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誰が為の勇者か

 気付けばガルドは立っていた。




 燃え盛る城壁の上に。




 血の匂い。




 鉄の匂い。




 剣戟。




 怒号。




 悲鳴。




 忘れるはずもない。




 二十年前。




 魔王との最終決戦。




「ガルド!」




 怒鳴り声が飛んだ。




 反射的に振り向く。




 次の瞬間。




 黒い魔物の首が宙を舞った。




 鮮血が飛び散る。




 銀の剣がそれを振り払った。




 男は呆れたように眉をひそめる。




「何ぼさっとしてんだ!」




 聞き慣れた声だった。




 ガルドの呼吸が止まる。




 黒髪。




 銀の鎧。




 陽光を受けて輝く剣。




 何度も背中を追いかけた。




 何度も隣で戦った。




 誰よりも見慣れた姿。




 勇者ライル。




 二十年前に死んだ男。




 ガルドは言葉を失う。




 ライルは怪訝そうな顔をした。




「おい」




 返事がない。




「ガルド?」




 魔物の咆哮が響く。




 戦場は止まらない。




 だがガルドの時間だけが止まっていた。




 ライルが生きている。




 当たり前のように。




 そこにいる。




 手を伸ばせば届く距離に。




「……ライル」




 掠れた声だった。




 ライルは鼻で笑う。




「なんだその顔」




 そして剣を構えた。




「死ぬにはまだ早いぞ」




 その言葉に。




 ガルドの胸が大きく揺れた。




 知っている。




 誰よりも知っている。




 お前は死ぬ。




 この日。




 この戦場で。




 俺を置いて。


「ライル」




 ガルドは一歩踏み出した。




 ライルは首を傾げる。




「なんだ?」




 言わなければならない。




 今すぐ。




 だが。




 何を言えばいいのか分からなかった。




『逃げろ』


 か。




『死ぬな』


 か。




『お前は今日死ぬ』


 か。




 どれも違う気がした。




 その時だった。




 轟音が響いた。




 城壁が揺れる。




 戦場全体が震えた。




 ライルの表情が変わる。




 笑みが消える。




 勇者の顔になる。




「来たな」




 ガルドの心臓が跳ねた。




 知っている。




 この先を。




 何度も夢で見た。




 何度も後悔した。




 魔王軍最強。




 勇者ライルを殺した男が現れる。



「ここにいたか、勇者」




 その声が響いた瞬間だった。




 戦場の空気が変わる。




 怒号が止む。




 剣戟が遠のく。




 兵士たちの顔から血の気が引いた。




 まるで冬の風が吹き抜けたように。




 場にいた誰もが本能で理解した。




 ――来た。




 ゆっくりと。




 黒煙の向こうから一人の男が姿を現す。




 長い黒髪。




 漆黒の外套。




 両手には一本ずつ剣。




 その刃には夥しい血がこびり付いていた。




 魔王軍六将。




 いや。




 そんな肩書きでは足りない。




 人類が最も恐れた存在。




 数多の英雄を葬り去った死神。




 葬元のアッシュ。




 男はゆっくりと歩く。




 その度に兵士たちが道を空ける。




 逃げるように。




 怯えるように。




 誰も近寄ろうとしない。




 アッシュはそんな周囲に興味すら示さなかった。




 ただ一人。




 勇者ライルだけを見ていた。




「待たせたな」




 ライルが剣を構える。




 その顔から笑みは消えていた。




 勇者の顔だった。




 アッシュは薄く笑う。




 次の瞬間。




 消えた。




 ガルドの目が見開かれる。




 速い。




 そう思った時にはもう遅かった。




 キィィィン!!




 甲高い金属音が戦場に響く。




 ライルの剣とアッシュの双剣が激突していた。




 衝撃だけで周囲の兵士たちが吹き飛ぶ。




 石畳が砕ける。




 城壁に亀裂が走る。




 人の戦いではない。




 怪物同士の衝突だった。




 ライルが弾き返す。




 だが。




 アッシュはもうそこにいない。




 右。




 左。




 背後。




 影のように現れては消える。




 双剣が閃く度に火花が散る。




 ガルドですら目で追えない。




 二十年前と同じだ。




 忘れもしない。




 この戦いの先で。




 勇者ライルは死ぬ。




 ガルドは思わず前へ踏み出した。




 だがその瞬間。




 ライルの声が飛んだ。




「来るな!!」




 鋭い叫びだった。




 ガルドの足が止まる。




 そして。




 二十年前には気付けなかったことに気付く。




 ライルは最初から知っていたのだ。




 この戦いが。




 自分一人の戦いになることを。



 実際にライルが死んだ時。




 最後に言葉を交わす時間などなかった。




 感謝も。




 謝罪も。




 別れの言葉すら。




 何一つ伝えられなかった。




 ガルドにできたことはただ一つ。




 血溜まりの中に倒れた親友の名を叫ぶことだけだった。




「ライル!」




 何度も。




 何度も。




 声が枯れるまで。




 喉が裂けるまで。




 叫び続けた。




 だがライルは目を開けなかった。




 返事はなかった。




 もう二度と。




 その声を聞くことはできなかった。




 だから。




 せめて今回は。




 少しでいい。




 ほんの少しでいいから。




 話がしたかった。




 伝えたいことがあった。




 二十年間。




 胸の奥に沈み続けていた言葉があった。




 謝りたいことがある。




 伝えたいことがある。




 聞きたいこともある。




 だから。




 今度こそ。




 今度こそ間に合ってくれ。




 ガルドは剣を握る手に力を込めた。




 視線の先では。




 勇者ライルと葬元のアッシュが激突していた。



 激戦だった。




 城壁は崩れ。




 大地は裂け。




 兵士たちは誰も近寄れない。




 勇者ライル。




 英雄ガルド。




 そして葬元のアッシュ。




 三人の戦いは人の領域を遥かに超えていた。




 何度剣を交えたのか分からない。




 何度死を覚悟したのかも分からない。




 だが。




 最後に立っていたのは二人だった。




 アッシュの身体がゆっくりと崩れ落ちる。




 双剣が地面へ転がった。




 魔王軍最強。




 葬元のアッシュ。




 その怪物は遂に倒れた。




 静寂が訪れる。




 終わった。




 誰もがそう思った。




 ガルドもそう思った。




 だが。




 違った。




「……ライル?」




 勇者は答えない。




 その場に立ったまま動かない。




 銀の鎧の隙間から。




 赤い雫が落ちていた。




 ぽたり。




 ぽたりと。




 血が流れている。




 ガルドの顔から血の気が引いた。




 ゆっくりと視線を落とす。




 そこには。




 アッシュの双剣の一本が深々と突き刺さっていた。




 勇者の胸を貫いて。




 心臓の辺りまで。



「ライル!」




 ガルドは駆け寄った。




 膝をつく。




 血が広がっている。




 銀の鎧は赤く染まり。




 胸には深々と双剣が突き刺さっていた。




 助からない。




 そんなことは分かっていた。




 二十年前も。




 そして今も。




「またか……」




 震える声が漏れる。




「やっぱりまたかよ……」




 運命は変わらない。




 茶屋の少女は正しかった。




 どれだけ足掻いても。




 どれだけ抗っても。




 ライルは死ぬ。




 この日。




 この戦場で。




 チリン――




 風鈴の音が響いた。




 ガルドの肩が震える。




 世界樹の葉。




 残された時間は多くない。




 茶屋へ戻る時が近付いている。




「……そうか」




 ガルドは小さく呟いた。




 もう時間がない。




 今度こそ。




 言わなければならない。




 二十年間。




 胸の奥に沈み続けていた言葉を。




「おい」




 掠れた声がした。




 ライルだった。




 血を吐きながらも笑っている。




 昔と変わらない笑顔で。




「お前……また何かやってるのか?」




 ガルドは思わず吹き出した。




 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。




「何だよそれ」




「いや」




 ライルは苦しそうに息を吐く。




「昔もそんな顔してたからな」




「昔?」




「ああ」




 ライルが笑う。




「俺がお前の晩飯を勝手に食った時」




 ガルドは目を見開く。




 そして。




 笑った。




 二十年ぶりに。




 心から。




「あったな、そんなこと」




「三日も口利かなかっただろ」




「当然だ」




「ケチだな」




「お前が悪いんだろ」




 二人は笑った。




 戦場の真ん中で。




 血と死に囲まれながら。




 昔と同じように。




 チリン――




 また風鈴が鳴る。




 時間が削られていく。




 ガルドは笑顔を消した。




 言わなければならない。




 今しかない。




「なぁ、ライル」




「なんだ?」




 ガルドは唇を噛む。




 二十年間。




 言えなかった言葉だった。




「お前こそ勇者だ」




 ライルが目を瞬く。




「みんな間違ってる」




「英雄も」




「勇者も」




「本当は全部お前だった」




 声が震える。




 涙が止まらない。




「俺じゃなかった」




「ずっとそう思ってた」




 長い沈黙が落ちた。




 やがてライルは小さく笑う。




 本当に困ったように。




 昔から変わらない顔で。




「何言ってんだ」




 そして。




 震える手を持ち上げた。




 ガルドの肩を軽く叩く。




「じゃあ、お前は英雄だよ」




 ガルドの瞳が揺れる。




 ライルは続けた。




「人類を救うのは俺じゃない」




「これから先は、お前だ」




 苦しそうに息を吐く。




 それでも笑う。




 最後まで。




 勇者のまま。




「誠に遺憾だけどな」




 ガルドは泣きながら笑った。




「ああ」




「任せてくれ」




「だからお前は……」




 声が詰まる。




「ゆっくり眠ってくれ」




 ライルは静かに目を閉じた。




 その顔は穏やかだった。




 戦場にいた誰よりも。




 幸せそうだった。




 チリン――




 最後の風鈴が鳴る。




 ガルドは震える声で呟いた。




「今までありがとう」




 その瞬間。




 視界が滲んだ。




 戦場が崩れる。




 空が砕ける。




 ライルの姿が光に溶けていく。




 そして。




 気付けばガルドは茶屋の椅子に座っていた。


 気付けばガルドは茶屋の席に座っていた。




 頬を撫でる風は穏やかだった。




 血の匂いはない。




 剣戟も。




 悲鳴も。




 燃え盛る城壁も。




 何もない。




 あるのは静かな茶屋と。




 世界樹の葉擦れの音だけ。




 ガルドはゆっくりと自分の手を見下ろした。




 皺だらけだった。




 節くれ立った指。




 無数の傷跡。




 長い年月を生きた老人の手。




 若かった頃の身体はもうどこにもない。




 二十年を生きた。




 元の自分に戻っていた。




 窓の外では黄金の葉が揺れている。




 先ほどまで枝先に残っていた葉は。




 もうなかった。




 ガルドは静かに笑った。




「そうか」




 不思議と涙は出なかった。




 胸の奥にずっと沈んでいた重石が。




 少しだけ軽くなった気がした。




「過去に戻ってどうでしたか」




 少女が尋ねる。




 相変わらず感情の見えない声だった。




 ガルドは立ち上がる。




 そして小さく頷いた。




「ああ」




「行ってよかった」




 少女はそれを聞くと。




 ただ一言だけ返した。




「そうですか」




 ぶっきらぼうな声だった。




 だがどこか優しかった。




 ガルドは少女へ向かって深く頭を下げる。




「ありがとう」




 少女は首を横に振る。




「私は何もしていません」




 ガルドは小さく笑った。




「そういうことにしておく」




 そして扉へ向かう。




 チリン――




 風鈴が鳴った。




 扉が開く。




 外にはいつもの世界が広がっている。




 ガルドは一度だけ振り返った。




 少女はもうこちらを見ていなかった。




 何事もなかったように茶器を片付けている。




 まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。




 ガルドは再び前を向いた。




 そして歩き出す。




 今度は一人だった。




 だが不思議と。




 もう寂しくはなかった。




 チリン――




 風鈴が鳴る。




 少女は静かに湯を注いだ。




 立ち上る湯気の向こう。




 世界樹は今日も変わらず空へ枝を伸ばしている。




 そして。




 誰かの後悔が、この場所へ辿り着くのを待っていた。


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