refrain
久しぶりに帰ってきた新宿は、いつも通り人で満ちていた。
ここにいる者がみな、水に飢えているかと思うと、なかなか恐ろしいものがある。
世話になっている修理屋へ、手動充電器などの修理を頼む。銃器を出したときに渋い顔をされたが、弾丸が一発も減ってないのを確認すると引き受けてくれた。
そしていまは帰路についていた。
ネオンが輝く。行き交う人々は、天に輝くネオンをあてにして、街を歩く。
オレが帰る場所としているのは、そのネオンの中にある一件の非合法酒場だった。
アルコールがすっかり高騰してしまった今では、多額の税がかけられている。そんな中で、人の目を逃れて酒を飲む楽園がある。もちろん、法からは逃れられないが、目はごまかせる。
場所代さえ払えば、見過ごしてもらえる。そんな緩い制度の上に成り立っている。
オレはその酒場<ファミリア>へと入った。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が響いた。オレは思わず、顔をほころばせる。
すたすたと寄ってきたのは、背の小さな女の子だ。そしてこの時代に、オレを待つ数少ない人である。
「あ、お兄ちゃん」
女の子が声をあげて、近づいてくる。日常に帰ってきた、その感覚がオレを満たす。
看板娘の兄とは誰か、知っている者は知っている。店にいた者は一斉に視線を俺に向けた。
口々に「あいつが……」などと言っている。だが、そんなものも気にせず女の子を迎える。
「ただいまだ、アリサ」
「おかえりなさい。今日は早かったね」
早かった、と言っても一週間は空けている。心配をかけたことは変わりないだろう。
手袋を外して、少しだけ頭を撫でた。手を離すとキョトンとしたが「汗、きちんと拭いてからな」というと、アリサは仕事へとそそくさと戻っていった。
その後ろ姿を見送って、オレは奥へと向かった。酒場でも区切られているスペース。オレだけの特等席だった。
装備をすべて外す。そしてさっき買った水をコップに注いで飲み干した。
椅子に座って、酒場を眺めた。潤おうはずのないアルコールで、喉の渇きをどうにかしようとしてるのは、滑稽な気さえした。
それが癒しになるもんか、と思うものの、現に彼らはそれで力を入れているのだ。否定はしない。
「よう大将、凱旋かい?」
そう声をかけてきたのは、水売りのフルヤだった。
「って、ちょっと、水を買うんならウチからにしてくださいな。困るっすよ、そういうの」
「お前がいることなんて知らなかったからな」
「ひどいっすねえ、少しは安くしたんですから、先にウチを見にくるもんでしょう」
「適正価格だろうが、ど阿呆」
水売りには組合があり、金額もそこで決められている。組合の協定をそうそう破ることはできない。
オレは水を飲みながらフルヤと語らうことにした。
調子のいい口調が相変わらずだが、辛気臭いよりずっといい。
「ちょっと調布まで行ってきたんだが」
「そいつは、驚きましたなあ。それなりの距離でしょう。もしや、新宿の地下道をずっと西へ向かって、そこから地上に出てまた西へ? しかも一人で? 正気の沙汰じゃない」
「遠い道のりだったが、一人なら気楽なものだ。自分だけ守ればいいしな」
「まったく、大将にはいつも驚かされるなあ」
そういうが、明らかに楽しんでいる口調だ。
「それで、まだあるんですかい。調布に行ってきただけなわけがないんでしょう?」
「ああ、そこであったんだよ、残響現象に」
「へえ、へえ!」
興奮して、フルヤはエールをもう一杯頼んでいた。オレは思わず苦笑い。
アリサが運んできたコップを、フルヤは少し口をつける。気前はいいくせに、一気に飲むことができないのだから、仕方ないやつだ。
コップを掲げると、フルヤは自分のコップをぶつける。かつんと乾杯。
「聞いたことしかないですが、残響現象って、いったいどんなんです? 声が聞こえるとか、よくわからなくて」
「誰もいない部屋で新宿の雑踏を聞いてるようなもんだ」
「そう言われると大したことないような……いやいや、気持ち悪いっすね」
「んでもって、人の影がゆらゆら揺れたり、誰かに触られてる感覚がしたり」
「恐いっす、恐いっすよそれ」
フルヤは本当に怖がって、震えていた。オレはからからと笑う。笑ってないとやってられない。
すると、一人の女がやってくる。その女はフルヤの椅子を蹴飛ばすと、どくように首を捻る。フルヤは触らぬ神に祟りなしとばかりに退散した。情けない男だ。
椅子に座った女は、きつめの美人だった。いけ好かないやつだ。外見だけは好みだが。
「オレに用か」
「あなたを探してたの。話を聞いてくれるかしら」
「他人の話を遮るやつが、偉そうだな」
そう言うと、女は金をテーブルに置いた。酒場の誰もが目を向ける大金を、女は平然と出した。これで交渉だ、と言わんばかりだ。
「それは?」
「前金。口止め料とも言う」
「ふうん」
オレは喉を潤した。女に見せつけるように飲んだのだった。
「それで、何の用だ。金というのは用件を述べてから出すんだよ。価値がわからないうちに、金だって飛び込む馬鹿じゃない」
「あら、それはごめんあそばせ。でも、お金をきちんと見せてから、交渉をするのが社会ってものよ。それに釣り合う内容かどうか、判断するの」
女は口を押さえて笑う。俺はいよいよ、腹が立ってきた。
それは真っ当な仕事であるときの話だ。オレはこうして金を出された以上、断れやしない。
そのことをわかっていて言っているにちがいないのだ。
「用件というのはね、ここからずっと西についてよ」
「西? あんな何もない場所のか」
「あら、何もない場所なんてないが貴方の口癖だと聞いたのだけど」
「口癖じゃない。信条だ」
オレはそう言って、女に酒を頼んだ。
アリサがどん、と女の前に瓶を置いた。笑顔を浮かべているが、明らかに苛立ってる。女はアリサの顔を見上げた。視線が絡まり、火花が散る。
「こんなところで喧嘩をするな。あとは任せろ」
そう言うと渋々とアリサは下がる。オレはふうと一息。こういうとき、嗜好品があれば心を癒したのだろうが、あいにく体が受け付けないのだ。
「じゃあ、聞かせてもらおうか。お前は何を俺に求める?」
女はにんまりと笑って……それは男だとか女ではなく、獣ような獰猛な笑みを浮かべて言うのだ。
「壊してほしいものがあるの。とびっきり危険なやつをね」
オレは拳銃の抜きそうになる。しかし、いまは修理に預けていることを思い出し、ナイフで妥協した。
刃先を向けられてもなお、女は微動だにしなかった。
「砂取り師は壊し屋じゃない。この取引はなしだ」
「待ちなさい。相手の話は最後まで聞くものよ」
女が言う。ナイフをテーブルに突き立てて、話を促した。
「そいつの中には、かつてこの街が繁栄していた……最も新しい旧世界の地図があるの。追加報酬は、それよ。その地図を取り出して、あなたにあげようじゃないの。悪い話ではないと思うのだけれど、どうかしら、砂取り師さん?」
「へえ」
興味が俄然、湧いてくる。
最も新しい旧世界の地図、それは矛盾している文言であるが、わかりやすい言葉でもあった。
かつての知識と地図を用いて、現在の東京の地図は作られている。それは街の地図ではなく、土の地図のことだ。
人工衛星と呼ばれるものが旧世界ではあり、その役割は地上を写すことだったらしい。しかし、それらはいま、使えないでいる。
自分たちがこの世界を知る手段は、自分たちの足しかない。
「どうしてそんなことを知っている?」
「依頼主の事情に踏み込み過ぎないことが、生きる秘訣よ」
それで、受けるのね?
女は確認するように言った。オレは少し迷ったが、頷く。
果たして美味い話だったのか、それとも上手いこと話に乗せられたのかはわからない。
しかし東京の地図が手に入るのは、何よりも魅力的であった。
この女がタイプだったからではない。決して、そうではない。