第12話 約束のタルトと、北の不穏な影
昨日の湖畔での騒がしい遠乗りから一夜明け、森の朝は洗練された静寂を取り戻していた。
水辺で二人の男が火花を散らした記憶を、私はキッチンでパイ生地を叩く音でかき消そうとしていた。
「……おはよう、アリシア。昨日の疲れは残っていないかい? 湖での君は、少しばかり眩しすぎたからね」
離れのログハウスから、いつも通り優雅なルイ様が現れる。
夕焼け色の髪を朝日になびかせ、エメラルド色の瞳で私の様子を伺うその姿には、王としての慈愛と、一人の男としての独占欲が絶妙に混ざり合っている。
「おはようございます、ルイ様。おかげさまで、身体は軽いですわ。ただ、耳元で響いた水飛沫の音が、まだ不作法に残っておりますけれど」
「はっ、水飛沫なら俺の方が派手だったろ? ――よう、アリシア。今日の朝飯は何だ?」
カウンターの隅。
当然のように居座るウォーレンが、狼のたてがみのように不揃いに重なる紺青の髪を乱暴にかき上げながら、ニヤリと笑う。
二人の間に流れる、火花が散るような日常……それを不意に断ち切るように、森の参道を抜けて見覚えのある馬車がやってきた。
「――お待たせいたしましたわ、アリシア様! あぁ、この森の空気……吸い込むだけで胃袋の準備が整いますわ!」
馬車の扉が開くやいなや、弾けるような声と共に降りてきたのはセシルだった。
麦わら色の髪を一つに束ね、大きな丸眼鏡をキラリと光らせた彼女は、周囲の情勢よりも先にキッチンの香りに全神経を集中させている。
「やれやれ、セシル。君は道中、馬車が揺れるたびに『タルトが逃げる!』と叫んでいたね……お久しぶりです、店主殿。グラン・ロアの寒風に晒された身には、この店の熱気は少々眩しすぎますな」
続いて降りてきたのはユリウス。
金髪のインテリジェンスを感じさせる男は、眼鏡の奥で狐のように目を細め、優雅に帽子を取って一礼した。
「セシル、ユリウス! 遠いところをよく来てくださいましたわ」
私は心からの笑顔で、信頼する二人を迎えた。
◇
「セシル、今日はギルドの休暇を申請して居座ると仰っていましたわね。約束通り、最高の一皿をご用意しましたわ」
私は、朝一番で焼き上げた『森の実りの贅沢タルト』を、惜しげもなくホールで差し出した。
バターの芳醇な香りが立ち込めるタルト生地は、二度焼きすることで、フォークを入れた瞬間にザクッという快音を立てる。
その上には、口当たりの軽いカスタードクリームを敷き詰め、先日市場で仕入れたばかりの果実を、山のように積み上げた。
弾けんばかりのミストベリー、鮮烈な酸味のクランベリー、そして深い甘みのワイルドブルーベリー。
仕上げに艶やかなジュレを纏わせたその姿は、夏の陽光を浴びて宝石箱のように輝いている。
「……これですわ! これをホールで独り占めするために、私は王都の嫌味な書類仕事を一掃してきたのですわ!」
セシルは、大きな丸眼鏡を曇らせながら、一切の躊躇なくタルトにフォークを突き立てた。
ザクッ、という完璧な音と共に、ベリーの果汁が溢れ出し、カスタードと混じり合う。
「……んんっ! この、暴力的なまでのベリーの鮮度! そしてタルト生地の香ばしさが、喉を通り過ぎるたびに私の魂を浄化してくれますわ。これぞ不作法な至福……!」
セシルが幸せそうにタルトを頬張る横で、ユリウスは小さなカットタルトを三口ほどで食べ終え、ふと視線を鋭くした。
「……さて。セシルの胃袋が半分ほど埋まったところで、店主殿。デザート代わりに、グラン・ロアから運んできた『不吉な話』をしてもよろしいかな?」
ユリウスが声を潜め、私とルイ様、そしてウォーレンに聞こえるように囁いた。
「我々はグラン・ロアの宮廷で、最近『北の公爵』が不穏な動きを見せているのを掴みました……彼は今、ヴァレンタイン家の失墜を狙い、同時にアスター家の『失われた遺産』を追っているようですな」
「遺産だと? 没落した俺の家に、そんなもんがあるはずない」
ウォーレンが眉を顰める。
ユリウスは眼鏡を指で押し上げ、冷徹に続けた。
「公爵はそうは思っていない……店主殿、公爵夫人の件でヴァレンタイン家の地位が揺らいでいる今、彼はあなたに『招待状』を送る口実を探している。目的は、アスター家の没落に関わる『証拠』を、あなたの家が隠し持っているという疑念です」
招待状。
その響きに、私の胸元にある「鍵」のペンダントが、少しだけ冷たく感じられた。
「ルイ殿、王としての力添えは心強いが、北の公爵は狡猾だ……店主殿、今はまだこの日常を楽しんでおきなさい。嵐が来るのは、もう少し先の話でしょうから」
ユリウスは皮肉な笑みを浮かべ、残った茶を飲み干した。
北の公爵。お母様の罪。
そしてウォーレンの過去。
日常のすぐ裏側に、氷のように冷たい真実が忍び寄っている。
重苦しい沈黙を破ったのは、タルトを完食したセシルの元気な声だった。
「ユリウス! せっかくのタルトの余韻が台無しですわ! アリシア様、北の公爵なんて私が影でギッタンギッタンにして差し上げますわ。今はそれより……あと、ハーフサイズで追加お願いしますわ!」
「……セシル、貴女の胃袋は異次元に繋がっているのかしら」
私は思わず笑い声を上げた。
ルイ様の安定した愛、ウォーレンの背負う過去の重み。
そして、それを支えてくれる仲間たち。
「……わかっておりますわ、皆様。どんな嵐が来ようと、不作法に私を呼び出す者がいようと。この店の味と、私の大切な人々は私が守り抜いて見せますわ」
私は力強く宣言し、キッチンの火を強めた。
北からの風はまだ冷たいけれど、今の私の手元には、最高に温かくて騒がしい日常がある。
「さあ、セシル! 次は『森のキノコと鹿肉のパイ』ですわよ!」
「待ってましたわ、アリシア様!」
カフェに響く笑い声。
夏も半ば過ぎ。
祝祭の余韻の中に、新しい物語の種が静かに蒔かれた朝だった。
◇
楽しい時間はあっという間に過ぎ、太陽が天頂を越える頃、セシルとユリウスの短い休暇は終わりを迎えた。
「――あぁ、帰りたくありませんわ! アリシア様、このタルトを抱えて馬車の中で冬眠したい気分ですわ!」
馬車のステップに足をかけながら、セシルが本気で名残惜しそうに叫ぶ。
その手には、私が道中のために包んだ『鴨肉と林檎のホットパイ』が大事そうに握られていた。
「セシル、またいつでもいらして。貴女が戻ってくるための『特等席』は、いつでも空けておきますわ。クラリス、彼女がいつ戻ってきてもいいように、最高に居心地の良い休息を用意しておいて差し上げて」
私の言葉に、クラリスが静かに一礼した。
「畏まりました。セシル、貴女が北の影で戦う間、私はここを一点の曇りもなく磨き上げておきます……次に貴女が戻った時、その眼鏡に迷いの曇り一つないことを期待していますわ」
クラリスの淡々とした、けれど温かな激励に、セシルは丸眼鏡を光らせて不敵に笑った。
一方で、ユリウスは馬車に乗り込む直前、ふと真面目な顔で私を見つめた。
「店主殿。北の公爵が動けば、グラン・ロアの情勢は一気に凍りつく。次に我々が会う時は、おそらくこの穏やかな森の中ではないでしょう……その覚悟だけは、しておいてください」
「……ええ。わかっておりますわ」
ユリウスは短く頷くと、帽子を深く被り直した。
馬車がゆっくりと動き出し、森の緑の中へと消えていく。
その背中を見送る私の隣には、黄金の守護者であるルイ様と、紺青の執念を抱えたウォーレンが、相変わらず無言で立ち並んでいた。
「……アリシア。行こうか。店の中に、少しばかり北の冷気が入り込んでしまったようだ。温かい茶を淹れ直そう」
ルイ様が、私の肩を優しく抱くようにして促す。
「……北の風、か。俺には少しばかり、懐かしい匂いだぜ」
ウォーレンが、風に乱れる紺青の髪を抑えながら、遠い北の空を睨むように呟いた。
夏の熱気の中に、確かに混ざり始めた白銀の予感。
私は、去りゆく馬車の轍を見つめながら、胸の鍵を強く握りしめた。
平和な日常は、もうすぐ「選択」という名の嵐に飲み込まれていく。
けれど、私は逃げない。
この場所と、大切な人々の誇りを守るために。




