48、玄奘と三蔵法師②
「八戒の兄者、最後の三蔵法師とは、どういう意味なのでしょうか?」
沙悟浄の疑問の言葉に、八戒は悟浄の首にかけられた9つのスカルの水晶を指して言った。
「悟浄。今まで流砂河に来た9人の僧侶と、お師匠様の違いはわかるかい?」
「違い?う~ん、そうだなぁ……。9人の僧達は拙者を見て直ぐに逃げていってしまったので、どう違うのか、比べようがなくて、わからないなぁ」
悟浄は昔を思い出すために腕を組み、視線は左上を見て、首をかしげ思考にふける。姿形は9人それぞれ違ったように思う。はっきり覚えていないのは、皆、悟浄が声を掛けると逃げ出したためだ。口では一心不乱に経を唱えていたが、彼らの信仰心は人外である沙悟浄の見た目の怖さに打ち勝てなかった。
では玄奘はどうだろうか?玄奘は川妖怪に子どもが川に引きずり込まれると思い込んで助けに来た。強い化生2人を供にしているというのに、彼らに任せて高みの見物などはせず、自ら率先して拳を繰り出してきた。……でも、それは彼が武道を嗜んでいるから出来たことなのかもしれない。もしも彼が武道をやっていなかったとして、彼は子どもを助けに自ら飛び込んだだろうか?
昨日会ったばかりの悟浄には荷が重い質問だったと自覚のある八戒は、悟浄に教える。
「今までの三蔵法師は信仰があっての自分だったんだよ。でも、お師匠様は自分があっての信仰なんだ。その違いなんだよ」
「!?」
「お師匠様はね、生まれたての頃にやむをえない事情で親と離れて、寺で育てられたんだけどね……」
八戒は沙悟浄に玄奘の話を始めた。
貧しい寺で育ったため、物心ついたころから食べて生きていくために鍬を持っていた玄奘。自分の生活は、自分だけで何とかしないといけない日常を送っていた玄奘は、お経を読んでも腹は膨れないことを早くから知っていたし、どれだけ信仰心が厚くても、または逆に薄くても己の生活が変わらないことにも気づいていた。どんなに努力しても自然の力の前には、人間は無力であることを幼少期から悟っていたのである。
それでも玄奘の傍には、捨て子だった玄奘を育てた住職がいて、信仰は常に玄奘の傍にあった。そんな玄奘は、努力した分だけ結果が出るものに出会った。護身術という名の武道である。鍛えれば鍛えるほど、上達が目に見えてわかるものに玄奘は夢中になった。
最初は自分の身元を探す旅に出るための護身術として……でも、やがて目的と手段は入れ替わる。武道を極めるための旅に出るための言い訳に、自分の身元を探すことにしたのだ。そして、そんな決意をした玄奘ではあるが、僧であることを止めようとはしなかった。信仰はその時すでに、玄奘の生活の一部になっていたからだ。
世界はとんでもなく広いらしいから、どうせ見つからないだろう。だから私は、自分の一生を探求の旅に費やし、旅でいつか出会うだろう強敵達と拳を交えて闘ってみたい。……そんな漠然とした夢を持って旅立った玄奘に、2つの予想外のことが起きる。自分の身元が直ぐにわかったことと、帝とお釈迦様のお眼鏡にかない、彼の夢が違う手段で叶うことになったことである。




