8 花嫁泥棒(光和二年/179)
ずさり。
筵に巻かれた何かを曹操は牀の上へそっと横たえた。それからようやく息を整える。ここは洛陽。曹操宅である。重荷を背負っての逃走だった。
(本初には悪い事をしたな)
逃げる時におとりに使ってしまった。
体格がいい上に叫びながら生け垣を飛び出したのだ。自業自得というかなんというか。
(いや、そういえば本初を指さして「賊がここに居るぞ!」って叫んだ気がする)
許してくれるだろうか。うん。許してくれるさ。
がさり。
筵が動いた。筵はくるまれた中身を反映した曲線を描き、それは人の形をしていた。
***
頓丘の県令をしていた曹操が洛陽に居るのは、去年宋皇后が廃され、暴室で憂死したからである。宋皇后廃位に連座してその父宋酆、そして兄弟達も誅された。その兄弟の中に宋奇が居た。宋奇の妻は曹操の従妹であり、曹操もそれに連座して免官という処分を受けたためである。つまり巻き添えである。
頓丘からの帰路、曹操は丁夫人と子供達と別れ、ひそかに洛陽に潜入していた。「奔走の友」の現状が気になった為である。
時に、尚書令の陽球は宦官に迎合してかの大儒、蔡邕を追放していた。儒者中の第一人者であり、帝のお気に入りだった蔡邕すら讒言で追放されるのである。洛陽の士太夫の気持ちは萎えに萎えていた。
何顒など手配を受けているものに今の洛陽は危険すぎる。奔走の友の大部分が洛陽を離れ、全国に散っていた。
「近頃は屈んでばかりで奔走の友の存在を示せておらんぞ。何かできんかね?孟徳」
袁紹も鬱屈した思いのようだった。家族の護衛として夏侯惇を譙へ送った曹操も洛陽に一人きり。たった二人では何程の事もできようがない。そう思っていた折である。
「孟徳。面白い話を聞いたぞ」
「なんだ?」
「張讓が後妻をもらうらしい」
曹操は少し首を捻った。別に面白いという程でもない。宦官でも妻を娶るのはもはや普通の事だろう。
「なにやら洛陽一番の美女らしいぞ」
「それで?」
袁紹はにやりと笑った。
「婚儀を台無しにしてやろうぜ」
なにを言ってるんだ、この男は……。そんな事にいったい何の意味がある?奔走の友の活動としてふさわしいものなのか?
十才も年上のこの友人は時折分別と言うものを無くす事がある。子供のようなことを平気で言うのだ。
曹操は即答した。
「いいね。やろう!」
俺も分別は時々ないもんな。面白さには勝てない。
そんなこんなで二人して覆面姿になって婚儀の席に乱入。花嫁を拐って撃剣沙汰があったり袁紹が生け垣の枳に引っかかったりしてなんやかんやとあった。
今、その結果が筵の中から起き上がって来た。
花嫁らしく着飾った、少し眠そうな顔の女。
(洛陽一の美女、というのは言いすぎかな。でもまぁ、結構好み)
体はいい。すごく。張讓は抱き心地を優先したのだろうな。そう思った。
女はきょろきょろとあたりを見回している。
「すまん。手荒な真似をした」
曹操は頭を下げた。
「様子のいい美人が宦官の妻になって男を知らずに終わるのは可哀想だと思ってな」
そう言ってにやりと笑った。
もしこの女が自分の意志で張讓の元へ戻る事になったとしても、この女は被害者で俺が加害者でないといかん。そう思い下卑な表情を作った。
女はくすり、と笑った。
「わたくし、ちょっとは知られた倡妓だったつもりですのよ?男を知らないってわけ、ないでしょう?」
(む、むぅ)
その笑顔に曹操は参ってしまった。顔の角度、目線、口角。笑顔一つに手管が溢れていた。客がいっぱいついていたんだろうな、と思った。
「わたくし、しがらみで中常侍に身請けされましたから、こんな事があっては店へはもう戻れません」
そういうと上目遣いにこちらを見てきた。
「俺のところへ来ないか?張讓に君はもったいない」
完全に誘導されている。曹操はそんな自分を面白く思った。
女の小さな舌が唇を割ってちろりと上唇を舐めるのが見えた。
「中常侍のところに嫁げば、一生贅沢し放題って聞いていたのですけれど──」
金銭の代償を求めているのか?と一瞬だけ曹操は思った。違った。
「子供を産むことは叶わないっていうのが残念だったのです。……わたくしに子供を授けてくださいますか?北部尉様」
後に卞夫人、と呼ばれる女性を連れ、譙に帰った曹操は丁夫人の怒りに触れる事になる。




