第11話 王の帰還、一度の跳躍と再会のキッチンバトル
王都アストライアからの帰路、ルイは馬を飛ばしながら、懐にある指輪の重みを感じていた。
三日三晩、己の魔力を注ぎ込み、不純な独占欲を「誓い」へと昇華させた碧き石。
その輝きは、今のルイの心そのもののように澄み渡っている。
「……待っていてくれ、アリシア。この空白を、今すぐ埋めに行くよ」
黄金色に染まり始めた国境の森を抜け、見慣れたログハウスと、煙突から煙をたなびかせる「カフェ・ヴァレンタイン」が見えた瞬間、ルイの瞳に宿る緊張が、ふわりと解けた。
◇
その頃、カフェの裏庭。
私は、火山から戻ってきた男たちがテラスにつけた煤の掃除を終え、一人でハーブの収穫をしていた。
カインからは「兄上は大丈夫だ」と聞かされていた。
けれど、耳に届くのは「王都の貴族たちが、陛下が辺境に留まることを快く思わず、強引に連れ戻そうとしている」という、身を切るような不安な話ばかり。
もし、王としての責務が、私の差し出したこの「自由」を飲み込んでしまったら。
彼が二度と、この不作法な森へ帰れなくなってしまったら――。
(……ルイ様。貴方は今、どこで何を想っていらっしゃいますの? もし貴方が王宮の奥深くで孤独に耐えていらっしゃるのなら、私は……)
その時。
遠くから、聞き慣れた蹄の音が響いた。
最初は、自分の願いが生んだ幻聴だと思った。
けれど、その音は次第に確かなリズムを刻み、私の鼓動と重なっていく。
私はハーブの籠を放り出し、勝手口へと駆け寄った。
「……アリシア。ただいま。少し、遅くなったかな」
馬を降り、土埃に塗れた旅装のままのルイ様が、そこに立っていた。
少しやつれた頬、けれど私を映して優しく細められたエメラルドの瞳。
その姿を見た瞬間、私の頭の中から、完璧に作り上げてきた「淑女の所作」や「落ち着いた店主」としての理性が、音を立てて崩れ去った。
「――ルイ様っ!!」
マリンブルーの瞳に、堪えきれない熱い雫が浮かぶ。
私はドレスの裾を思い切り掴むと、芝生の上で、一度だけ大きく、まるで空へと飛ぶかのように高く跳ねた。
かつて、家を飛び出しこの森で自由を手に入れたばかりの頃のように。
あるいは、それ以上に。
抑えきれない喜びを身体全体で表現するように、私は、彼が戻ったという奇跡に歓喜した。
「本当に……本当に帰っていらした! ルイ様! お帰りなさいませ!!」
私が宙を舞うように跳ねた様子を、ルイ様は驚きに目を見開いて見つめていた。
やがて、彼は噴き出すように、けれどこの上なく愛おしそうに笑い声を上げた。
「……ふふ、あははは! アリシア。君のそんな風に全身で喜ぶ姿、久しぶりに見た気がするよ……なんだか、出会ったばかりの頃を思い出すな。あの時も、君はフライパンを振り回しながら、眩しいくらいに笑っていたね」
ルイ様が悪戯っぽく、けれど深く慈しむように目を細める。
私はハッと我に返り、頬を熟したトマトのように真っ赤にして、スカートを整えた。
「……っ。も、申し訳ございません。あまりに嬉しくて、つい……淑女としてあるまじき、不作法な真似を……」
「いや、いいんだ。むしろ、嬉しいよ。君にとって、私の帰還がそれほどまでの『喜び』であったのなら、王都での孤独な戦いもすべて報われるというものだ」
ルイ様が静かに歩み寄り、私の乱れた銀髪をそっと整えるように手を置いた。
旅の風の匂いと、微かに漂う魔力の残滓。
その実在感に、私の目尻から一筋の涙が溢れた。
「……そうかもしれませんわね……最近は、この森での『自由』が、呼吸をするのと同じくらい、当たり前の空気のようになってしまっていましたけれど……ルイ様がいない数日間、私は自分がどれほど貴方の存在を……その、求めていたか、思い知らされましたの」
私が俯きながら本心を零すと、ルイ様は力強く、けれど壊れ物を扱うような慎重さで私を抱きしめた。
「……私もだ。王宮の冷たい喧騒の中でも、私の芯にあったのは君の淹れる茶の香りと、君が微笑むこの場所の温もりだった……もう、君を一人にはしない。君が飛ぶなら、その隣で私も飛ぼう」
ルイ様の胸の鼓動が、私の背中に直接響く。
その温もりに包まれて、私の「不安」という名の暗雲は、一瞬で晴れ渡った。
「――おいおい。感動の再会に水を差すようで悪いが、王様……あんたが居ねえ間、俺も相当頑張ったんだぜ?」
テラスの柱に寄りかかっていたウォーレンが、悔しそうな、けれどどこか安堵したような複雑な表情で現れた。
その隣には、黒弓を背負ったテリオンが、カメリア色の瞳を細めて静かに佇んでいる。
「……戻ったか……ルイ。お前が不在の間、この森は随分と騒がしかったぞ。お前の代理が、中々に『不作法な熱』を持ち込んでくれたからな」
テリオンがわずかに視線を向けた先には、赤髪の王弟カインがいた。
カインは「兄上。せっかく私が完璧に代理を務めてやったのに、その疲れ果てた姿は何だ……不作法すぎる」と呆れ顔で皮肉を言う。
「ウォーレン、テリオン、それにカイン……みんな、相変わらずタイミングを見計らって現れるな」
ルイ様が私を抱きしめる腕を解き、男たちを真っ直ぐに見据えた。
そこへ、お父様がモノクルをキリリと光らせて、意気揚々と階段を下りてくる。
「おおお! ルイよ! よくぞ戻られた! これでようやく、本物の『決着』がつけられるというものだ!」
お父様の背後からは、いつの間にか里を空けて居着いていたサイラが「ルイ……テリオンの最強のライバルが、本当に戻ってきたのね!」と赤紫の瞳を尖らせている。
◇
お父様が掲げたのは、ヴァレンタイン公爵家の紋章が入った真っ白なエプロンだった。
「第三の試練……最終試験を告げる! その内容は……『アリシアを最も幸せにする、一皿の料理対決』だ! どんな宝石よりも、どんな甘い言葉よりも、この娘の心を震わせるのは『食』! 王様だろうが狼だろうが狩人だろうが関係ない! 今ここで、アリシアの心を……そして胃袋を掴んだ者に、私は最大の祝福を与えよう!」
「お、お父様!? 私、そんな審査員みたいなこと……!」
「黙れアリシア! これは父としての、そして一人の食通としての意地だ! ……さあ、求婚者たちよ! 厨房へ入れ!!」
お父様の号令と共に、カフェの厨房はかつてない異様な光景に包まれた。
夕焼け色の髪の王が袖を捲り上げ、夜空色の髪の狼が不器用ながらも真剣な目つきで包丁を握り、カメリア色の瞳の狩人が、誰も見たことのない森の秘薬のようなスパイスを並べる。
さらには、カインまでもが「兄上、黒炎は火力が安定する。サポートするぞ」と、漆黒の炎をコンロに灯そうとしている。
「おーっほっほっほ! 見てご覧なさいジュリアン! 世界で一番、不作法で豪華な調理実習の始まりですわよ!」
カトリーナが高笑いし、お母様が「あら、これは賭け金の上限をさらに引き上げないといけないわね……ふふ、実に愉快だわ」と、皿洗いの手を止めて帳簿を広げる。
私は、厨房から漂い始めた香ばしい戦いの予感と、ルイ様がふとした瞬間にこちらに向けてくれた微笑みを前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……ルイ様……皆様……私の厨房を壊すことだけは、本当に、本当におやめになってくださいませね!!」
私の叫びを合図に、前代未聞の「料理対決」という名の最終決戦が、今、幕を開けた。




