18、沙胡蝶、目を覚ます
目覚めた沙胡蝶は、どこかの家のソファに寝かされていた。確か自分は流砂河の河原にいたはずなのに、一体いつの間に寝てしまったんだろうと身動ぎしようとして、体が思うように動かないことに気がついた。不思議に思い、目をしっかと開けて動きにくい体を動かそうとして、自分の両手が後ろで拘束され、おまけに猿轡をされた状態であることを知り、驚く。
自分以外の誰かの気配がしたので前を向くと、沙胡蝶の目の前に見知らぬ女性が立っていた。綺麗な女性だと沙胡蝶は思った。髪は艶やかな漆黒の髪を既婚女性に多く見られる結い方で、きっちりと後ろで編み込んでお団子状にまとめている。装飾品は胸元に一粒の翡翠のブローチが光るのみで化粧も控えめだ。深い海の底を思い出させる群青色の着物も落ち着いた雰囲気がする女性によく似合っていた。
意志の強そうな黒い眉にアーモンドの形の黒い瞳が濡れて潤んでいる。さっきまで泣いていたのだろうか?高くも低くもない美しいだろう筋の通った鼻も少し赤くなっている。ザクロの実のような色の透明感のある唇が震えている。もしかしたら沙胡蝶が怖いのだろうか?と沙胡蝶は考える。
猿轡をしているので話せないが、怖いのなら自分は怖くないよと言ってあげたいなぁと思いながら、ジッと女性を眺めていたら女性がプルプルと震えだしたのでどうしたのだろう?と沙胡蝶は小首を傾げる。
「ち、違うの!?これは違うの!普段はもっとちゃんとしてるの!」
「?」
震えながら顔どころか首まで真っ赤になった女性が、クルリと沙胡蝶に背を向けると自分の着物の袖をたすき掛けし出した。
「い、いつもはキチンとしているのよー!」
「っ!?」
沙胡蝶は女性がそう叫んだ後に海の魔女のように魔法を使ったからビックリして目を丸くした。なんと女性は魔法で部屋を隅々まで掃除し始めた。
「そんな無垢な目で、ジッと見ないでー!!いやー!」
どうやら女性は沙胡蝶に散らかった部屋を見られるのも、部屋を片付けている様子も見られるのが嫌なのだと気がついた。沙胡蝶は女性が魔法を使うのを見て、海の魔女を思い出せて嬉しかったから見ていたかったけど、女性が嫌がることをしたくないなとも思ったので、そのまま目をつぶった。すると感激したような女性の声が直ぐ近くから聞こえてきた。
「ううっ!目をつぶってくれてるし、なんて良い子なのー!こんな赤ちゃんみたいな表情の子に、汚部屋なんて見られたくないー!」
そう言った後、バタバタと遠のく足音やパタパタと埃をはたく音や、キュッキュッと何かを磨く音まで聞こえてきた。音から察するに、きっと女性は魔法だけでは飽き足らず、女性自身も自ら掃除しているみたいだった。
ミス・オクトは元気にしているかなぁ……と沙胡蝶は無性に海の魔女に会いたくてたまらなくなってきた。女性がいいよと言うまで、沙胡蝶はミス・オクトの金色の瞳を思い出していた。暫くして女性の気配が近くからして、沙胡蝶の両手の拘束が解かれたようで、手を前に持ってくることが出来た。
「ありがとう、坊や。もう目を開けてもいいですよ」
そう言われたので、沙胡蝶がゆっくり目を開けると、いそいで家事を片付けたからか若干息切れを起こしている女性が、沙胡蝶の両手を包むように持ち上げてから手首を撫でてくれた。
「ごめんなさい、赤くなっちゃったわね。お薬を塗ってあげましょうね。それにしても、なんと細い手首なのかしら?ううっ、こんな細い手首をしているなんて、僧侶という職業はご飯を満足に食べられない位に薄給なの?何だかすごく可哀相だわ。あなたにご飯を食べさせたいわ!ああっ、今直ぐにでも、お腹いっぱいにご飯を食べさせてあげたい!」
沙胡蝶の手首に軟膏を塗りながら、何かつぶやいている女性のお腹がクゥと小さく鳴り、沙胡蝶のお腹もクーと鳴った。二人で顔を見合わせて、お互い照れ笑いする。
「こんな風に空腹を感じるなんて久しぶりだわ。ご飯作りますから一緒に食べましょうね。何が食べたいですか?」
キラキラと目を輝かせ、腕まくりする女性に沙胡蝶はこう言った。
「ありがとうございます。それもとても素敵だとは思うんですが、外でご飯を食べませんか?良い食堂を知っているんです」
沙胡蝶が外食に女性を誘ったのは、ミス・オクトに似ていると思ったからだった。長い長い片想いに苦しみ続けたミス・オクトと同じ哀しい匂いがすると沙胡蝶は感じていた。