思わず、敦子はその日の食卓で父に尋ねた。
敦子には母親がいなかった。なぜかは本人にも分からない。物心ついた時から父親と二人暮らしで、敦子自身も母親がいないのが当たり前だと思って過ごしていた。父親は無口で、幼い敦子を託児所に預けてはほぼ毎日仕事に繰り出し、黙々と、淡々と家事をこなした。だが父親は我が子であるはずの敦子に対しても異常なほど関心がなかった。敦子が託児所で楽しかったことなどを話しても、父親は冷めた目つきで何も言わずに見返してきただけだった。「今日ね、先生とお友達と一緒に、折り紙、折ったの」父親は一言も発することなく、それを無視する。「先生からお手紙。お父さんに、見せてって」父親はそれを受け取りはした。だが一読すると、すぐにその紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱の中に放り込んだ。どうしたの、と尋ねても父親は何も答えなかった。父は無機質な機械のように、家事と仕事だけに打ち込み、その合間に自分を育てているように、敦子は感じていた。いつしか敦子の中には底知れない父親への不信感が溜まり積もっていった。
何を言っても反応しない父に反発してか、年を重ねるごとに敦子は物事をきっぱりと言う性格になっていった。同い年の子供たちの相談にも自分の意見をストレートに返し、揉め事とあらば時に体を張った喧嘩も厭わなかった。
だが小学校六年生になったある時、そうした揉め事の間で敦子を「片親のくせに」と罵った子供がいた。敦子はそれに酷く傷ついて、泣きながら帰って来た。相変わらず、父はそんな自分の姿を見ても、清々しいほどに反応を示さない。思わず、敦子はその日の食卓で父に尋ねた。
「ねえ、何でうちにはお母さんがいないの」
駄目元だった。どうせ答えてくれないだろうな、と敦子は思っていた。だが父はそんな敦子の予想とは全く異なった態度を示した。手に持っていた食器を卓の上に置いて、突然手近にあった熱い味噌汁を茶碗ごと敦子に投げつけたのだ。
ガラスが割れるような音がした。何があったのか、敦子には一瞬分からなかった。だが次の瞬間顔を上げると、普段は温厚とまではいかずとも黙っているだけの父親が、目元を冷たげにしたまま眉間に皺を寄せていた。そして腹に味噌汁をぶちまけたまま呆気にとられている敦子の襟首を掴んで立たせると、有らん限りの力で彼女を前方に突き飛ばした。狭い部屋だった。隅にあったテレビ台に背中をぶつけ、敦子は肩と肋骨の間に深い痛みを感じた。だがそれだけでは留まらず、父親は転倒した反動と痛みで動けない敦子を二、三度蹴り飛ばして、上から体重を掛けるように胸を踏みつぶした。痛覚が麻痺しそうなほどの圧力が、肺に空気を送り込むことさえも困難にする。
その時敦子は、もう二度と母のことについては父には尋ねまい、と思った。母親のことを知りたい、父に何か話してもらいたい、という気持ちはあったが、これほどまでに父を豹変させてしまう要因を、父親本人に尋ねても何も言ってはくれないだろうし、また殴られるだけだろう。これだけ苦しい思いをするならば、そんなことはもうどうでもいい。父のことも、触らぬ神に祟りなしと思って構わないようにしよう。
だが翌日から、敦子の父は暴徒と化した。敦子がどんなに接触を避けようとしても、父は顔を合わせただけで暴力を振るうようになったのだった。何が気にくわないのか敦子自身にはさっぱり分からない。逆らった覚えも、気まずくなった覚えもないのに、父は遮二無二自分を殴りつける。表情はいつも冷たかった。理不尽な暴力は日に日にエスカレートし、一週間経つ頃には刃物で体を傷つけられることも珍しくはなくなった。泣いても喚いても、父は許してくれない。仕舞いには、突き飛ばされた衝撃で箪笥の角にぶつかり、顎と頭の骨の接合部がずれ込んで右耳の調子が悪くなった。気まぐれに何度も殴られた。本当に嫌になった時は学校からまっすぐ家に帰らず、出来る限り長く友人の家に居座った。帰ると再び何も言われずに暴行された。幸いな事に度重なる暴力のうちでも顔だけは傷つけられなかったが、それも後から考えれば、周囲に通報されるのを防ぐための父の計算だったのだろう。
何度も殴った後、父はいつも冷ややかにぼろぼろになった敦子を見つめていた。色のない瞳にはその後ろにある感情も一切読み取れない。敦子はそれがとても恐ろしく、ある程度分別が付くと父親と距離を置きたい心理も働いて応答は全て丁寧語で行うようになった。殴られて、蹴り飛ばされて、「申し訳ございません」と謝る。毎日がその繰り返し。父親は暴力に疲れ果てると一言、「お前さえ生まれて来なければ」と実の娘に対して吐き捨て、不貞腐れたように床につくのだった。
幼い頃から暴力を振るわれてはいたが、敦子はそれを誰かに告発しようと思うことは全くなかった。慣れ切ってしまったせいもあるのかもしれない、だがそれ以上に、父親から受ける暴力から比べれば、同じ学年の子供から受けるいじめや嫌がらせが苦ではなくなったためであろう。中学生の頃には、学年全体が狂気に飲み込まれたように皆他人を罵り合った。だが所詮そんなもの、生きていることなどつまらないと嘯く連中の可愛い御遊びに過ぎない。敦子自身も下駄箱の中にカエルの死骸が大量に詰まったことがあったが、彼女にとってそれは、カエルが入っているのか、以上の感想を何も抱かせなかった。中学生の大半は、死にたいなどと言っていても、本当に身の危険を感じて死に瀕したことなどない。日常的に「お前さえ生まれてこなければ」などと生きる意味を否定されることもない。
生きる意味を否定され、本当に自分は生まれてきてはいけないのだと思い込むことが、その頃の敦子にはしばしばあった。父親は、死ね、とは言ってこなかったが、生まれてこなければよかったのに、とはほぼ毎日のように言ってきた。生きる意味なんて、敦子には最初から与えられていなかったようなものだった。誰にも求められない、誰にも肯定されない茨のような道を、孤独に耐えながらひたすら進むしかなかった。いつしか敦子は人生に意味を見出すことを止め、物事の意味を探ることそのものを放棄することにした。相変わらず父親の気まぐれな殴打は続いていた。普段父から受けている暴行のことを思えば、高々カエルの死骸が百匹や二百匹、下駄箱に入れられているくらいでは驚きもしない。この世の中で最も恐ろしいものは父親だという意識が、敦子を追いつめもしたし、同時に強くもした。
高校生になると、放課後の時間を部活の代わりにファミレスのバイトに当てることにした。ある程度社会に慣れておくため、という理由を立ててはいたが、実際にはバイトで帰宅時間を遅らせて父親と対面する時間を減らすのが目的だった。バイトの給料は、全額没収されるかと思ったが、特に厳しく言われなかったので自分で取っておくことにした。金の工面については、父親の仕事が続いていたからあまり心配なかったようだった。敦子の養育には全く興味がなかったはずなのに、父親はなぜか学費だけはきちんと払い続けていた。大学に行きたいと告げた時も、別に反対もされず、応援もされなかったが金だけは必ず用意されていた。
バイトから帰ってくると父親は既に寝ていることが多かった。敦子の目論見通り、高校の間に父が暴力を振るうことは少なくなった。しかし今度は別の問題が敦子を苛んだ。それは寝ている間に見る夢の内容だった。現実での暴力が止まったと思った矢先、敦子は父親に暴行される夢を毎晩のように見るようになった。夢の中でも父は敦子を冷淡に見降ろし、殴ったり蹴ったり、さらには実際には手を出さなかった顔にまで危害を加えるようになっていた。やはりどんなに謝っても、父は許してくれなかった。敦子はそれからというもの、夜中に何度も目を覚まして気が休まらない眠りに心身を疲れ果てさせることになった。目を覚まして父親に気づかれるとまた酷く殴られたので、敦子は毎日家の中で気を張り続けていたのだった。




