序幕【毒は日常に潜む】
『栄界高校』
東京某所にそびえる私立高校だ。
有名と言うほどではないが、長い歴史と生徒の"学びたい"というヤル気や好奇心を尊重するユニークな授業、自由な校風は中々に人気で、周辺地区のみならず様々な地域から生徒が集まる賑やかな学校である。
その、最近改築された綺麗な校舎…ではなく、随分前に使われなくなった旧校舎には、築百年を越える長い歴史故かそれはそれは様々な噂がある。
理科準備室の人体模型、音楽室の肖像画、辿り着けない屋上、底が抜ける校庭に、トイレの誰かさんや真夜中の校内放送…どこの学校にもある七不思議の類いだ。
その中に、つい三年ほど前からまぎれ込んだある噂があった。
それは…『秘密の人体実験場がある』という噂。
何でも、出入り禁止にされている旧校舎の化学室から時折ガチャガチャといった物音、怪しげな声や奇声、果ては悲鳴まで聞こえてくるのだとか。
その声を聞いたのは一人や二人ではなく、誰もいないはずのその部屋に白衣姿の人影まで見た、なんて話もある…となれば、この話を聞いた一年生が青白い顔でゴクリと生唾を飲むのは仕方ないことだろう。
「…だから、旧校舎には絶対に近付いちゃいけないよ。特に、夕方、逢魔が刻には、ね?」
「っは、はい!!分かりました!」
「きっ、気を付けます!!」
「うん。よろしい」
ふわり、と整った美貌を緩ませた忠告者。彼に見とれた一年生達に苦笑をこぼし、一人の少女がパンパンと手を叩いた。
「ほーら、分かったら散った散った~!旧校舎に行こうとしたこと、先生にチクっちゃうぞ~?」
「わ、す、すみません…!」
「ご容赦を!」
「俺らはこれで、失礼します!先輩!」
示し合わせたように揃って頭を下げた一年生達に手を振って、四人組は彼らに背を向ける。
聞こえてくる「先輩かっけー!」、「美男美女しかいない」、「嫉妬すらわかない!眼福!」といった声にそれぞれが小さく笑うが、そこには慣れたような色があった。
事実、言われ慣れているのだ。
「一年生って元気よね~。素直でちょー可愛い」
「ふふ、分かります。素直で良い子達でしたね」
きゃらきゃらと女子特有の華がある声を響かせる二人の少女は、両者ともクラスの人気者であるし…
「ああも真っ直ぐ慕われるというのは、くすぐったいものだね」
「…そうだな」
一年生に声をかけた彼はクラスどころか学校中の人気者だ。
その隣を歩く岩のような男もまた、他三人とは系統が違うどっしりした"漢"の魅力があり、多くの者に慕われている。
言わば、全員が全員カースト上位。
注目なんて毎日あびるし、羨望も尊敬も25mプールが満タンになるくらい注がれている。
それもその筈。何せこの四人は学校の中心とも言える存在なのだから。
「お、"生徒会御一行サマ"見ぃっけ」
「やあ、勝也。今からかい?」
「コンビニ行って来たンだよ。ストック無くなりそうだったからな」
二本の指で何かを挟むような形にした手を唇に近付けたり遠ざけたりする彼に、人気者は気安い様子で肩をすくめた。
「ほどほどにしてくれよ?」
「ダメって言わない辺り、正希もワルだよな!ははっ!生徒会長がそンなんで良いのかぁ?」
「今更だろうに」
そう、不良っぽい三百眼の男…金刺 勝也に背を叩かれて苦笑する彼は、何を隠そうこの学校の生徒会長…相光 正希その人なのである。
二人のやり取りを見て微笑んでいる楚々とした清純派な美女は副会長の日聖 天音。
ケラケラ笑っている活発で派手な美人は会計の森咲 透子。
目を閉じ無言で腕を組んでいる静かな男が書記の巌 堅吾。
つまるところ、四人は勝也の言ったように生徒会御一行というワケだ。
しかし、学校のルールを定めて取りまとめる正希らとルールなんて破ってなんぼといった風の勝也の仲は、見た通り悪いものではない。
むしろかなり仲が良いと言えるだろう。
「あれ?そういえばカッツー、取り巻きは?」
「あー、先に行かせてる。荷物持つだとか、金は自分らが払うだとか…気ぃ遣われ過ぎンのも面倒くせぇの」
「あー、ね」
「では、よろしければ私達とご一緒にいかがですか?」
「…だな」
「ん、そうするわ。サンキューな、天音チャン。堅吾も」
四人は勝也を加えて五人になり、揃ってある方向へと歩を進めていく。
一見すると、その方向は校門だ。すれ違った誰もが、遠くから眺めていた誰もが下校という言葉を思い浮かべた事だろう。
しかし、彼らの足先は皆の目を上手く盗んで別の方向へ逸れる。
進むごとに遠退く放課後の喧騒。
空の端から黄金と朱色がほんのり滲み出し、傾きつつある太陽が伸ばす影法師と共に歩く彼らの姿はどこか怪しく、寂しく、美しい。
それがノスタルジックというより心をざわつかせる恐ろしさを感じさせるのは、林を抜けた彼らの前に現れた古めかしい建物のせいだろうか。
「いやぁ、いつ見てもボロっちいね~」
「正直、いつ崩れるかってヒヤヒヤするぜ」
「仕方ないよ。ここは…旧校舎はもう、朽ちるのを待つばかりの場所なのだから」
これこそ、一年生達が興味本意で近付こうとして正希に窘められていた旧校舎だ。
今時珍しい木造建築は弱まった陽光を飲み込むように薄暗く、ただでさえ怪しげな雰囲気を更に膨らませていた。
ご丁寧に空気を読んだカラスまで鳴くのだから完璧である。
錆びだらけのフェンスに囲まれた荒れ放題の校庭。ヒビの入った窓。原型の分からない何かの像。そこかしこから壁に手を伸ばす植物…見える範囲だけでも立派な恐怖スポットだ。
その上、校舎の方からは笑うような声まで聞こえてくる始末。
普通の生徒なら噂云々がなくともここからすぐに逃げ出したことだろう。
だというのに…
「あら、今日はいらっしゃるみたいですね」
「…ん。丁度、いい」
「そうだね。じゃあ行こうか」
「カッツー、開けて~♪」
「テメェのが手ぶらだろうが…」
誰一人疑問も戸惑いもなく立入禁止と注意書きが貼ってあるコーンバーをパイロンから外し、自分の家にでも入るような気軽さでフェンスの鍵を開けて入ってしまったではないか。
勝也はともかく、あの生徒会の面々が…皆が皆教師に信頼され、事ある毎に学校から優良な生徒と表彰されている面々が、だ。
知らない生徒が見たらギョッとして、まさか何かに操られているのでは…!?と七不思議のレパートリーが増えるところだが、真実は何て事ない。
実のところこの五人…ここに通い慣れているのだ。
いや、五人だけではない。
一部の三年生は教師の目を上手く盗み、この旧校舎に入り浸っているのである。秘密の溜まり場というやつだ。
勉強、下級生の世話、部活、家庭、人間関係、大っぴらに出来ない秘密…多かれ少なかれ皆何かとストレスを抱えており、たまには大人の目が届かないところで伸び伸びしたくなるもの。
ここはそんな不安定な子供達の休息地になっていた。
完璧王子と囁かれる生徒会長の正希だってその一人で、どころかこの中でも最古参だったりするのだから人の中身とは分からない。
まぁ、彼の力があったからこそ今まで教師の目を欺くことが出来ているとも言えるのだが。
「たっだいまぁ~」
「お、生徒会メンバーじゃんっ。おっかえり!」
「お疲れさんやねぇ」
「ええ、ありがとうございます」
「勝也ー、お前んとこのパシり来てんぞー」
「おー」
ガラスの抜けた昇降口の戸を潜り抜けると、数名の仲間達が声をかけてきた。
教室でのやり取りと変わらないように見えるが、お互い肩の力が抜けているからか友人というより兄弟に近い気安さがある。
その空気感が何かしら問題を抱える彼ら彼女らの心をほぐすのだ。
「あ、円魔」
宝物のようにその空気を吸い込んだ後、正希はふと視界に入った仲間を呼び止めた。
「ん?あぁ、正希か」
「ごめんね、急に」
「いや、構わない。それで、僕に何か?」
目の辺りまで重なった本の横から顔を覗かせたのは、勤勉を形にしたような男子生徒。
クラスに一人はいるだろうタイプな彼の名は、章本 円魔という。
「この前借りた本、すごく面白かったよ。良かったら続きを借りたいと思って」
「あぁ、勿論良いさ。お前ならきっと気に入ると思って持ってきておいたんだ。今から来るか?」
「おや、俺の好みは分かりやすかったかい?でもそうだね…"彼"への用事が終わったら、君の図書室へお邪魔して良いかな?」
「待っている。しかし、アイツに用だったのか…御愁傷様だな。七不思議様は随分と元気そうだったぞ」
「うわ、怖いなぁ」
わりと本気のトーンに円魔は本のページを擦るように笑い、頑張れよとイマイチ心のこもっていないエールを置いて去っていった。
「はぁ…行こうか」
「マッキー、テンションだだ下がりじゃん!ウケる~」
「まぁ、気持ちは分かるけどな」
「…頑張れ」
「私達も一緒に行きますし、"彼"もとって食いはしないでしょうから、ね?」
「そーそー!安心しなって~!」
雑な励ましをされつつ、正希は諦めて目的地…旧校舎の噂の出所へと足を向けたのだった。
…
‘’きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!‘’
‘’うははははは!はしゃぐな、はしゃぐなー!‘’
‘’ちょ!?やめ…っ、ひゃ!?いやぁぁぁぁぁ!!!‘’
「帰って良いかな?」
「ここまで来ましたし…頑張りましょう?」
外れかけの扉をガタガタと震わせる声に、正希だけでなく他の面々もドン引きの顔で頬をひきつらせる。
かろうじて踏みとどまってはいるが、本音を言えば今すぐにでも何事もなかったことにして回れ右したかった。
劣化によって曇ったガラスが室内の様子を隠すので、より不安があおられる。
「あー、まぁ、とにかく入っちまおうぜ」
「そうすりゃ諦めがつく」と消極的な決意のもと、勝也がスライド式の扉に手を掛ける。
ガタガタで開けにくいことこの上ないソレを慣れで動かしたその時…
「あ」と扉の向こうから嫌な声がした。
扉は急には止まれない。
すっと開いた入り口の先に見えたのは、間抜け面が二人分と…こちらに迫ってくる"何か"。
「危ないぞー!」
「「「ッ!?」」」
何が?という疑問は嫌な予感と緊張感のない忠告で消し飛んだ。
女子二人が一歩踏み出そうとしていた勝也を引っ張り、男子二人が慌てて扉に手を掛けた。
ビシャン!と扉は逆再生の如く閉じられ、ほぼ同時にビタンと曇りガラスに"何か"が張り付く。
不恰好な花のようなシルエットはどうやら生きているらしく、うねうねうねと動いていた。
「うっげ!!キモ!!」
「なん、なん…だ?」
「うははははは!」
混乱する正希達をよそに、室内から笑い声が響く。
沸き立つ泡に似て純粋で、弾けるような…だからこそ、たちの悪い。
その音の示す通り、向こうから開いた扉の先には悪意の欠片もない笑顔があった。
「いやはや、すまなかったね!もう少しで人を一人殺してしまうところだったよ!」
悪意はないが、その上でこの台詞である。
これが冗談ならまだしも、この男だとそうもいかないことを正希達はよぅく知っていた。
「うはははは!彼女がアレをぶん投げた先に人がいると分かった時は、さすがに焦ったとも!」
「全然そうは見えないのだけどね…」
「元はと言えば、アレを近付けてきた先輩が悪いと思います!私に近付けて良いのは先輩の唇だけですよ!」
「あのさ~、ちなみになんだけどさ~、何だったの?あのキモいの」
「あぁ!ヒョウモンダコだよ!ひと噛みで片手以上の人間を殺せる素敵な毒を持っている、素敵な生き物さ!」
宝物を自慢する子供のように言った男に、勝也はどっと冷や汗を吹き出した。
つまるところ、もしあの時仲間達の助けがなかったら…あの世行きだったのである。
「おっ、ま…!?なんつーモン持ち込んでやがる!!」
「だって、その毒を研究したかったのだから仕方ないね!」
「こンの、毒狂いが!!」
「うはははは!照れるね!」
「先輩、褒められてないと思います…」
そう、この男…毒嶋 刻止は自他ともに認める毒物マニアだった。
化学部に籍をおいている彼は毒性のある植物に始まり、毒キノコ、フグや蛇などの生物…と毒を持つものであれば見境なく集め、部室に持ち込んでは追い出されて教師に呼び出しをくらっている。
三年生の中では正希に次ぐ有名人だ。勿論、ヤバイやつ的な方向で。
初めましての次にお近づきの印だとトリカブトの鉢を渡された衝撃は皆忘れられない。
ご丁寧に毒の抽出法も添えてあったのだから笑えない。
危うく毒殺犯の道に入学するところだった。
まあ、そんなぶっとんだ人物だからこそ立入禁止を無視して旧校舎を使おうと思ったのだろうが。
そう、何を隠そうこの休息地の開拓者は刻止なのである。
毒物の保管庫として使い始めた彼が、意外にも外見ほど荒れていない内部に居心地の良さを見出だし、他の面々を誘ったことが始まりだった。
「まぁ、立ち話もなんだし…取り敢えず入りたまえよ!疲れているみたいだしね!」
誰のせいだと言いたいところを飲み込んで、正希はこめかみをそっとおさえる。
どうせ何か言ったところで暖簾に腕押し。
それくらい、高々数年と言えど薄くない付き合いで分かりきったことなのだから。
「…ありがとう。お邪魔するよ」
「詫びはカルメ焼きなぁ」
「うはははは!材料はあげるから、自分で作りたまえよ!」
「あ、アタシもやるやる~!」
「では、私もいいでしょうか?」
「…俺も」
「良き!全員分用意しようじゃないか!」
ぞろぞろと表札の傾いた元化学室に入ると、皆迷う素振りもなくそれぞれ席に腰を下ろす。
一年生の時から入り浸っていれば自ずと定位置も出来るものだ。
というより、どこに新手の毒物があるか分からないので下手に動きたくない。
「それで、会長殿。我輩クンに何か用かね」
カルメ焼きの甘い匂いに包まれた中、刻止はコーヒーを傾けながら正面の正希に問いかけた。
ちなみに、ビーカーなどではなくきちんとマグカップを使っている。
毒物の研究に使用しまくっている器具を使う気にはならない…というわけではなく、彼と共にこの部屋を利用している者の気遣いだ。
誰が一番綺麗に作れたかを言い合う面々を眺めていた正希は視線を戻し、「そうだった」とわざとらしく本題を思い出す。
「来週、旧校舎の点検があるみたいでね。いつも通り片付けておいてほしいんだ」
「来週?随分と急だね?」
「もっと前から決まっていたけれど…君、しばらく来なかったじゃないか。校舎では旧校舎の話はしない決まりだし、伝えられなかったんだよ」
「うはははは!成る程!我輩クン、昨日まで国語の補修だったからね!」
「またかい…まぁ、そんな事だろうとは思っていたけど。とにかく、きちんと片付けてくれよ?前の時なんて大量のカエンタケ…だったかな?それが残っていたらしくて焦ったんだから」
「了解したよ!ヒアリ一匹すら残さないようにするとも」
ケタケタと笑った刻止に不安はあるが、取り敢えず伝えるべきは伝えたと正希は椅子から立ち上がる。
「おや、もう行くのかい?」
「ああ。円魔の所に用事があるからね」
「ふむ、それなら仕方な…」
「せ、先輩ー!ヒョウモンダコが水槽の蓋開けて脱走してますよ!?」
「「「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!?毒!毒!!」」」
「うはははは!タコは賢いね!」
「言ってる場合じゃないだろう…」
結局、正希達が部屋を後にする頃には入った時の十倍は疲れていたのだった。
…
「先輩、何の話だったんですか?」
「ん?あぁ、旧校舎に点検が入るという話だよ。放置しているとはいえ、学校的には倒壊の危険性を確認しないわけにはいかないのだろうね」
転がった椅子や水浸しのテーブルを片付け、書きかけのレポートに向き直った刻止の隣から清涼感のある花の香りがした。
目を向けずとも分かるその香りの主は、化学部の後輩…二年生の霜月 讃良だ。
少しキツめの印象を与えるアーモンド型の目と涼やかな顔立ちは気高いお姫様のようで、聖母と言われる天音とはまた違った魅力を持つ少女である。
二年生の間では彼女のファンの方が多いらしい。
顔立ちのみならず成績も優秀で、まさに才色兼備。
そんな彼女が何故三年の溜まり場たる旧校舎に、それも変人の頂点たる刻止の居城にいるのかと言えば、唯一にして致命的な欠点故だ。
「じゃあ、来週は先輩に会えないんですか?」
「いやいや、化学部には顔を出すさ。暇だしね!」
「でも…でも、二人きりじゃないじゃないですか…」
「ん?」
「私は!先輩と二人きりがいいんです!」
「うはははは!」
つん、と可愛らしく口を尖らせて不満を露にする彼女は夕日のせいではなく赤い。
そう、なんと彼女…校内ヤバイやつランキング殿堂入りの刻止が好きなのである。勿論、love的な意味で。
それを相談された透子と天音が全力で止めたが、讃良の想いは止まらなかった。
「もう!また誤魔化す…はぁ…コーヒーのおかわりいりますか?」
「うむ、いただこう!讃良クンの淹れてくれるコーヒーが一番美味だからね!」
「褒めてもミルクしかつけませんよ」
「うはははは!カフェオレか。それも良き!」
まったくもうと緩む表情はカルメ焼きより甘いが、毒一筋の刻止は真正面からそれを見ても揺らぎやしない。
それでも、讃良はかまわなかった。むしろそれでいいとすら思っている。
何故か?それは恋した相手が彼だからに他ならない。
そう…仮に、告白して付き合ったとする。
そうしたら彼女は、常に命の危機を感じなければならなくなるのだ。
おそらく…いや、絶対に毒を盛られる。
致死量を知り尽くしているからこそ、死なない程度に。的確に。
そして純粋な笑顔でどうだった?と感想、もとい症状を聞いてくるに違いない。
ずっと彼を見ているからこそ、刻止がそういう人間であることはよく理解しているのだ。
そんな狂気すら讃良にとっては愛おしいのだが、いくらなんでもそんな気の許され方したら体が持たない。人間だもの。
だから讃良は慕い、崇拝し、敬愛し、愛を囁くけれど、本気で愛を返してもらおうとは思わないのである。
いや、嘘だ。キスの百くらいは欲しいと思ってる。
とまぁ…コーヒーにコーラをぶち込んだような難儀な恋心を抱えているのが、この讃良という少女なのだった。
化学室、というより旧校舎はゆったりと時間が流れていく。
スラスラとペン先が踊る。レポートの前に置かれたカフェオレから漂う湯気のように。
片手で試験管を揺らす白衣の背を飽きもせず眺めていた讃良は、ふと窓の外を見て小さく一文字落胆の音をこぼした。
「先輩、そろそろ日が落ちますよ」
「おや、もうそんな時間かい?確かに暗くなってきたね」
旧校舎には電気がない。
明かりを持ち込めば良いのだろうが、そうすると教師に見つかるリスクが大きくなることだろう。
だからこそ、旧校舎の利用は日没までと無言の取り決めがあった。
自由奔放な刻止だが、この憩いの場が使えなくなるリスクを冒すつもりはない。
「仕方ない。今日はここまでにしよう」
後ろ髪を引かれつつ立ち上がった刻止に倣い、讃良も片付けを手伝い始めた。取り敢えず、タコの水槽はみっちり閉めておかなければ。
「やれやれ。楽しい時間というのはあっという間だね」
「そう、ですね…」
スポイトに伸ばされていた白い指先が震えた。
(あと一年も経たずに、この幸せな時間は終わってしまう…)
薄くなった夕日に照らされた刻止の後ろ姿が違う世界の存在に見えて、讃良は焦ったように言葉を探す。
思わず弾いてしまったスポイトがカラン、と文句を言った。
「せ、先輩は、進路…決まったんですか?受験勉強しているようには見えませんけど…」
「あぁ!ありがたいことに、色々な研究所から声がかかっていてね!どこにするかは決めていないが、大学ではなくそちらに行くことになりそうだ」
「わ、凄い…!さすが、私の愛する先輩ですね!」
「うはははは!褒めてもベニテングタケしか出せないよ!」
「あ、結構です」
毒キノコ片手に子供のように笑う顔がどうしようもなく好きで、あぁ自分はどうかしてるなと今日も実感しながら讃良は胸の前で両手を握る。
まったくもってその通りである。
(まぁ、分かっていて、それでどうにか出来るなら…苦労しないですね)
焼き付けるようにその姿を見る少女は、もう手遅れだった。甘い毒はすっかり全身に回っているのだ。
「よし、片付いたね!それでは帰るとしようか、讃良クン!」
「はい!」
そうこうしているうちに片付けを終わらせた刻止に呼ばれ、讃良は己の鞄を肩に掛けてその背を追う。
部屋を出る頃にはすっかり日も落ち、足元すら危うい暗闇が旧校舎を飲み込んでいた。
刻止と同じように私物化したエリアから次々に人が現れ、彼は同居人達に白衣の袖を振る。
刻止だと認識すると皆一瞬身構えるものの、その両手に何も無いと分かると快く手を振り返してくれた。
そんなに警戒しなくても良いのにと刻止は笑うが、しょっちゅう毒蛇や毒キノコを持ったまま近寄ってくる彼を恐れるのは生物の本能として正しいだろう。
そんな交流をしながら階段を下り、放棄された蜂の巣に似た昇降口を素通りして校庭へ出る。
「あ!」
それと同時に見知った背を暗闇の奥に見つけ、駆け寄ろうとしたところで刻止はふと違和感に気付いた。
(なぜ、よく見えているんだ?)
足元すら危うい暗闇だったのに、いくら月明かりがあるとは言え…その背が誰かすらハッキリ分かるなんておかしいのではないか?と。
「先輩…なんかあれ、光ってません?」
「光って…?」
違和感の正体は讃良が教えてくれた。
彼女の指摘するとおり、よく見ればその背…正希の後ろで地面がぼんやり光っているではないか。
だからか、とスッキリした顔で頷いた刻止だが、すぐに次の疑問にぶつかった。
「アレは、何かね?」
「さぁ?さっぱり…っ!?」
讃良も彼と同じように首をかしげた瞬間、ズンと地面が揺れる。
「きゃあ!?」
「何だ、何だ!?」
「じ、地震か!?」
立っていられない程のそれは、刻止達だけでなく校庭にポツポツいた人影すべてを座り込ませると、立ち上がらせるものかと更に激しさを増した。
「うわぁぁぁ!」
「一体何が…!?」
「く、皆!とにかく身を守れ!」
誰かの声に、皆悲鳴を上げてパニックになりながらも頭を抱えて身を丸める。
避難訓練の賜物だろう。
そんな中、この突然の地震よりも驚くべきは旧校舎だ。不思議なことに、真っ先に悲鳴を上げて崩れそうなそれはピンピンしたままだったのである。
「先、輩…っ」
「ふぅむ?」
膝をつきつつ一人冷静に周囲を観察していた刻止はすがり付く讃良をなだめ、光を睨み付けた。
光は最初より強くなっており、しかもどんどん広がっている。まるで校庭を飲み込もうとするように。
そして、瞬きした、その瞬間だった。
「「「え」」」
「おや」
ポカリ、と校庭の底が…抜けたのは。
底がなくなったらどうなるか?答えはシンプル。物理のテスト問題にもなりやしない。
「「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」」」
地球の重力に抗うこと、何人も能わず。
つまり落ちる。
内臓が浮く感覚を少しばかり楽しみつつ、皆と同じく落ちていく刻止は思った。
旧校舎の七不思議…校庭の底が抜けるという噂は、マジだったのか、と。




