ミラベルの不安
「なんで殴るかなぁ、ヒューバートのやつ。だって、いろいろもったいないだろ? 代わりに誰かが式を挙げた方が、コスパいいじゃん?」
切れた唇を痛そうに触りながら、クライヴは呻くように言った。
購入したばかりの家庭用製氷機の氷で最初に冷やすことになったのが、自分の顔面だとは思わなかったでしょうね。
私は氷の入った革袋を彼の顔からどけると、腫れたまぶたの下にあるであろう目を見て説教した。
「クライヴ、それは自業自得よ。シンシアの虫よけに兄様を使おうとするから──」
「悪かったって」
うるさそうに、彼は私の言葉を遮る。
「俺だって、あの子がヒューバートに恋してたなんて、最初は知らなかったんだ」
深く息を吐き、眼鏡をかけるクライヴ。
それで少しだけ、試合を終えたボクサーから、いつもの胡散臭い実業家の顔に戻った。
「知らなかった、では済まないところだったわよ。あの子、ずっと無理してたんだから」
私の可愛いシンシアは、痩せ細って、髪まで抜けてしまったのだ。
「じゃあ君は知っていたのかい?」
「う……」
確かに、シンシアから兄への想いを打ち明けられた時、初めて知ったわ。
それでも、あの時の彼女の気持ちは、今なら痛いほど分かる。
私は伸びをしながら大きく欠伸するクライヴを、複雑な心境で見つめた。
一応初夜なのに、そうは思えないほどリラックスしている。
この人に、どうやって女性として見てもらえばいいのだろう。
「どうした? 君もこの結婚式ジャックが気に入らないのか? ……後からもう一度やり直そうぜ、あいつらと一緒にね。今度は既製品じゃなくて、オーダーメイドのウェディングドレスを着ればいい」
……気にしているのはそこじゃないのよね。
「とにかく、初夜もその時までお預けだ」
初夜という言葉をあまりに軽く口にされ、私は返事ができなかった。
それでも、一応この結婚を続ける気はあるらしい。
別に無理をしなくていいのに、という言葉は呑み込む。
私は嘘が下手だ。
下手をすると「べ、別に無理に結婚しなくてもいいんだからね!」などという、ベタなツンデレお嬢様になりかねない。
正直に言えば、結婚はしたい。
没落令嬢への同情でも、幼なじみへの友情でもいい。クライヴの妻になれるなら。
「どのみち、この切れた唇じゃ、痛くてキス一つできないしな」
低い呟きに胸がドキンとした。
しかし彼の顔を覗き込むと、もうムニャムニャ言いながら眠っていた。
結局その夜は、ただ朝まで一緒に寝ただけだった。
※
──パチッ
暖炉の火がはぜる音に、前回の初夜を思い浮かべていた私は、びくっと肩を震わせた。
あの騒動でシンシアとヒューバート兄様は、初夜はもちろん、式どころではなくなった。
代わりになぜか私たちが式を挙げ、慌ただしく籍を入れたのだ。
でも、ようやく今日、ヒューバート兄様たちは式を挙げることができた。ついでに私たちも便乗し、合同結婚式となったのだ。
つまり今夜は、前回お預けされていた、二度目の「初夜」になる。
おかしな言い方だけれど、そうとしか表現できない。
しかも教会が空いていなくて、大みそかになってしまったし……。
──今年最後の夜が、こうして更けていく。
私はベッドを抜け出し、暖炉の火を調整した。
ここ数年は暖冬が続いているが、今夜はさすがに冷える。
ついでにお茶を入れようと、火にかけていたヤカンの取っ手を布巾で掴んだ瞬間──不意に、涙が零れ落ちた。
「……っ」
なによ、これ。変なの。
炎が眩しかっただけ。
熱気で目が潤んだだけよ。
そう言い聞かせても、不安は消えなかった。
新郎が、遅すぎる。
さっきから時計の音ばかりが耳について仕方ない。
クライヴが用意してくれたナイトドレスの裾を握りしめ、私は唇を噛んだ。
このナイトドレス、すごーく高いブランドのだわ。
幼なじみのシンシアが見せてくれたのは、なぜか黒のベビードールだった。
まあ、あの子は昔から物事を妙な方向に考える子だからいい。
でも私には、高慢な高級生地のほうが合っているのだろう。
──悪役令嬢。
陰でそう呼ばれてきた、鼻持ちならない貴族の娘だもの。
……クライヴは、本当に私を抱けるのかしら。
幼なじみの延長のような空気のまま、本番を迎えてしまった。
それなのに、新郎のクライヴは大遅刻。
本来なら新婦の支度のほうが時間がかかるはずなのに。
「……来なかったら、どうしよう」
怖気づいて、寝室に来る途中で引き返したのかも。
彼は、私とは無理かもって言っていた。
今ごろ、別の女性を思い浮かべて、イメージトレーニングでもしているの?
シンシアと仕事にしか熱量が向かず、女性にのめり込む気配がない彼だが、経験豊富なことは知っている。
「ちょっと娼館に行ってくる」と、平然と私に言う人だもの。
そのたびにヒューバート兄様が慌てて私の耳を塞ぐけど、彼はシンシアの前では絶対にそんなことを言わない。
そこがまた腹立たしい。
でも、そんなところに行くくらいなのだから、ヒューバート兄様のような女嫌いではないはず……。
男性の股間事情なんて、私には分からない。学院の女子たちから仕入れた噂話にも、限界がある。
確かなのは一つだけ。彼が、私には勃たないかもと言っていたこと。
私は涙を拭い、お茶を淹れてソファに腰を下ろした。
落ち着こう。まだ、来ないと決まったわけじゃない。




