9 子
「美人。お薬でございます」
やってきた宦官はそういって薬湯の入った小さな杯が置かれた盆を捧げ持ち、微笑んだ。
白い杯に満たされた赤みがかった煎じ汁からはうっすらと湯気が立ち、そして強烈な臭いを放っていた。飲むな!と全身が拒絶する様な臭いだった。
「これ、飲まなきゃいけないの?」
美人は震える声で確認する。取り囲む宦官全てが微笑みで応える。
「本当に?」
周りを囲む無言の微笑み。
「噂は本当だったのね……何貴人に知られたら堕胎薬を飲まされるって」
誰からも答えはない。
自分の世話をする宦官全てがお腹の子の敵。その絶望的な状況に、美人は観念し杯に白い指を伸ばした。
***
「あの子、今日はどうだったの?」
「特に問題はないようです。何かありましたら急ぎお知らせいたします」
「そんな事が聞きたいわけじゃないの。様子が知りたいの」
張讓は毎日の質問責めに辟易していた。我が子と引き離された何貴人にとって、最大の関心事は息子の事であり、毎日同じ質問を投げかけて来る。
しかし張讓も実際に確認に行くことはできない。沐休の宦官からの言伝なので大した事は言えないのだ。そこで話題を変える事にした。
「例の美人ですが、今朝無事に流産したとの事です」
「あらそう。ありがとう」
今上劉宏の男子は、何貴人の子一人。御年五つ。だが立太子されたわけではない。しかも城外の道士の元に匿われており、父帝と対面したことはない。
もし城内に弟が産まれてしまって、それが帝の目に触れてしまったら?
我が子の立場がなくなってしまうのは困る。それを考えた何貴人は、張讓に相談した。結論は産まれる前の抹殺、である。
皇帝に寵愛された貴人、美人、宮人。彼女達が気付くより早く、宦官は彼女らの妊娠を察知した。なに、見立てが間違いで、実際には妊娠していなくても別段構わない。誰彼なく堕胎薬を飲ませるまでである。
飲まなければ次は猛毒を飲ませるぞ。生活の全てを任せている宦官達が一丸となって圧を掛けるのである。逃げ場がない女達は最終的に従うしかないのだ。
***
宋皇后の廃后とその死を機に、何貴人を皇后にすべく宦官達は運動を続けていた。
だがこの年。司隷校尉となった陽球により王甫が殺され、陽球を恐れた宦官達が活動を控えた為、話は立ち消えになる。曹節の反撃により陽球は誅されたが、何貴人の立后は遅々として進んでいなかった。
光和二年も暮れる頃、何貴人は張讓に焦りをぶつけた。
「あたしのなにがいけないっての!?」
何貴人の疑問に張讓は応える。
「やはり足りないのでございます。皇后におなりあそばすのに決定的なものが」
「だから、それはなに?」
「皇子、でございます。帝はまだご対面なさっておりません。皇后は皇太子の母のことでもあるからでございます」
「史道人の所から、呼び戻すっていうの?」
「そろそろ皇族としての教育も必要です。お戻しになる頃合いかと」
何貴人は軽く絶望した。息子の為に皇后になりたいのである。皇后になる為に息子を危険にさらしたくはない。
(ここを出てあの子と辺境へでも逃げればいいんじゃないかな?)
そんな考えが浮かぶ。でも現実にはそんな事は不可能だとも思った。
「判った。呼び戻して。ここで守りましょう」
***
「……どういう事なの?」
別れて四年。阿母達に連れられて来た子供は、もはや赤子ではなく、ずいぶんと立派に成長していた。父親である今上の面影もある。何貴人の直感が、間違いなく我が子であると告げている。だが、その子は
「……」
ただぼぉっと座ってもじもじしているだけだった。
「いったいなにがあったの?」
何貴人の声が低くなった。
阿母達が争って言い訳する。
「史道人が授乳の時しか皇子に近付けてくれなくて!」
「話し掛け、あやしてあげたいのに請室に入らせてくれなかったの」
「私達、機会を見付けてはいっぱい話し掛けました!」
育児の為の接触を制限され放置されて育った我が子は、言葉が遅れて育ってしまったのだ。
何貴人は恐ろしい形相で阿母達を睨みつけ、宣言した。
「──これからはあたしが育てます」
張讓の提案に乗るんじゃなかった。しきたりなんか無視して、ずっと最初から自分が育てれば良かった。
何貴人は涙を流しながら我が子を抱きしめた。
「ぼうや、ぼうや、これからはこの母がずっと一緒ですよ」
猫撫で声で我が子にほおずりしながら、何貴人は張讓に命令した。猫撫で声のまま。
「張讓。阿母達を殺しなさい。史道人とその周囲も。この子の様子をあの婆ぁに知らせたくない」
何貴人からは張讓が見えなかった。だが長い付き合いである。応答の間の長さで、嫌なのだろう、逡巡しているのだろうと思った。だがそれでも張讓は答えた。
「仰せのままにいたします」




