第13話 三つの視線、一つの火花
セシルとユリウスを乗せた馬車が森の向こうへ消え、残されたのは北の公爵がもたらす不穏な予感と、相変わらず騒がしい日常の残滓だった。
夕暮れが森を紫に染める頃、私はその重苦しい空気を一掃するため、特大のフライパンを火にかけていた。
「主よ! 今日は肉だ! 我が喉を焼き、脳を蕩けさせるほどの甘露な肉を所望する!」
店内に響き渡る地鳴りのような声。
二メートルを超える巨躯を揺らし、リザードマンのゾアが、黄金の瞳を爛々と輝かせてカウンターを叩いた。
深緑の鱗がランプの光を反射し、戦士特有の荒々しい威圧感が立ち込める。
「わかっておりますわ、ゾア。そう急かさないで。今日はとっておきの猪肉を、貴方の好きなやり方で調理しますから」
「おお……! 肉の塩気と、溢れんばかりの蜂蜜……それが、我ら戦士の最高の贅沢よ!」
ゾアが期待に鼻を鳴らしたその時、勝手口の扉が音もなく開いた。
「……随分と、不作法な騒音が響いているな」
現れたのは、ダークエルフの狩人、テリオンだった。
褐色の肌にカメリア色の瞳を宿した彼は、無造作に束ねた黒髪を揺らしながら、肩に担いでいた獲物の鳥を調理台に置く。
「テリオン、戻られたのですわね」
「……ああ。道すがら、質の良い野鳥を見つけた。アリシア、お前の料理にはこの香草が合うはずだ」
そう言ってテリオンは、ハーブの束を私に差し出した。
その指先が僅かに私の手に触れ、彼は一瞬だけ視線を泳がせると、すぐに背を向けた。
そこにルイ様とウォーレン、さらにはカトリーナやジュリアンまでが加わり、夕食の準備が整う頃には、店内は祝祭の後のような熱気に包まれていた。
今夜のメインディッシュは、ゾアの要望に応えた『特製厚切り猪肉のロースト・焦がし蜂蜜ジンジャーソース』だ。
脂の乗った猪肉を厚切りにし、表面を強火でカリッと焼き上げる。
肉汁を閉じ込めたところで、たっぷりの生姜と、琥珀色になるまで焦がした蜂蜜を投入する。
ジワッ、という激しい音と共に、蜂蜜の甘い香りと生姜の鋭い刺激が店内に充満した。
仕上げにテリオンが持ってきた香草を散らせば、野性味と洗練が同居した、暴力的なまでに食欲をそそる一皿の完成だ。
「さあ、召し上がれ!」
大皿に盛られた肉が運ばれると、ゾアは咆哮に近い歓声を上げた。
「ガオォッ! これだ! この暴力的なまでの甘み! 蜂蜜の熱が、戦いで昂った我が血を静めていく……主よ、貴殿の料理はやはり世界一の甘露だ!」
ゾアが豪快に肉を噛み砕く横で、テリオンは静かに、けれど慈しむように一欠片を口に運んだ。
「……味の調和が取れている……アリシア、この『隠し味』は、お前の優しさそのものだな」
食卓を囲むルイ様とウォーレンの間には、肉の香ばしささえも焼き切るような緊張感が漂っていた。
「……アリシア。今日の料理も素晴らしい。ただ、君がこれほど多くの男たちのために心血を注ぐ姿を見ていると、少しばかり、その情熱を独占したくなるね」
ルイ様が、エメラルドの瞳を細めて私の手を取った。
夕焼け色の髪を揺らし、彼は周囲に見せつけるように微笑む。
「……王様。独占欲を出すのは勝手だが、俺とアリシアの間には、あんたが入り込めない『空白』があるんだぜ」
ウォーレンが、ワイングラスを傾けながら割り込んだ。
狼のたてがみを思わせる不揃いな紺青の髪が、ランプの火に照らされて暗い影を作る。
「……空白? 思い出話なら、もう飽きるほど聞いたがね」
「いや、まだ話してないことがあっただろ、アリシア? あの日、花畑で指切りしたあとのこと。もし、俺が道を見失ったら、君がその銀色の髪を標にして俺を迎えに来るって約束……覚えてるか?」
ウォーレンのスモークブルーの瞳が、私を射抜く。
そんな約束、確かにしたかもしれない。
幼い頃、暗い森を怖がっていた彼に、無責任に投げかけた言葉。
「ウォーレン、それは……」
「……ほう。迎えに行く、か」
ルイ様の声が、一段階温度を下げた。
彼の右手の甲の紋章が、呼応するように微かな黄金の光を湛える。
「……ウォーレン。君の『記憶』には、少しばかり余計なスパイスが混ざっているようだね。アリシアが誰かを迎えに行くなら、それは私の隣へ帰る時だけだ。不作法な狼に、私の標を汚させるわけにはいかない」
「不作法なのはどっちだ。あんたは『今』しか見ていない。けど、俺は彼女が『何でできているか』を知っている――なあ、テリオン。あんたもそう思うだろ?」
突然話を振られたテリオンは、静かにナイフを置いた。
「……私は、アリシアの作る料理を信じている……それを乱すノイズは、たとえ王だろうと幼馴染だろうと、私の矢が貫く対象でしかない」
ゾアが「肉だ! 肉を足せ!」と騒ぐ声も、カトリーナの高笑いも、今の私には遠くの音のように聞こえた。
ルイ様の、すべてを包み込み、焼き尽くそうとする黄金の愛。
ウォーレンの、過去を楔にして私を繋ぎ止めようとする紺青の執念。
そしてテリオンの、影の中から守り抜こうとする寡黙な慈しみ。
夏の夜気の中に、あまりに多すぎる「想い」が混ざり合い、私のキッチンはかつてないほどの熱量を帯びていた。
「……皆様……不作法が過ぎますわよ」
私は、火照った顔を誤魔化すように、フライパンに残ったソースを激しく掻き回した。
私が帰る場所は、ルイ様だ。
それは、揺らぐことのない事実。
けれど、ウォーレンが語る過去の断片に、私の心臓が不作法に跳ね、テリオンの静かな視線に、胸の奥がチクリと痛む。
「……料理は嘘を吐きませんわ。皆様がこれほど騒がしいのは、きっと私の味付けが、少しばかり『欲深すぎた』せいですわね」
私は強がって笑い、最後の一切れを全員の皿へ等しく配った。
夏が緩やかに後半に差し掛かる。
北の公爵からの影が忍び寄るその前に、私の心は三人の男たちの情熱によって、跡形もなく焼き切られようとしていた。




