表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

死んだ勇者に会いたい

その日、勇者は死んだ。


 心臓を貫かれて。


 燃え盛る戦場の中心で。


「――ライルッ!!」


 男の叫びが響く。


 だが返事はない。


 勇者ライルは膝をつき、ゆっくりと前へ倒れた。


 銀の鎧が地面を打つ。


 乾いた音がした。


「おい……」


 男は駆け寄る。


「おい、ライル」


 肩を掴む。


 揺さぶる。


 それでも勇者は目を開けない。


 胸には大穴が空いていた。


 鮮血が止めどなく流れている。


 もう誰が見ても助からない傷だった。


 だが男は認められなかった。


「立てよ……」


 震える声が漏れる。


「まだ魔王を倒してねぇだろ」


 返事はない。


「お前が勇者だろ」


 返事はない。


「ライル!」


 叫びは戦場へ吸い込まれていった。


 その日。


 人類の希望と謳われた勇者は死んだ。


 魔王軍幹部との激闘の末に。


 ただ一人の親友を残して。


 そして戦争は終わった。


 勇者の死を代償に。


 人類は勝利した。


 魔王は討たれ。


 二十年続いた戦争は幕を閉じる。


 人々は勇者を英霊と呼び。


 男を英雄と呼んだ。


 王都では祭りが開かれた。


 酒が振る舞われた。


 鐘が鳴り響いた。


 誰もが勝利を喜んだ。


 だが。


 男だけは違った。


 祝いの声を聞くたびに。


 親友の最期が脳裏によみがえる。


 だから男は酒を飲んだ。


 一日中。


 朝も昼も夜も。


 忘れるためなのか。


 悲しむためなのか。


 自分でも分からなかった。


 今日もまた酒場の隅で酒瓶を傾ける。


 酔えば少しは楽になると思った。


 だが酔ってもライルは消えなかった。


 むしろ鮮明になるばかりだった。


「なぁ、知ってるか」


 ふいに隣の席から声が聞こえた。


「死んだ人間に会える茶屋の噂」


 男の手が止まる。


 酒場の喧騒が遠くなった。


「世界樹の根元にあるらしいぜ」


「またその話か」


「でも実際に会った奴がいるって――」


 次の瞬間。


 ドンッ!!


 机が揺れた。


 酒瓶が床へ転がる。


 客たちが一斉に振り向いた。


 男が立ち上がっていた。


「その話」


 低い声だった。


「詳しく聞かせてくれ」


 酒場が静まり返る。


 客の一人が目を見開いた。


「お、お前……」


 男の顔を見て呟く。


「獄炎のガルドじゃねぇか」


 かつて勇者と共に戦った英雄。


 人類最強の戦士。


 その男は震える拳を握り締めながら言った。


「どこにある」


 その声には。


 酒に酔った男ではなく。


 二十年間、親友を失い続けてきた男の願いが滲んでいた。






 大陸の中心には、世界樹がある。


 その樹がいつ生まれたのかを知る者はいない。


 神々が植えたとも。


 世界を創った最初の生命だとも。


 あるいは、死者たちの魂が集まり根を張った樹だとも言われている。


 伝承は数え切れないほど残されていた。


 だが、そのどれも証明されたことはない。




 ただ一つ。


 誰もが認める事実がある。




 世界樹は、この世界で最も巨大な存在だ。




 遠く数百キロ離れた平原からでも、その姿は見える。


 山々の向こう。


 雲の向こう。


 地平線の果て。


 そこに一本の巨大な影が立っている。




 初めて見る旅人は皆、勘違いする。


 山だと思うのだ。




 だが近づくにつれ気付く。


 それが山ではなく。


 一本の樹なのだと。




 幹は都市一つを飲み込めるほど太く。


 樹皮は長い年月を刻み。


 巨大な断崖のように大地を覆っている。




 枝は空を裂くように伸びていた。


 雲海を突き抜け。


 太陽を隠し。


 まるで空そのものを支えているかのように。




 人はその全貌を見ることができない。


 あまりにも大きすぎるからだ。




 見上げても。


 見上げても。


 その先が見えない。




 首が痛くなっても。


 目を細めても。


 枝葉はなお天の彼方へ続いている。




 世界樹の周囲だけは静かだった。




 鳥の鳴き声すら遠い。


 獣たちも近寄らない。




 風だけが吹く。




 ざわり。




 ざわり。




 無数の葉が揺れる。




 それはまるで。


 世界樹が呼吸をしている音のようだった。




 王国が滅びても。


 新しい国が生まれても。


 英雄が魔王を討っても。


 魔王が再び現れても。




 世界樹だけは変わらない。




 何も語らず。


 何も求めず。


 ただ静かに空へと枝を伸ばし続けている。




 数千年。


 あるいは数万年。




 英雄たちの死を見届け。


 王たちの栄華を見届け。


 名もなき人々の人生を見届けながら。




 ただ、そこに在り続けていた。




 そして。




 そんな神話の中心には、不釣り合いなほど小さな茶屋がある。




 世界樹の根元。


 幾重にも絡み合った巨大な根の隙間に建てられた木造の店。




 豪華ではない。


 立派でもない。




 王都へ行けば、もっと洒落た店などいくらでもある。




 それでも、その茶屋には不思議な温もりがあった。




 長い旅を続けた者なら足を止めてしまうような。


 帰る場所を失った者なら扉を開けてしまうような。




 そんな空気があった。




 軒先では風鈴が揺れている。




 チリン――




 風が吹くたび。


 澄んだ音が静寂に溶けていく。




 窓辺には白い花が飾られていた。




 名も知らぬ花だった。




 だが不思議と枯れることはない。


 一年経っても。


 十年経っても。




 まるで、この場所だけが時間から切り離されているかのように。




 そして。




 茶屋の真上。




 世界樹の枝先では。




 黄金色の葉が一枚だけ揺れていた。




 無数に生い茂る葉の中で。


 それだけが異様だった。




 美しいのだ。




 夕陽を受ければ黄金に輝き。


 月明かりを受ければ銀色に煌めく。




 まるで星が一枚。


 枝先に引っ掛かっているようだった。




 だが近くで見れば分かる。




 その葉はもう長くない。




 枝との繋がりは細く。


 風が吹くたび大きく揺れる。




 今にも落ちそうだった。




 チリン――




 風鈴が鳴る。




 葉が揺れる。




 また風が吹く。




 葉が揺れる。




 それを見るたび。


 茶屋を訪れた者たちは思う。




 まだ落ちないでくれ。




 あと少しだけ。




 もう少しだけ。




 と。




 葉がいつ落ちるのか。


 それは誰にも分からない。




 一刻後か。


 明日か。


 一年後か。




 あるいは次の風か。




 ただ一つだけ確かなことがある。




 葉が地面に触れた瞬間。




 奇跡は終わる。




 死者は去り。


 生者は現実へ帰る。




 だから人は、この茶屋を訪れる。




 伝えられなかった言葉を伝えるために。




 謝れなかった後悔を終わらせるために。




 そして。




 もう会えない人に。


 もう一度だけ会うために。


 チリン――




 風鈴が鳴った。




 今度は風ではなかった。




 茶屋の扉がゆっくりと開く。




 現れたのは、一人の老人だった。




 使い込まれた剣を腰に提げ。


 色褪せた外套を羽織り。


 深く刻まれた皺の奥に、鋭い眼光を宿している。




 その顔には無数の傷跡があった。




 若き日の栄光を語るような傷。




 戦場を生き抜いた証。




 あるいは失ったものの数だけ刻まれた傷。




 誰もが一度はその名を聞いたことがある。




 魔王を討った英雄。




 国を救った男。




 吟遊詩人の歌にもなった男。




 だが。




 茶屋の扉をくぐった彼は、英雄ではなかった。




 ただの老人だった。




 何かを失い。


 何かを抱えたまま生き続けてきた。




 どこにでもいる、一人の老人だった。




 老人は店内を見回す。




 静かな店だった。




 客はいない。




 聞こえるのは風鈴の音と、湯の沸く音だけ。




 やがて視線は店の奥で立つ少女へ向いた。




 雪のような白髪。




 翡翠色の瞳。




 年の頃は十六、七ほどに見える。




 だが、その瞳だけは違った。




 まるで世界樹と同じ時間を見てきたかのように。




 長い。




 果てしなく長い時を宿していた。




 老人は差し出されたカップを見つめた。




 立ち上る湯気。




 どこか懐かしい香り。




 だが手は伸びない。




 少女は急かさなかった。




 ただ窓の外を見ている。




 黄金の葉が風に揺れていた。




「……本当に会えるのか」




 老人がぽつりと呟く。




 少女は葉から目を離さない。




「会える」




 迷いのない声だった。




「死んだ人間にも?」




「死んだから会える」




 老人は息を呑んだ。




 少女は続ける。




「ここへ来る人は皆、生きている人に会いに来るわけじゃない」




「伝えられなかった言葉がある人」




「謝れなかった人」




「別れられなかった人」




「そういう人たちが来る」




 老人は拳を握った。




 長い沈黙の後。




 ようやく口を開く。




「俺は……謝りたいんだ」




 少女は何も言わない。




 老人は続けた。




「20年前」



 握った拳に力が入る。



「死んだ勇者に」



 風が吹く。




 風鈴が鳴る。




 チリン――




 老人の視線は遠くを見ていた。





 言葉が止まる。




 少女はただ聞いていた。




 慰めることも。




 励ますこともない。




 ただ静かに。




「だから会いたいの?」




 老人は頷く。




「一度でいい」




「謝りたい」




「ありがとうと伝えたい」




「それだけだ」




 少女は小さく息を吐いた。




 そして。




 初めてカップを老人の前へ押し出した。




「なら、先にルールを聞いて」




 老人は顔を上げる。




 少女の瞳は相変わらず静かだった。




「一つ」




「過去は変わらない」




「何を言っても」




「何をしても」




「死んだ人は生き返らない」




 老人は黙って聞く。




「二つ」




「会えるのは一人だけ」




「会える機会も一度だけ」




「二度目はない」




 少女の視線が窓へ向く。




 黄金の葉が揺れている。




「三つ」




「葉が落ちたら終わり」




 老人も葉を見る。




「終わり?」




「会話の途中でも」




「抱き締めていても」




「伝えたいことが残っていても」




「終わり」




 静かな声だった。




 だからこそ重かった。




 少女は続ける。




「死者は去る」




「生者は戻る」




「それがこの場所の決まり」




 風が吹く。




 葉が揺れる。




 枝との繋がりが僅かに軋んだように見えた。




 老人の喉が鳴る。




 少女は最後に言った。




「後悔するかもしれない」




「何も変わらないかもしれない」




「欲しい言葉は貰えないかもしれない」




 そして。




 翡翠色の瞳が老人を真っ直ぐ見つめた。




「それでも会う?」


「ああ」


 老人は静かに茶を飲み干した。




 その瞬間。




 世界が揺れた。




 視界が滲む。




 茶屋が。




 世界樹が。




 少女の姿が。




 まるで水面に落ちた雫のように波打ち、崩れていく。




 風の匂いが変わる。




 空気が変わる。




 音が変わる。




 気付けば老人は立っていた。




 忘れるはずもない場所に。




 忘れたことなど一度もない日に。




 燃える城壁。




 剣戟の音。




 血の匂い。




 20年前。





 そして。




 そこには確かにいた。




 若かった頃の自分と。




 ずっと会いたかった男が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ