第一幕【毒は異世界に落ちる】
「おお!女神よ!感謝いたしますぅぅぅ!!」
「んー?」
馬鹿みたいな声量でもって叫ばれた言葉に鼓膜を揺らされ、刻止はゆっくりと目を覚ました。
頬に当たる地面は固くて冷たく、彼が愛用しているヒョウモンダコ模様のカバーに包まれたシーツでないことは明白だ。
何より、彼の目覚ましは近所のお婆ちゃんの声で「C11H17N3O8!!」と叫ぶので。
これを聞くと刻止は「テトロドトキシン!」という挨拶と共にスッキリ目覚める。
そう、決して怪しい宗教に片足どころか頭まで浸かってそうなオッサンの声で目覚めるなんて事はない筈なのだ。
「あぁぁ!貴女様の御慈悲によって我々は救われるでしょう!ありがたや!ありがたや…!」
「うるさいねぇ…」
「あ、先輩。起きました?」
適当な毒物でも突っ込んで口を塞いでしまおうかと物騒な事を考えていた刻止だったが、またしても自室では聞かないだろう声に「おや?」と顔を上げる。
「…讃良クン?」
「はい、先輩の讃良です」
「お、ようやく起きた~?トッキー」
「よかった…中々目を覚まさないので心配していたんです」
何度か瞬きして意識をハッキリさせれば、自分を囲むように座っている美少女が三人。
普段見る寝起きの風景とはまるで違う様子に、ようやく彼は異常な状況だと理解して起き上がった。
一度強く目を瞑り、覚醒を伴って開いた瞳に世界が写る。
てっぺんが霞むほどの高い天井。そこに張り付いた窓からは白い光がベールのように降り注ぎ、漂うホコリをまるで祝福のシャワーのように煌めかせている。
規則正しく立ち並ぶ白い柱はいかにも教科書に載る神殿らしいが、その表面に刻まれている模様と装飾は少なくとも彼の記憶にない様式のものだ。
とはいえ、繊細さという点では有名な文化財や遺産の方が上で、目新しさに感心はすれど感動はない。
いや、そもそもこの男、そういったものに感動するタイプではないのだが。
尻を預けている地面は大理石かそれに準ずる石材。よく磨かれている表面には自分の顔が写り、毎日見慣れたそれに変化がない事に若干のつまらなさを感じた。
刻止としてはオニダルマオコゼになっていてもよかったのに。
「ふぅむ」
一通り周囲を確認して満足した彼は伸びをして、コキリと関節を鳴らしながら己を見守っていた面々に視線を戻す。
「で、ここはどこかね?記憶違いでなければ、我輩クンの最後の記憶は校庭だったと思うのだが」
「ま、そーなるよね~。アタシらも起きてすぐパニクったし」
「おや、そのわりに今は随分と落ち着いているのだね?」
「実はそれに関して…というより、この状況に関しての説明はもうあらかた終わっているんです」
苦笑した天音曰く、あの大地震を伴った七不思議の実演は夢でもなければ幻でもなく、ましてや集団幻覚の類いでもなく…驚くべき事に、"この世界"と校庭に『道』が繋がったせいなのだという。
"この世界"と彼女が称した通り、ここは日本どころか地球ですらない別の世界…いわゆる異世界というやつらしい。
「うはははは!それは何ともファンタジーな話じゃないか!うむ、面白い!良き!!」
「先輩ならそう言うと思いました…」
「ふふ、毒嶋さんらしいですね」
「しかし、皆はよく信じたね?荒唐無稽もいいとこだろうに」
「そりゃ、アタシらだって最初はドッキリかと思ったけどさ~…あそこのおっちゃんがね~」
行儀悪くも透子が指を指した先には、顔がひきつった正希の前でくねくねしながら神への感謝を吐き続けている男の姿。
声からして、刻止を叩き起こした不届き者だ。
「あの方はこの神殿…?のお偉いさんらしいのですが、その…魔法というものを見せてくれたんです」
「花を咲かせるとか、鳩を出したのかな!?」
「それは手品じゃん~!そうじゃなくて、ちゃんとアニメみたいなやつ!」
刻止が健やかに寝ていた時、件の説明を聞いた生徒のうち何人かが「デタラメだ!」と男に詰め寄ったらしい。
勝也あたりがやりそうだと思えば本当にそうだというのだから、刻止はつい吹き出してしまった。
「なら、証拠に魔法でも見せてみろ…なーんて事を言ったのだろうね!」
「さすが先輩!その通りです!」
「うはははは!さすがなのは分かりやすい彼の方だよ!…で?その魔法とやらは本物だったのかい?」
「ん~、アタシはマジだったと思うよ~」
「私も同感です。何もないところから火や水が出るのを見てしまったので…」
「私は…よく分からないです。けど、嘘っぽくはなかったかな、と」
「成る程、成る程。それは是非我輩クンも見たかったね!」
「まぁ、それは置いといて」と刻止は男の奥で一際存在感を放つ巨大な像…慈愛を滲ませる微笑みを湛え、すべてを包み込むように両の手を広げた女性の像を静かに睨み付ける。
「道とやらが繋がった理由は分かっているのかな?」
「それがさ~、召喚…だっけ?なんかおっちゃん達がお祈りだか儀式的なのして〜、そしたら女神様が応えた…とかで?パーっと道を開けてくれたんだって~。で、アタシらが登場ってね〜」
「へぇ…やはりテンプレってところか。円魔クンが詳しそうな話だね!」
「ふふ、ご明察です。章本さんが生き生きと説明をしてくださいました」
ラノベやアニメに明るくない者も少なからずいたのだが、ジャンルを問わない本の虫かつ説明上手な彼のおかげで状況の把握はスムーズに済んだという。
「でも、困りますよね。いきなり"人族の危機を救ってくれ"って言われても…」
「うはははは!そこもありきたり!となると危機とはあれかな?魔王とかかな?」
「いや、それがさ~、わっかんないんだよね~」
「はて?分からない?」
「詳しく話されていないのです。ただ、危機とだけ。まるで濁されているみたいでした」
「なので、返事は保留にしてます!そこは相光先輩がしっかりと言ってくれたので大丈夫ですよ」
「うむ、賢明だね!」
呼んでおきながらその理由を濁す。
どういう思惑かは分からないが、その曖昧さは怪しいと言わざるを得ない。
「それで、帰り道は?」
「あの人では無理ってさ〜」
「その、女神ならあるいは…との事ですが、余所者である私達が対話出来るとしたら…役目を果たしたタイミングくらいだろう、と」
「要するに、人族の危機とやらを救えば帰れる可能性がある。拒否すればおそらく帰れない…それが現状ですね」
「ふぅむ。悩ましい話だ」
「一先ず、協力するしないどちらにせよ、この世界における自分の力は知っておいた方がいい…とのことで、今はあのようにステータスというものを見てもらっているのです」
皆の視線が天音に倣って男と正希の方に向く。
「あぁ!この感謝を!この感動を!どう表せばよいのでしょうか!!」
「あの、だから…」
「貴方様こそ光!!貴方様こそ救世主!!よくぞ、よくぞ我々の呼び声に応えてくださった!!」
「いや、応えたのではなくあれは強制的…」
「称号持ちというだけで素晴らしいのに…【勇者】とは!!【聖女】のみならず【勇者】まで!!これで人族の未来は明るい!!」
「近い近い近い近い!!!!」
「うはははは!」
鼻息の荒い初老の男に詰め寄られるのはさすがの正希も嫌だったらしく、いつも被っている仮面が剥がれて素で涙目になっていた。
珍しい友人の姿に刻止は手を叩いて笑う。
「ちなみに、【聖女】とは?」
「…私です」
「うはははは!」
顔を真っ赤にして小さく手を上げた天音にまた笑った。
本人含む旧校舎組から言わせてもらえば、よりにもよってである。理由は割愛するが。
それをよく理解しているからこそ、彼女は恥ずかしくてたまらないのだ。
そうでなくとも普通の感性をしていれば、「貴女は【聖女】です」なんて言われたらいたたまれないだろうが。
【勇者】もまたしかり。異世界転移モノによくある嫉妬や羨望なんて視線はなく、「うっわ可哀想」という憐れみの視線が正希には向けられていた。
ちなみに、透子と讃良には称号というものは無かったらしい。
「あぁ!その上固有スキルまで素晴らしいとは!!きっと貴方様は元の世界でも英雄…いや、もしや王族だったのでは!?」
「勘弁してくれ…」
「…あながち、間違っては、ない」
「それな」
「ちょっと、堅吾?勝也?」
生徒会長は確かにまとめ役であり、生徒という群れの代表である。学校内でならまぁ…王族に近い、と言えなくもない。
生徒の自主性重視で教師がほぼでしゃばらない栄界高校では尚更だ。彼の決定がそのまま学校の決定になる。
ついでに、ルックス的にも王子様がよく似合っていたりするので。
「…ん?そういえば、スキルなんてものがあるのだね?」
「はい!神様から与えられる才能…のようなものらしいです。えっと、この世界では生まれながら必ず一つ与えられていて、とりわけそれを固有スキルと呼ぶそうですよ!」
「うはははは!説明をありがとう!」
「ついでに言うとね~、アタシらもこの世界に来たときにその固有スキル、っての?与えられてるっぽいんだよね~。しかも、ちょっと特別なヤツ〜」
「章本さん曰く、転移特典だろうとのことです」
ふむふむ、とそれらしく頷きながら刻止は三人の説明をかみ砕き、自分なりの答えとして飲み込んでいく。
一、あの地震モドキが起きた瞬間、旧校舎校庭にいた者は異世界へと連れてこられた。
二、この世界に呼ばれた理由については曖昧。人族の危機を救って欲しいらしいが、今のところ信用に値しない。
三、この世界には魔法やスキルというものがあり、部屋の出入り口に帯剣した兵士らしき人間もいることから、ある程度の危険が存在すると思われる。
四、現状、帰る手段はない。役目を果たせばあるいは…との事だが、確証はなさそうである。
あらかた情報は出揃ったことだろう。
これで皆と同じ場所に立てたかとひと息ついたところで、刻止は正希と目が合った。それはもう、バチリと音がしそうな感じで。
あ、と思った時には遅く、正希は剥がれていた猫を被り直すと男の肩を叩いて刻止を手で示す。
「すみません、まだ鑑定の済んでいない仲間がいるのです。どうか彼の事も見てはくれませんか?」
「おぉ!おぉ!私としたことが、大変失礼致しました!!ささ、そちらの御使い様!どうぞこちらへ…神像の前までお越しくださいませ」
「うはははは!スケープゴートにされたね!良き!」
良い笑顔で親指を立てる正希に同じく白衣越しのサムズアップを返し、刻止は弾むような足取りで男の元へと歩き出した。
途中「おそよう」だとか「寝坊助」などとからかってくる仲間達に膝カックンや脳天ツボ押しをおみまいしつつ、彼は荘厳な神像の前にて男と向かい合う。
「御使い様、まずはお名前をうかがってもよろしいですかな?」
「良き!我輩クンは毒嶋 刻止である!」
「かしこまりました。では、ドクジマ様、こちらの石板に手を触れてくださいませ」
そう言って、男は厚さ10cmはありそうな石板を恭しく刻止へと差し出した。
パッと見ただのA4サイズ程度の石だ。光沢も装飾もない地味なそれは、近所のブロック塀を薄く切ったものくらいにしか見えない。
つまるところ、"何の変哲もない"という言葉がよく似合う。
さてここから何が起こるのか。刻止はうずうず瞳を光らせながらそっと石板の中心に右手を押し付けた。
刹那、まるで静電気が体を這うような違和感が巡り、石板に置いていた手の甲に幾何学模様が現れたではないか。
そしてそこから石板と同じサイズの光が浮かび上がる。スクリーンのようだ。
光の中にはぐねぐねとしたミミズ…ではなく、おそらく文字なのだろう記号が並び、男の目がそれをなぞっていくのが分かった。
残念ながら、ミミズと称した通り刻止にはまるで読めなかったが。
ふと、「チッ」とマッチを擦るような音がした。
それはこの広い空間からして思えば微かな音。
とはいえ、一連の現象を興味深そうに眺め、楽しそうににやけていた彼の目を瞬かせるには十分であり、また、それがいわゆる舌打ちであると悟らせるにも十分な音であった。
聞き間違いでなければ、今の舌打ちは目の前から聞こえやしなかったか?
刻止は未だ光を発する手の甲から顔を上げ、その疑念が間違いでないことを確信した。
男の表情があまりにも冷ややかだったからだ。
「それで?我輩クンの固有スキルは何だったのかね?」
人の良さそうな顔はどこへやら。コインを裏返したかのような変化に皆が息をのむ中、当人だけは何てことないように笑みを深める。
どうでも良い、とでも言っているかのように。
そんな刻止が気に入らないのか男の表情は更に冷え、いかにも嫌そうに口を開いた。
「…『毒生成』、だ」
「毒?『毒生成』だって?うはははは!それはそれは!何とも粋なプレゼントじゃあないか!」
「いやピッタリ過ぎだろ」
「ここでも毒なんだね、彼は…」
『毒生成』…説明文は読めないので予想することしか出来ないが、まぁ字面そのまま毒を作り出すスキルだろう。
毒をこよなく愛する彼にこの固有スキル。ふさわしい以外の言葉が見つからないと、皆からドッと笑いが起こる。
「チッ!」
払拭されかけた嫌な空気はしかし、再び響いた舌打ちによって凍りついた。ご丁寧に先程より鋭く大きい音である。
あまりに露骨すぎるものだから、刻止はやれやれと肩をすくめて男を覗き込んだ。
仕方ないので語らせてやる為に。
「随分と不満そうだね?我輩クンのスキルがどうかしたのかい?」
「…ゴミだ」
ギラリ、と男の目が光る。
「ゴミが、ゴミが、ゴミがゴミがゴミが!混ざっている!!!女神様が招いてくださった御使い様方にまぎれて!ゴミが!!」
「うはははは!ゴミときたか!我輩クンとしては是非、毒と呼ばれたいのだがね!」
「あぁ、あぁ!女神様の御前にゴミが…!!これは、許されざる事だ!!」
「聞いてないね!まぁ、面白いから良き!それで?何故我輩クンはゴミと呼ばれなければならないのかね?」
「そんなもの、固有スキルが証明している!!『毒生成』だぞ!?」
「ふむ?良いではないか。毒は強いよ!」
「ははははは!!毒が強いだと?さすが、ゴミは頭もゴミらしい!!」
豹変した男に呆気にとられた者が多い中、勝也と讃良が額に青筋を浮かべて肩を怒らせた。
しかし、二人が感情のまま言葉を吐き出す寸前、刻止は手のひらでそれを制する。顔は男に向いており、続く台詞を聞くつもりだなと他の者も静観の姿勢をとった。
「いいか?毒なんぞよくある状態異常だ。昔はどうだったか知らんが、今となっては人にも魔物にも十分過ぎる耐性がついている。分かるか?つまり、毒では赤子すら殺せやしないのだ!コレがゴミでなければ何だというのだね!!」
「…ほう。成る程、ね」
飛ばされる唾をそっと避け、刻止は片手で口元を覆いながら小さく俯く。
それに勝ち誇った薄汚い笑みを浮かべた男は気付かなかっただろう。
顔に落ちた影の向こう、手の下で裂けるように唇がつり上がっていたことを。
「分かったか?自分がどれ程ゴミかと言うことが!だいたい…」
「あの、オルダスさん?」
「っ!…ぁ、い、いかが致しましたか、【勇者】様?」
男が更に言い募ろうとしたところで、正希の固い声がそれを遮った。
聞きなれない声色に男…オルダスというらしい彼と同じように目を向けた刻止は、少し驚いた様子で眉を片方持ち上げる。
正希はすっかり笑顔を消し、分かりやすく苛立っていたのだ。いや、彼だけではない。
「それ以上先輩を悪く言うなら、許しません」
「ベラベラベラベラとうざってぇ。気分悪いったらないぜ」
「…不快だ」
皆が皆、氷柱の切っ先を突き付けるような視線をオルダスへと向けていた。
他人、それも自他ともに認める変人とはいえ、旧校舎という第二の家を共有する仲間…いや、もはや家族とも呼べる情があるのだ。
貶されて良い気がしないのは当然である。
いくら穏和な日本人の血とて、煮立たぬわけではないのだから。
「こ、これは、大変失礼致しました…!」
さて、これに焦ったのはオルダスだ。少し考えれば分かりそうなものだが、彼にとっては予想から外れた事態だったのだろう。
向けられた敵意にあてられた彼は元のへりくだった態度に戻ったかと思えば、ヘコヘコと軽い頭をあちらへ、こちらへ、と下げ始めたではないか。ショウリョウバッタ顔負けである。こんなあからさまなご機嫌取りも中々無いだろう。
刻止はくっと笑いかけたが、作られたハの字眉の下から殺気のこもった熱烈な視線を頂戴したので、続きは腹の中に飲み込んで転がしてあげることにした。
つまり、声には出さずに笑った。笑わないという選択肢は彼には無かったので。
体を震わせる刻止にオルダスは顔を真っ赤にして歯茎を剥き出しにしたものの、わざとらしく「こほん」と発音した正希によって静められた。
「それで、この後俺達はどうすれば良いのでしょう?そちらへの協力を保留にしたとはいえ、放り出されたら困るのですが」
「え、えぇ、勿論御使い様方にそんな事は致しません!そうですね…鑑定は済みましたし、皆様も世界を渡られたばかりでお疲れでしょう。お休みいただけるよう宿舎にご案内致します。すぐに食事も準備させましょう。あぁ、宿舎にはそのまま滞在いただいて構いませんので」
「まぁ、よろしいのですか?」
「勿論ですとも!そもそも、不躾にこちらへお呼びしたのは我々の方なのですから。衣食住の保証をさせていただくのは当然にございます!」
「ま、そりゃそうだよな。勝手に呼んどいて放り出されちゃたまったもんじゃねぇ」
「ふいー!アタシ、とりま寝たい~!」
「…世話になる」
「えぇ!えぇ!では皆様、こちらへ」
女神像に深く礼をした後、オルダスは広いホールに背を向ける。
そのまま脇の通路へ向かう彼と正希を、皆は見比べていた。
どうやら決定権を任されたらしいと悟った正希は、生徒会長として持ち上げられた時と同じ顔をして息を吐く。
「…仕方ない。行こうか」
「「「生徒会長の仰せのままにー!」」」
「怒るよ?」
まるで日常にすがり付くような、いつも通りを無理やりなぞるやり取り。
それが逆に皆の不安を浮き彫りにするようで、正希は眉間にシワを寄せた。
「やぁ、ひどい顔じゃないかね!【勇者】殿?」
「君は羨ましいくらい平常運転だね」
「うはははは!照れるよ!」
「褒めてはいない。羨ましくはあるけれど」
最後尾を歩く彼の隣へ讃良を伴って並んだ刻止は、可愛らしい嫌味に目を細める。
随分と疲れているらしい友人を労る…ワケもなく、元気出せと薄く見えてしっかりした背を叩いた。勿論容赦などない。
正希の眉間のシワはますます深くなったし、讃良はいかにも痛そうな音に引いた。
「はぁ…正直、まだ現実味がないよ。背中は痛いけど」
「うはははは!なら、残念ながら夢ではないのだろうね!」
「こんなに訳の分からない状況でも、今後のことをきちんと考えなきゃ…なんですよね」
不安そうに唇を結ぶ後輩に、正希は痛ましそうに目を伏せる。
勝也の舎弟…後輩達はあの時すでに帰らされた後で、巻き込まれた下級生は彼女一人だけ。それはどんなに心細いだろう。
しかし、そんな年下の少女が気丈に前を見ようとしているのだ。ならば自分達上級生が現実から目を背けている場合ではない。
そう気持ちを切り替え、正希は弱気を奥深く沈めて目を開いた。
見えたのは、満足そうな友人の顔。
「見れる顔になったね!そう深刻になることもないさ。何せ、我輩クンの扱いより悪くなる事はないだろうからね!」
「君はもう少し真剣に考えるべきじゃないかな?」
「そうですよ先輩!先輩はゴミじゃないんですから!」
「うはははは!怒られた!」
着崩した白衣の袖をぷぅらぷらと遊ばせた刻止はしかし、殊更真面目な顔をしている正希に笑みを引っ込める。
「本当に、気を付けた方がいい」
「分かっているとも。アレはダメだね。いつぞやの、生徒を何人か退学と自殺未遂まで追い込んだクズ教師と同じ匂いがする」
「分かっているならいいんだけど…」
暴力や権力で弱者を虐げ、気に入らないものを排除し、己の国を作った気にでもなって悦に浸る。
そういうろくでもない大人の気配がビンビンだ。いや、もっとたちが悪いものかもしれない。
「ふむ、何もしてこない…ということは無いだろうね」
「だから気を付けろと言っているんだよ」
「うはははは!ご忠告、心に刻んでおくとも!」
「またそうやって茶化すんだから…まぁ君の事だから、そこまで心配はしていないけどね」
「うむ!問題はいつ仕掛けてくるか、かな」
静かな表情で思考を回す刻止の隣で瞳を揺らしていた讃良は、やがて何かを決心した顔で無防備な腕に抱き付いたのだった。
(この先、何があっても私は…)