第11話 碧き湖畔の誘惑、空から降る恋の嵐
昨夜の重苦しい「男たちのサシ飲み」の余韻を振り払うかのように、翌朝の空は抜けるような青さに染まっていた。
森の緑は朝露を吸い込んで輝き、吹き抜ける風には、夏の匂いと共に遠くの水の気配が混ざっている。
「アリシア。昨夜はあまり眠れなかっただろう。今日は少し店を休んで、湖まで遠乗りに行かないか? 良い気分転換になるはずだ」
ルイ様が、いつもの穏やかな、けれど有無を言わせぬ王の微笑みを湛えて提案してくれた。
確かに、カフェの中に居ると、あの紺青の狼の視線を四六時中浴びることになる。
私はルイ様の優しさに甘え、肩に流れる銀髪を風に遊ばせながら愛馬の準備を整えた。
ところが。
「……奇遇だな。俺も今朝は、ひどく水浴びをしたい気分だったんだ。王様、道案内ならこの辺りの地形を熟知している俺に任せてくれよ」
当然のように、ウォーレンが自分の馬を並べて現れた。
夜空の深淵を溶かし込んだような紺青の髪が、朝の強い陽射しを弾いて、鋭い毛先の一本一本まで野性的な光を放っている。
その髪型は彼が馬を操るたびに激しく揺れ、スモークブルーの瞳には「邪魔はさせない」という不屈の意志が宿っていた。
「……ウォーレン。君の『不作法な偶然』には、いい加減、驚きを通り越して感心するよ」
ルイ様が、白馬の手綱を握る手に微かな力を込める。
「二人とも、おやめなさいな……せっかくの遠乗りですのよ」
私は、右にルイ様、左にウォーレンという、既にお約束のようになっている圧の強い布陣で、湖畔へと続く森の道を踏み出した。
◇
辿り着いた「シエル湖」は、まるで空の欠片をそのまま地上に落としたような、透明度の高い碧色に輝いていた。
水面には夏の光が砕けて散り、周囲の木々が涼やかな影を落としている。
「アリシア、見てごらん。あの水底に咲く『星屑藻』の光を。君の瞳に映れば、より一層輝きを増すだろうね」
ルイ様が馬を下り、エスコートのために優雅に手を差し伸べてくださる。
その指先が私の手に触れるたび、昨夜の岩陰での記憶が蘇り心臓が不作法に跳ねた。
「……ふん。花より実利だろ。アリシア、あの浮島に生えてる『水蜜クレソン』を見てみろ。あれをソースに使えば、夏の肉料理は最高に化けるぜ」
ウォーレンは馬から飛び降りるなり、ブーツが濡れるのも構わず水際まで進み、私に挑発的な視線を送る。
「王様。馬術や魔法じゃ測れない『獲物の見つけ方』ってのを、教えてやるよ」
「……ほう。ならば、どちらが先に、アリシアに相応しい『贈り物』を届けられるか、勝負といくかい?」
ルイ様のエメラルド色の瞳に、静かなる闘志が宿る。
一人は、魔法を駆使して水面を歩くように進み、一人は、野性的な勘と身体能力で水飛沫を上げて突き進む。
私は二人の男の背中を見つめながら、呆れ半分、期待半分で立ち尽くすしかなかった。
――その時だった。
頭上から、激しい風の音と共に巨大な影が湖面を覆った。
「わあぁぁっ!? カトリーナさん、もっとしっかり掴まってください! アビーが、アビーが……!」
「――ジュリアン! 貴方、この私を落とす気!? 魔法使いが墜落死なんて笑い話にもなりませんわよ! おーっほっほっほ……っ、ひっ!?」
見上げれば、ワイバーンのアビーに乗ったジュリアンとカトリーナが、今にも湖に突っ込みそうな高度で旋回していた。
カトリーナの縦ロールが風で無惨に乱れ、彼女は必死にジュリアンの腰にしがみついている。
「……ジュリアン!? それにカトリーナまで!」
アビーは水面スレスレで急上昇し、対岸の草原へと不時着した。
砂埃の中から現れたのは、顔を真っ赤にしたジュリアンと、肩で息をしながらも即座に扇子で顔を隠したカトリーナだった。
「あ、アリシアさん! ルイさんまで! ……すみません、カトリーナさんが『涼しいところへ連れて行きなさい』って仰るから、アビーで遠乗りを……」
「……ち、違いますわよ! 私はただ、この未熟な魔物使いの訓練を監修していただけですわ! こんな不衛生な水溜まりに興味なんてありませんわよ!」
ツンデレ魔導師の強気な言葉とは裏腹に、彼女の視線は、ジュリアンが差し出した「お詫びの冷えた果水」をじっと見つめている。
どうやら二人きりの「空のデート」を、思わぬ形で目撃してしまったようだ。
賑やかになった湖畔。
私はこの気まずい空気と二人の男の勝負を一度リセットするために、用意してきた特製のピクニック・ランチを広げた。
「……皆様、少し落ち着きなさいな。まずは、これを召し上がって」
私が取り出したのは、『厚切りスモークチキンと焦がしレモンの冷製クロワッサン・サンド』だ。
バターの香りが豊かなクロワッサンを二つに割り、中には昨夜からハーブでマリネしてしっとりと燻製にしたチキンを厚切りにして挟み込む。
そこへ、強火で表面を焼いて甘みを引き出した「焦がしレモン」の輪切りと、クレソンの苦味を添える。
仕上げに、自家製の冷たいマスタード・ハニー・マヨネーズをたっぷりと。
さらに、デザートには『砕き氷のベリー・コンポート』。
市場で仕入れたばかりのミストベリーを、赤ワインとスパイスで煮詰め、それを砕いた魔法氷の中に閉じ込めたものだ。
「……ふむ。このレモンの焦げた香りが、チキンの脂を完璧に引き締めているな」
ルイ様が、優雅にサンドを一口頬張り、目を細める。
「……はっ。このクレソン、さっき俺が見つけたやつより少しだけ質がいいな。悔しいが、アリシアの料理には勝てねえ」
ウォーレンも、口いっぱいにサンドを放り込み、スモークの香りを堪能している。
「あ、甘い……! アリシアさん、このベリー、噛むたびに氷と一緒にパチパチ弾けて、すごく涼しいです!」
ジュリアンが目を輝かせ、カトリーナも「……まあ、毒見くらいはして差し上げますわ」と言いながら、二個目のサンドに手を伸ばしていた。
◇
楽しい時間はあっという間に過ぎ、湖面は夕焼けの色を映して、琥珀色に染まり始めた。
ジュリアンとカトリーナは再びアビーに乗って、今度は少しだけ穏やかな様子で空へと戻っていった。
残されたのは、私と、ルイ様、そしてウォーレン。
三人の影が、砂浜に長く伸びる。
「アリシア。楽しかったよ。だが、忘れないでほしい……私の隣は、他の誰にも譲らないということを」
ルイ様が私の髪にそっと触れ、静かに、けれど強く私をその瞳に焼き付ける。
「……俺もだ。王様、あんたがどれだけ綺麗なエスコートをしようが、俺は泥臭く、あの日交わした『続き』を獲りに行く。覚悟しておけよ」
ウォーレンが、双剣の柄を鳴らし、不敵に笑う。
二人の男の執念は、この碧き湖の静寂を塗り潰すほどに熱い。
(……私、本当にどうなってしまうのかしら……ルイ様への愛は確かなのに、この不作法な日常の熱が、私の心をどんどん掻き乱していく……)
私は、空になったピクニック・バスケットを握りしめた。
夏の終わりは、まだ遠い。
けれど、私たちの関係を揺るがす大きな嵐は、もうすぐそこまで迫っている。
「……さあ、帰りましょう。明日の仕込みも、山積みですわよ!」
私は二人に背を向け、馬を走らせた。
背後から追いかけてくる、黄金と紺青の二振りの足音。
私の心の中の「ノイズ」は、今日も、心地よく、そして不作法に鳴り響いていた。




