第16話 碧空の決別、白銀の招待状が告げる終焉
昨夜、マルクス団長から語られたヴァレンタイン家の「裏事情」。
お父様が私を救うために下したとされる(マルクス談では)非情な決断。
けれど私の脳裏に浮かぶのは、パントリーで「ひぃっ」と震えていた姿や、ワイバーンの背で「私のヴィンテージがぁぁ!」と叫んでいた、あの情けないお父様の姿だった。
(……きっと、お父様のことですもの。「契約書がバレたら、アリシアに何を言われるか分からない!」と泣きべそをかきながら、お母様を塔に隠したに違いありませんわ)
そう思うと、少しだけ沈んでいた心が「不作法な使命感」で持ち上がってくる。
私がしっかりしなければ、あの家は今頃、北の公爵にワインセラーごと乗っ取られているに違いない。
私がキッチンの火を点けようとした、その時。
森の静寂を切り裂いて、一羽の白銀の伝書鷹が店のテラスへと舞い降りた。
「……来ましたわね」
鷹の足に結びつけられていたのは、見間違うはずもない、北の公爵の紋章――氷の結晶があしらわれた、白銀の封筒。
ルイ様、マルクス、そしてゾアやテリオンが、それぞれ武器を手入れしながら私を囲んだ。
「アリシア。開けるのは、私でもいい……君の手を汚す必要はないよ」
ルイ様が心配そうにエメラルドの瞳を向ける。
けれど、私は首を振って、その封筒を自分の手で開封した。
『ヴァレンタイン公爵令嬢、アリシア殿。
北の雪解けを祝う晩餐会へ、貴女を招待する。
貴女の母君が遺した「白銀の誓約」
その不備を修正するために。
追伸。アスター家の生き残りを
連れてくることを推奨する。
さもなくば、獄中の母君に二度目の夜は
訪れないだろう……それから、貴公の
父上が隠しているヴィンテージ・ワインの
在庫についても、再考が必要かもしれんな』
最後の一文に、私は「やっぱり!」と思わず頭を押さえた。
北の公爵もお父様の弱点を完全に把握している。
これは招待状などではない。
お母様の命とお父様のワインを人質に取った、卑劣な脅迫状だ。
「――我を呼んだか、主よ! その紙切れから、不快な冷気が漂っているぞ!」
店内に、ゾアの巨躯が揺れるほどの声が響いた。
彼は巨大な斧を肩に担ぎ、黄金の瞳に戦士の熱を宿して私を見下ろす。
「ゾア。不作法な招待状が届きましたわ……私は、グラン・ロアへ向かいます」
「ふん! 我が甘露の作り手を脅すとは……我の斧が、奴の領地ごと叩き割ってくれるわ! そのワインとやらも、我が飲み干してやろう!」
ゾアが豪快に笑う横で、影の中からテリオンが静かに歩み寄ってきた。
カメリア色の瞳には、鋭い殺気と、私への消えない想いが同居している。
「……アリシア、私が行く。森の狩人にとって、雪山は庭も同然だ……お前の背後に忍び寄るノイズは、すべて私が射抜く」
テリオンが、私の銀髪を一度だけ見つめ、すぐに視線を逸らして弓を点検し始めた。
「マルクス、鉄衛騎士団の編成は?」
「はっ! 精鋭二十名、既に出発の準備を整えております! アリシア様、ヴァレンタインの誇りを取り戻すまで、一歩も退きはいたしません!」
マルクスが力強く胸を叩く。
彼らは私に救われてからというもの、狂信的なまでの忠誠心を私に抱いている。
◇
旅の準備が整うまでの間、私は最後の一仕事を終えるためにキッチンに立った。
用意したのは、『夏野菜と猪肉の赤ワイン煮込み』。
ゾアが獲ってきた猪肉を、力強い赤ワインと香草でじっくりと煮込み、そこへ夏の盛りを象徴するトマトと、ピリリとした辛みの唐辛子を加える。
店内に広がるのは、スパイスの香りと肉の脂が溶け合う官能的な匂い。
一口食べれば、胃の奥から熱がこみ上げ、どんなに凍てつく北の風にも負けない活力を与えてくれる、戦士のための料理だ。
「……さあ、召し上がれ。これを食べ終えたら、私たちの『精算』が始まりますわ」
大皿に盛られた『夏野菜と猪肉のスタミナ・バロッサ』がテーブルに置かれた瞬間、店内の空気は、煮込まれた赤ワインの芳醇な香りと、焦がし蜂蜜の甘い蒸気に支配された。
「――これだ! この暴力的なまでの肉の弾力、そして舌を焼くようなスパイスの刺激! これこそが我ら戦士が求めていた『命の熱』よ!」
ゾアが巨大な手でフォークを握り、厚切りの猪肉を豪快に口に放り込んだ。
咀嚼するたびに、肉汁と蜂蜜のコクが彼の喉を鳴らす。
「主よ! この蜂蜜の甘みが、猪の荒々しい脂を完璧に手懐けておる。泥臭い大地を駆ける獣が、貴殿の手で極上の甘露へと生まれ変わった。これなら、北の冷たい風など我が鼻息で吹き飛ばしてくれよう!」
ゾアが鼻から熱い吐息を漏らす横で、テリオンは静かに、けれど一切の無駄を削ぎ落とした所作で肉を切り分けた。
「……私が持ってきたハーブが、ソースの奥で静かに息づいている。アリシア、お前はやはり、素材の『声』を聞くのが上手いな」
テリオンのカメリア色の瞳が、湯気の向こうで私を捉える。
「……この煮込みには、お前の迷いがない。鋭いスパイスの後に残る、この微かな苦味……それは、守るべきものがある者の強さだ。案ずるな。北の雪原に潜むどんなノイズも、私の矢がお前の耳に届く前に仕留めてみせる」
テリオンの静かな誓いに、胸の奥が熱くなる。
そんな中、ルイ様は私の隣で、誰に憚ることなく私の手をそっと握り締めた。
「アリシア……赤ワインで煮込まれたこの熱は、君の決意そのものだね。スパイスが喉を通り過ぎるたびに、君の勇気が私の血に溶け込んでいくのがわかるよ……美味しい……君の料理を食べるたびに、私は自分が『王』である前に、一人の『男』であることを思い出してしまう。君を、誰にも、この運命にさえも奪わせはしないとね」
ルイ様のエメラルド色の瞳に宿る、隠しきれない独占欲と慈しみ。
握られた手の平から伝わるルイ様の体温。
ゾアが肉を噛み砕く力強い音。
テリオンが静かにその滋味を噛み締め、弓を引く指先を研ぎ澄ませる気配。
私は、そのすべてを自分の感覚に焼き付けた。
この味こそが、私の誇り。
この人々こそが、私の守るべき家族。
「……皆様、ありがとうございます。不作法なほど、力が湧いてまいりましたわ!」
私は最後の一滴までスープを飲み干すと、ルイ様の手に自分の手を重ね、力強く頷いた。
腹の底からこみ上げる熱いエネルギーが、私の震えを完全に消し去っていた。
次にこのフライパンを握る時は、すべてを精算し、笑顔でお父様とお母様を迎える時だと、自分に言い聞かせながら。
◇
夕暮れ時。
店の前には、馬を並べた鉄衛騎士団と、ルイ様が手配した豪奢な馬車が待機していた。
私は、扉の鍵を閉める前に、一度だけ店内を振り返った。
「……お嬢様。未練は、料理の味を濁らせますわよ」
クラリスが、淡々と私の背中を押した。
「……わかっておりますわ。行きましょう、ルイ様。情けないお父様と、捕まったお母様……不作法な招待状には、最高に不作法な『返礼』を届けてやらなければなりませんもの」
「ああ、アリシア。君の行く道が、たとえ白銀の地獄であっても……私の光が、君を迷わせることはない」
ルイ様が私の手を引き、馬車へとエスコートしてくれる。
セミの声が止んだ森に、鉄蹄の音が力強く響き渡った。
真夏の熱気を置き去りにして、私たちは北へ、グラン・ロアへと向かう。
父のワイン、母の罪、そして私の誇り。
すべてを精算するための旅が、今、始まった。




