day29 大家さん
右目の眼帯。
長いパーマのかかった茶髪を無造作に真ん中分け。
しっかり塗られた真っ赤な口紅が目を引く。
これは、今年七十二歳になる我がアパートの大家さんの特徴である。
今、目の前にいるこの御婦人である。
目の前にいるってか俺が大家さんの部屋にいるんだけど。
次の家賃を五千円引きしてくれるって言うから町内会のイベントの冊子を作る手伝いをしている。
これはもう、軽作業で五千円くれる単発アルバイトみたいなものだ。やらない手はない。
商店街のチラシを冊子に挟んで折り畳んでを繰り返すだけ。
この分だと一時間もかからないな。時給五千円。
しかも俺はこういう単純作業は得意だし、好きだ。
「大家さんさぁ、突然現れた人に、まったく知らない世界で一緒に暮らせって言われたらどうします?」
「まずは金と人だね。それから、その世界で自分に合致する才能を探すのが賢いだろうね」
「…………」
行くのは前提なんだな……
「今より悪くなっても戻れないって条件でも?」
「そんなのは馬鹿が考える事さね。苦難は若人の見せ場だよ」
「……俺、馬鹿なのかなぁ。いや、元々自分が賢いとか思ってねえんだけど……」
「どっちでもいいじゃない。馬鹿なら上等、賢いなら賢く立ち回りゃあいい」
まだ二十五年しか生きていない俺には大家さんの言ってる事がぼんやりとしかわからなかった。
俺もあと五十年くらい生きたら大家さんくらい肝が据わるのかな。
……七十五歳で異世界へ?
いや、もうとっくに女神にもテレシアちゃんにも見捨てられてるだろうな。
…………。
もし、ある日突然……女神が俺に愛想を尽かせて諦めたらどうなるだろう?
新しくなった日常が終わり、一回リセットされた孤独が再び始まったら、俺は普通に生活できるのだろうか?
俺は……そもそも孤独を感じてたか?
「なぁぁぁぁにやってんだい!!!! なぁぁりたぁ!!」
「っ!!?」
「商店街のチラシを挟んでから畳みなぁ!!!!!!!!!!!」
らしくない事を考えてたら作業をミスってた。
我がアパートの魔王にシバかれた……
「大家さん……もしさぁ、放っておけない異性が中々……なんだろ……決断っていうか、動き出さなかったらどのくらい待てます?」
「待つ待たないの話じゃあないね。ずっと一緒にいるだけさ」
「……ずっと?」
「あんたみたいな不器用の朴念仁がこんなお嬢ちゃんみたいな事を言うんだ、色恋で悩んでんだろう?」
「悩んでるっていうか……まぁ……。色恋かどうかはわかんねえけど」
「狐みたいなお嬢さんだろう? あの子はいい子だよ。あんたをよく支えてる。大事にしてやんな」
……読み違えてるぞ、大家さん。
「あー、終わった。これどうします?」
「この封筒に入れな。十冊に分けてね」
「あれ? こっちのはこのアパートの分?」
「ああ」
「もう部屋に戻るだけなんで配ってきましょうか?」
今考えると、俺は大家さんに何を聞いてるんだろうな。
アパートに配る分の冊子と大家さんがくれた煎餅を抱えて外に出ると太陽が帰り支度を始めて色を変えていた。
俺は町内会の冊子を持ったまま、まっすぐ自分の部屋に向かった。
「ただいまー。女神これー」
「これは?」
「町内会の冊子。この階の部屋に配ってきて。俺は一階に配ってくるから」
女神は俺の頼みを当たり前のように、返事すらせずに引き受けてくれる。
頼んだ俺がこんな事考えるのはどうかと思うけど、なんかフェアじゃないよな。
なんか……一つくらい女神の要望に応えられないだろうか。
町内会の冊子を配り終えて二度目の帰宅。
玄関の扉を開くと、煌めく宇宙のような空間が目の前に広がった。
女神が内側から玄関の扉に向けて異界への扉を開いている。
つまりは罠である。
異界への扉の横をすり抜けて部屋に入ると女神が落胆の表情でこちらを見ている。
「無理だからな?」
「へ?」
「こんな雑な罠にかかるほど馬鹿じゃねえ」
「オルフレヴネと二人で考えたのに……」
「……なぁ」
「旅立つ?」
「立たない。異世界行き以外になんか望みはないの?」
「それ、私のセリフじゃない?」
少し考えるそぶりを見せてから困ったように笑う女神は、結局答える事はせずに再びくつろぎはじめてしまった。
俺の後ろめたさや悩みなんか、女神にとってはこの程度なのかもしれない。
「欲しいものがある、とか……」
「……ふふ、どうしたの?」
「いや、別に……」
まるですり抜けるような女神の答えに核心は得られず、今や慣れてしまったこの日常に戻ってしまった。
後で何かプレゼントでも買ってやるか? それとも何かしてあげられる事はあるか?
ダメだわかんねえ。
俺みたいな生き方してきた人間には気の利いた言葉すら思い浮かばない。
後でテレシアちゃんにでも聞いてみるかな。




