厳島の戦い―国司の胃痛
赤川殿の襟首を掴んで、強引に暗がりの外へと連れ出した。
そこでようやく手を離して、大きな、大きな溜息を吐いた。
「赤川っ! お前というやつは……! 自分の命が、いくつあっても足りぬと思っておるのか!」
「何だ国司! 俺はただ、雫殿が見当たらないから心配して探していただけだ。
それに雫殿にあの時の俺の槍捌きを、もっと詳しく……」
赤川がまだ不満げに鼻を鳴らすのを見て、自分のお腹のあたりを一撫でするようにして、声を潜めて詰め寄ったわ。
「阿呆っ! あの状況を見ろ! 隆景殿が雫殿をあんなに……あんなに『必死』に抱きしめておられるのだぞ! あの御方が、他人の前で感情を剥き出しにされるなど、万に一つもあることか!」
あの独占欲に満ちた瞳を思い出し、身震いした。
「いいか、今の隆景殿はな、戦場の鬼神よりも恐ろしいのだ。あの方にとって、今は雫殿との一刻が、厳島の勝利よりも重い。……そこへ割って入るなど、自ら敵の陣中に丸腰で飛び込むに等しいわ!」
赤川が「……だが、雫殿は男であろう? あんなに女子のように扱うなど……」と、まだ半信半疑で首を傾げている。
「男か女かなど、今の隆景殿には関係ないのだ! あの方にとっては『雫殿』か『それ以外』か、二つに一つ! そしてお前は、今この瞬間、間違いなく『それ以外』の、最も邪魔な存在なのだ! ……分かったら、さっさと俺と酒を飲みに来い。死にたくば、一人で戻るがよい!」
また今度雫殿には話すかと文句を言いながら酒宴に戻った赤川殿を見送った。
……やはり、一言謝っておかねば、赤川の首が物理的に飛びかねん。
そう覚悟を決めて、ほんの少しだけ幕の隙間から中を覗き込んだその瞬間。
呼吸するのを忘れるほどの光景が広がっていた。
そこには、泣き疲れて、けれどまだ時折ひっく、と喉を鳴らして隆景殿の膝に縋る雫殿と……その雫殿の背中や頭を、まるでもう二度と離さないと誓うように、指先ひとつひとつに熱を込めて、ゆっくり、ゆっくりと撫で続けている隆景殿がいた。
隆景殿のその表情は、戦場で見せる鋭利な刃のような冷徹さは微塵もなく、お気に入りを手離したくないという痛いほどの執着と慈愛に満ちていた。
なんということだ。あの隆景殿が、あのような……あのように、一人の人間に魂を奪われたような顔をされるとは。
肌が粟立つ。
もし今、声をかけてこの静寂を壊せば、たとえ自分であっても、一瞬で灰にされるような、そんな触れられない空気を感じる。
音を立てないように、一歩、また一歩と後ずさりした。
深くため息をはき、静かに天を見上げ、こう呟いた。
「……触らぬ神に、祟りなし。……謝罪など、明日でよい。いや、来世でもよいわ。」
雫殿は確かに女子のように白くて細く、触れたら折れてしまいそうな儚さはある。だが男子なのだ。
まるで愛しい女子を目の前にしているようだった。
それにしても殿(隆元)はこれを知っているのか?
雫殿は殿の秘蔵の小姓。その雫殿に、弟の隆景殿が文字通り「ゾッコン」なのだ。もし殿がこれを知ったら、「弟に小姓を奪われそうになっている」と、流石にお怒りになるのではないか?
もし殿も雫殿をそちらの目で見ておったら…。
殿と隆景殿が戦う最悪の事態を想像し震えた。
言えぬ。……口が裂けても、殿に『隆景殿が、お宅の小姓を食い入るような目で見つめて、夜通し撫でておられましたぞ』などとは言えぬ……!
何も見なかったことにしてしまいたい。
そう思い、酒をまた1口飲んだ。




