54、沙胡蝶、水簾洞の回想①
少し長くなってしまいました。
自分が三蔵法師であると名乗った玄奘と話をしていたら、少し離れた席で叫び声が上がり、悟空と周りの人達が大騒ぎを始めた。玄奘が席を離れたので、沙胡蝶は玄奘は騒ぎを止めに行ったのかと思ったが、玄奘まで何やら経を唱える唱えないと言い争いまで始まってしまったので、沙胡蝶は驚いてしまった。
旅で知り合った者達に、お坊様とは神様仏様の教えをお経にしていると聞いたことがあった沙胡蝶は、もしかして。この大騒ぎは言い争いではなくて、神様仏様の教えのことで白熱した議論をしているのかもしれないと思い直した。言い争いなら止めに行きたいけど、議論を交わしているだけなら邪魔をしてはいけない。
そう考えた沙胡蝶は、玄奘にここで待っているようにと言われたことを思い出し、とりあえずは果実水を飲み終えてから、どんな議論を交わしているのか聞きに行こうと決めた。何故ならば食事の途中で席を立ってはいけないとミス・オクトに食事の作法を習っていたからだ。
一人、暇になった沙胡蝶は、そういえば、あの時、おかしな夢を見たなあと思っていた。孫悟空が沙胡蝶を助けようと奮闘していたあの時……。沙胡蝶は大量の酒精で眠ってしまい、母の胎内にいるときの夢を見ていた。
覚えているはずもない記憶。きっとこれは夢の中の思い込みで、現実ではないと、どこかで思いながら見ている夢。そんな夢を見ていた。
目に映る夢ではない。大音量の心音と優しげな女性の声と気の強そうな女性の声。耳が覚えている記憶。気の強そうな女性の声には、聞き覚えがある。海の魔女と呼ばれているミス・オクトだ。今の彼女より少しだけ声が若い気がする。だから多分大音量の心音と優しげな女性の声の持ち主は、沙胡蝶の母だろう。
夢の中で二人は、ずっと話をしていた。会話の内容から、後宮で独りぼっちだった母を心配して、ミス・オクトが様子を見に来ているのだろうことが窺えた。母だろう女性がお礼の言葉を言うと、ミス・オクトは決まってこう言うのだ。
「お礼なんて止めてよね!私は足のあるあなたが王の寵愛を得た理由を探りに来ているだけよ!」
「寵愛を得たといっても、たった一度だけなのよ、愛を交わしたのは……。それに愛を感じたのは私だけで彼はそうじゃなかったのよ。だって、あれから一度も会いに来てくれない。彼の子を身ごもっているというのに……」
ひどく気落ちした母の言葉に、ミス・オクトはフン!と形ばかりで鼻を鳴らせた。
「それでも足があるのに交わりが求められただけで、私には羨ましい限りよ!ねぇ、蘭妃、知ってる?この海の国で足がある者が蔑まれる本当の理由を?」
「わからないわ」
「それはね、尾ひれしかない者にとって、足のある私や烏賊族、それに人間とかが自分達を食べる捕食者にしか見えないからよ!その恐怖を隠すために、わざと嫌うのよ!」
「え!?そうなの!?それって海の国の大半の者が魚の化生だから?」
「そうなのよ!竜王だって元は川を遡って、滝を登って竜になったという鯉が先祖だって噂があるのよ!だから竜だなんて偉ぶってるけど、あいつらの先祖は川魚なの!弱い魚にとって捕食者である蛸や烏賊、人間が潜在的に恐怖の対象なの!足を持つ者が恐怖の対象であるはずなのに、竜王達は人化するんだから笑っちゃうでしょう?足があるのが怖いのに羨ましくて、でも怖いのよ、あいつら!……でも彼は怖いはずのあなたを嵐の海で見つけたとき、何故か助けて手を出さずにいられなかった。あなたの、その怖さを乗り越える魅力が私も欲しいのよ!」
こんな会話が繰り返される。母のお腹は、どんどんと大きくなったようでミス・オクトの心配げな声音がした。
「ねぇ、人間ってこんなにもお腹が膨らむものなの?本当にあなたは大丈夫なの?」
「フフフ、大丈夫よ!海の国の人達は、卵を産む人がほとんどだろうけど、人間はお腹で赤ちゃんを大きくするの!……ねぇ、ミス・オクト。この間、頼んだ事はどうだったのかしら?」
息を呑み、返事が出来ないミス・オクトの様子に母の絶望したような声音がする。
「……そう、気を遣わせてごめんなさい。どうしてあの人は私を解放しないんでしょう?……陸に帰りたいな。せめて、もう一度だけ故郷のあの花が見たいのに……」
「……それって、どんな花なの?」
「私の名前の由来になった花よ。白い蘭の花で胡蝶蘭というの。子どもが女の子だったら胡蝶と名付けたいわ」
「あら、竜王の子の名付けには、陸の物の名前は禁じられているわよ」
「それなら……。沙を名前の前につけるわ。沙は、水辺の砂の意だから大丈夫なはずよ」
「……あなたが本当の意味で沙をつける理由は何?」
「さすが海の国で一番、聡明だと言われる蛸族なだけあるわ。勘が鋭いのね、ミス・オクト。実はね、沙羅双樹と呼ばれる木が陸にはあるの。その木の白い花も私は大好きなのよ」
「沙は沙羅双樹の沙、胡蝶は胡蝶蘭の胡蝶で、沙胡蝶。ハハハ、良い名前じゃない!それにしましょう!そうだ、いいことを思いついたわ!男女問わずにお腹の赤子は沙胡蝶にするのよ!……いいこと?例え、沙という文字が水辺の砂の意だとしても、本当の名前の由来が陸に咲く二つの花なら、半分竜王の血が流れているとしても、あなたの子どもは竜王の魔力の支配下から逃れられるわ!赤子は半分あなたと同じ陸の人間の血だし、陸の物の由来の名付けによって、より強い陸の加護が得られるはずよ!陸の加護を得た海の国の者は、あまり鱗を持って生まれないの!生まれてくる赤子の鱗が少なければ少ないほど、海の王の魔力に抵抗できるし、陸の加護が強いと海の国の結界は通じないの!だから将来、赤子が大きくなったら、海の王の許可がなくてもあなたを連れて、親子で陸に帰れるのよ!」
「本当!?」
「本当よ!海の魔女の言葉を信じなさい!名付けのことも鱗のことも上手く誤魔化してあげるし、赤子が大きくなった時も、全力で協力してあげる!それに、おまけで秘蔵の千年アコヤ貝の特大真珠を餞別にプレゼントするわ!!」
「あら?それって確かあなたの6本の足で思いっきり蹴飛ばされて、盆のようにペッチャンコになっちゃった、あの大っきな真珠?」
「なによ。普段から粗忽者みたいな表現しないでよ。あれは海の王に100回目の告白を断られて、つい腹が立って蹴っちゃったのよ!せっかく告白が上手くいったら、婚約記念に私の宝物を海の王にあげようって思ってたのに!あれはね、私の千年分の魔力を注ぎ込んだ超A級の極上品なのよ!あれさえあれば四海竜王のトップの座に余裕でなれるくらいの魔力が手に入ったのに!物にも釣られてくれなかったわ!!だから私の宝物は、あなたにあげる!あの真珠は私の魔力を千年吸わせ続けた特級品の魔道具よ!」
「そうね、綺麗なお盆だから、特級品に間違いないわね」
「もう!からかわないで!!魔力のないあなたにはわからないだろうけど、本当に、本当に、ものすごい者なんだからね!お盆でも受け取ってよ!」
「フフフ、からかってごめんなさいね。ありがとう!……ああ、楽しみだわ。沙胡蝶に会う楽しみがより増えたわ」
「ハハハ、私も早く沙胡蝶に会いたい!」
これは、夢だ。沙胡蝶は夢を見ているだけだ。沙胡蝶の母は沙胡蝶を出産直後に命を失ってしまった。母の出産に立ち会い、取り上げてくれたミス・オクトが沙胡蝶の名付け親だ。名前の由来は、水辺の砂に埋もれる小さな貝が蝶という幻の生き物に似ている……という意味だと、父である海の王に説明したと彼女は語っていた。だから、この夢が本当であるはずがない。……でも本当だったら、どれだけいいだろうかと沙胡蝶は思う。
沙胡蝶の名前は、陸に咲く二つの花の名前を合わせたもの。そんな由来だったら、どんなに素敵かしらと思いつつ、どうしてこんな夢を見るのだろうと、夢を見ながらも、沙胡蝶は不思議に思ったけど、目が覚めて、その疑問が解けた。
何故なら孫悟空に口吸いされていた沙胡蝶が目覚めた所には、沢山の花がいっぱい飾られていたからだ。陸に出てから初めて花を見たときは、あんまり綺麗で良い匂いで、直ぐに花が大好きになった。その花の匂いに包まれていたから、こんな夢を見たのだと寝起きのぼんやりとした状態で口吸いされながら、沙胡蝶は夢の理由を思った。
寝ぼけながら沙胡蝶は、自分の頭に手をやった。そこには真珠がなく、唇を離して、沙胡蝶の様子を観察する孫悟空の頭上に真珠が光っていた。さすが、ミス・オクト!悟空さんの頭にもジャストフィットしてますよ!……と沙胡蝶は思っていた。
沙胡蝶は夢は、夢でしかないと思っていますが真相は夢の通りでした。そしてミス・オクトが蹴り飛ばしてへしゃげたものが、今、悟空の頭に乗っております。




