5 出産(熹平五年/175)
宦官達の雰囲気が変った。彼女は身内である。守るべき対象である。そんな親愛が彼らの視線に加わった。だから、何貴人には何も畏れることはなくなった。安心して日々を送った。
宦官達の厳重な警戒と手厚い保護の中、彼女は赤ちゃんを産んだ。男の子だった。
泣きわめく我が子の声に安心しながら、汗だくで、荒い息で何貴人は思った。
(安心しちゃ駄目。皇太后の手からこの子を守らないと)
そこで気付いた。
(あれ?あたし、いつまでこの子を守ればいいの?)
この子が帝になるまで?いやそれでも安心できないんじゃ?
汗と血に塗れ、やつれた顔で何貴人は傍らの、義弟の義父に尋ねた。
「張讓。董皇后だけど、どうにかして殺せないかな?」
一瞬、宦官の全身がこわばった気がした。
「帝は孝心深い方でございます」
殺せるけれど、帝の寵愛を失う、か。
妊娠が判明してから出産まで、一度も顔を見せなかった帝の愛情など自分には必要ないが、この子には絶対に必要だろう。
「じゃぁ張讓。この子を守る方法を考えて。赤ちゃんを殺すの、簡単すぎる……」
こんなあたたかくてぐにゃぐにゃとした柔らかい生き物、隙を見て地面に叩き付けるだけで事足りるだろう。
味方になった宦官達だが、貪欲な彼らである。買収されない保証もない。
「貴人。市井の貴方には辛いことでしょうが、高貴の方が自分の子を育てる事はできないのが定め。複数の乳母が付き、阿母として育てることになります」
それは前々から聞かされていた。出産が近くなればなるほど、辛くなって一人涙を落したものだ。
「洛陽城内では守りきれません。城外の、讓が信頼する者に預けます」
掖庭内では皇太后の権威は絶大だ。その外に逃す、と宦官は言っている。
前々から我が子を引き剥される覚悟を迫られていた何貴人は、城外に移すこと自体には衝撃を受けなかった。だが、我が子が可愛くないわけでも心配でないわけでもない。
「どうするつもりか聞かせて……」
「史子眇、という道士がおります。彼ならば命に換えても皇子をお守りするでしょう」
「道士にちゃんと育てられるの?」
「黄老の教えに、請室というのがございます。まじないをする場所で、罪の告白をする場所でございます。そこは一切の邪が入って来ない神聖な場所でございます。そこで育てれば子は健やかに育つとか」
「そう……」
何貴人は寂しさを振り切る様に首を振った。
「じゃあ、あたしはこの子が陛下に忘れられたりしない為に皇后になる。張讓、手伝ってくれる?」
権力が欲しいわけではないがこの子を害するものを排除するには権力が必要だと思った。
***
小さいが立派な建物である。各所が朱漆で塗られていた。西に開けた建物である。奥、すなわち東の壁際に祭壇があった。祭壇には丹砂などの薬が並べられていた。壁には魔を断つ鉄の刀が飾られていた。天井に吊下げられた美しい彫り物のすき間から灯りが部屋を照らしていた。香炉からは不思議な香りの煙が立ち昇っていた。
朱塗の戸が開かれた。男が一人入ってきた。両腕で赤子を抱いていた。
男は何か呪文を唱えていた。道教の口訣である。歩きながら口訣は止まらなかった。
右足を出し、また戻し、左足を出し、また戻す。奇妙な歩法を使っていた。
壁の様々な神仙の絵に拝礼しながら、部屋の中をうろうろと、しかしゆっくりと奥の祭壇に向かっていた。
ついに祭壇の前にたどり着いた。口訣が止まった。
男はそっと赤子を祭壇に横たえた。そして、赤子を起こさぬよう、小さな声でつぶやいた。
「ご安心ください。我ら太平道がお守りいたしますよ」




