色、つまり男に好かれる容姿をしていた。それだけでなく頭脳も優秀で、書も会計も得意だった。名家の出だったが、容姿と書の趣味で、帝から寵愛された。


 何貴人の立后と時を同じくして王美人への寵愛はとうとう結実し、それは宦官には隠せなかった。張讓へ注進が飛び、張讓は堕胎薬の用意を指示した。


 杯から立ち昇る湯気から強すぎる麝香の臭いがしていた。とても飲めそうもない様な臭い。


 これを服んで帝の子を流さないと何皇后に殺される。拒むと次は鴆毒が待っているとの噂である。それを帝に告げ口してもやはり死ぬ。

 なんら命令はされておらず、したがって証拠もない。だが、確実にそうなのだ。ただ宦官が薬湯を勧めてくるだけ。それを拒めないのだ。


 取り囲む宦官が見守る中、王美人は涙を流しながら杯の薬を口に流し込んだ。


(私の赤ちゃん……)


 恐怖と罪悪感で卒倒しそうである。手の震えで、薬湯は外にこぼれ、あごを伝い、ほとんど喉を通らなかった。ついに杯は指から滑べり落ち、砕けて散った。


 宦官の一人が王美人の震える手をその両手ではさんでくれた。温かい手だった。


「息を静かに大きくお吸いください。はい、吐いて」


 気息が整うのまで待ってくれた。


手の震えが止まった所で、別の宦官がやってきた。


「美人。お代わりでございます」


 そういって薬湯の入った小さな杯が置かれた盆を捧げ持ち、微笑んだ。


 その夜、王美人はお腹の気持ちの悪さに牀で呻いていた。全身が重く、指一本持ち上がらない。寝返りも打てず、痺れて動いてくれない体を持て余し朦朧としたまま夜を過ごした。明け方近く、ようやく気絶するように眠りについた。


 熱い。背中が焼けるように熱い。


 まぶしい。前が見えないほどまぶしい。


 自分は背中に灼熱を浴びながら、一歩一歩前へ歩んでいる。

振り返ると、熱い筈だ。すぐ背中で太陽が燃えている。

 自分は太陽を背負ってどこかへ歩いていこうとしている。


 なぜ私はそんな事をしているの?意味を考えている時に目が醒めた。


「おはようございます。美人」


 爽やかな朝日の中、枕元で夜通し監視……看病していた宦官が、やさしく微笑んでくる。何事もなかったかの様に。


 起き上がる。牀は特段汚れておらず、自分のお腹に何かが起きた気がしない。


 宦官達がひそひそと話をしている。視線は自分の下腹部に向いている。


 私はいつ流産するのだろう?

 

 そんな疑問を感じながら、二日が経った。


 朝目覚めると、宦官の顔ぶれが突然変っていた。


***


「やられました。王美人を保護されました」


 張讓は報告し、何皇后の前で腹這い、叩頭して謝罪する。


「謝る必要はないわ。妾とお前、両方に害のあることだもの。王美人は薬をまなかったの?」

「服んだのは確認しております。体質からか、効かなったようでございます」

「そんな事もあるの……じゃあもっと強い薬を服ませなきゃ」

「それができなくなりました。監視させていた中黄門達が蹇碩の配下の者に排除されました。薬を服ませた事で王美人の妊娠が伝わったようです。王美人は永樂宮で保護されております」


 張讓をはじめとする宦官達の大多数は何皇后に荷担してくれている。宦官が擁立した何皇后と、宦官の親戚である皇子の時代になれば、よりいっそうの宦官に有利な政権ができる、そう考えているからである。

だが、永樂宮に所属する宦官達は違う。董太后の時代が来ることを願ってやまないのだ。


「目先の銭に目が眩んだ愚かな連中です。いつだって皇太后は宦官の敵ですのに」

「皇太后は孫を欲していない筈じゃなかったかしら?」

「こちらに既に皇子が居られますから」


 董太后は、今上が崩御した後も、次の皇帝をどこか親の無い皇族から養子にもらい、君臨し続けようと活動していた。その為に孫に当たる男子が産まれない様、暗躍していたのである。その目論見は何皇后が子を産み、守りきったので既に潰えている。今、もし今上が崩御されても何皇后の子が即位し、何皇后の親政が始まってしまう。


「それじゃ王美人は」


 張讓は無言で首を横に振った。


 翌光和四年、帝に次男が産まれた事が公表された。

 続いて、王美人が死去したとの噂が流れてきた。

 子は董太后が保護しているという。これ以降、何皇后の子を史侯。王美人の子を董侯と呼ぶようになった。育ての親の姓が冠されたのである。


「やっぱりね」


 董太后が欲したのは、何皇后の子に対抗できる皇子であって、その母は不要である。何皇后にも張讓にもこの展開はとっくに読めていた。


 だが、読めていない事もあった。


 張讓が来るなり平伏して報告した。


「大変でございます。帝が大層お怒りです」

「あちゃー。とうとうばれちゃったか」


 董太后だけでなく、何皇后も貴人達の堕胎に関与していた事は、いずればれると思っていた。だが、董太后の悪業を見逃していた今上になら、何皇后も許してもらえると思っていたのである。


「いえ、王美人殺害の件でございます」


 は?やってないし。


「妾は関与していないし……張讓もそうであろう?」

「はい。間違い無く永樂宮の仕業でございます。しかし、今上はそう思っておられない御様子。廃后まで口に出されております」


 ばかばかしい。帝崩御の後を見据えた権力闘争、という視点でみれば、誰が犯人か簡単に判りそうなものなのに。


 何皇后はしばらく考え込んでから、ようやく答えを見付けた。


「……ああ、そういうこと?」


 何皇后が王美人に嫉妬した結果という視点に帝は立っている。


「誰からでも愛されて当然って思ってるんだ。純ねぇ」


 張讓は立ち上がって一礼する。


「帝をお宥めに行って参ります」


 長秋宮を出ようとする張讓の背に、何皇后は声を掛けた。


「愛情のあまり、悋気で。そういう事にしてあげて」

「はい。その線で進めさせていただきます」


 静かになった長秋宮で、何皇后は夢想する。


 今度、何か帝が喜ぶような事をしてあげなくちゃ。

 そうだ。掖庭で市を開くのはどうかな?

 きっとあの人、喜んでくれるわ。


(了)


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