【Side:九条まこと】 仮面の教師
廊下を歩く足音もなく、遠くで警備の騎士が交代する気配だけが石造りの壁を微かに伝ってくる。九条まことは、城の奥まった一室の扉を、二度ノックした。
「どうぞ」
部屋に入ると、蠟燭が数本灯っているだけで薄暗かった。執務机の前に、宰相ルドルフ・ヴァイツェンが座っている。五十がらみの男で、白髪交じりの顎鬚を整えた、落ち着いた外見だ。ただ、その目だけは常に何かを計算しているように冷たかった。
「報告を」
九条は椅子に腰を下ろし、足を組んだ。教壇の前に立つときと変わらない姿勢だった。
「一番目ぼしい戦力の神崎は順調です。《聖剣》の習熟も速い。精神的な安定も保てている——戦場に出せるだけの素地は十分でしょう。他も粒ぞろいで問題ありません。ただ高嶺澪は《治癒》の才能は確かですが、感情の振れ幅が大きい。黒瀬の件で、集中が乱れています」
「感情など、いずれ磨耗する。使えればいい」宰相は書類に視線を落としたまま答えた。「それより、死んだ黒瀬という異世界人についてだ。聖印の回収を試みたが、適合が確認できなかった。《記録》はスキルとして聖印と噛み合わなかったということか」
「おそらくは。推測の通りスキルとの相性が悪かったのかもしれません。しかし他の人間は問題ないでしょう」
「惜しいことをした」宰相の口調に、惜しむ感情は欠片もなかった。「まあ、戦力として期待していたわけでもないが——回収できないのでは、召喚した意味がない」
「神崎たちの結束は、あの件でむしろ強まっています。戦力として見れば、有用な形に落ち着きました」
「そうだな。無駄な情に流される者が減ったと考えればいい」宰相はそれ以上、黒瀬という名前に触れなかった。「引き続き、異世界人たちの管理を頼む。感情の揺れに乗じて、余計な動きをさせるな」
「わかりました」
◆
王城を出た九条まことは、城下の裏路地をひとつ抜けた先で足を止めた。
暗がりの中に、ヴェリナが立っていた。訓練ダンジョンで異世界人たちと交戦した魔族だ。人の女に見えるが、その気配だけは隠しようがない。壁に背を預けて腕を組み、九条が来るのをあらかじめ知っていたような顔をしていた。
「先日の件で、話があります」
「仕留め損ねたことか」ヴェリナは肩をすくめた。「想定外の動きをした者がいた。あの《記録》——鏡を使うとは、奇妙な真似をするものだ」
「仕留め損ねたことは問題ではありません」九条は、口調を変えずに言った。「現場で、スキル名を口にしたことが問題です」
「スキル名?」
「《聖剣》、《記録》——対峙した相手に向かって直接名前を口にしている。あの情報は私が渡したものです。漏れた場合に疑いがかかるのは私だということ、わかっていましたか」
「知っていることを口にしただけだ。お前から聞いたとは言っていない」
「私がこの立場を維持できなくなれば、渡せる情報もなくなる。訓練ダンジョンの入場日程も、英雄聖堂への遠征経路も、今後は全て私を通してのものです。それを理解した上で、現場の動き方を考えてほしい」
ヴェリナは少しの間黙っていた。
「わかったよ」
「穴に落ちる前に、黒瀬ユウが私に相談を持ってきました。なぜ魔族が自分たちのスキルを知っているのか、と。その場で丸めましたが、余計な疑念を植え付けたのはあなたの動きが原因です」
「そこまで気づいたか」ヴェリナの目が、わずかに細まった。興味とも侮りとも取れる色が、一瞬過ぎた。「……まあ、以後は気をつけよう」
背を向け手をひらひらと振りながら去っていく。
謝罪というより、場を収めるための言葉だった。九条はそれ以上は引き留めず、踵を返した。
◆
翌朝の訓練場は、いつもより人が少なかった。捜索が縮小されてから、クラスの中に落ちた沈滞がまだ残っている。黙々と剣を振っている者がいれば、ベンチに座ったまま動けないでいる者もいた。相沢しおりは、訓練場の端の壁にもたれて膝を抱えていた。眼鏡の奥の目が、赤い。
九条まことは近づいて、その隣に腰を下ろした。
「相沢さん、大丈夫?」
相沢がゆっくりと顔を上げた。
「先生……黒瀬くんが、いなくなって……」言葉が途切れた。「みんな、頑張らなきゃって言うんですけど、私……うまく切り替えられなくて」
「切り替えなくていいわよ」九条は、静かに言った。「辛いのは当然のことだもの。無理に平気なふりをしても、どこかで崩れる。今は、ちゃんと辛がっていい」
「……先生」
「でもね——あなたたちは生きてる。黒瀬くんにできなくなったことを、あなたたちはまだできる。それだけは、忘れないで」
相沢がゆっくりと瞬きをして、九条を見上げた。涙が、また滲んでいた。けれど、その目には少しだけ力が戻っている。
「……はい」
九条は、穏やかに微笑んだ。完璧な笑顔だった。教師としての、優しさと強さを両立させた、何年も磨いてきた笑顔。相沢は、その笑顔を見て、ほんの少しだけ救われたような顔をした。
九条まことは、その表情を確かに目に焼き付けながら——その本心を、誰にも見せなかった。




