第1レグ 納屋で見つけた赤い宝物と大きな夢 ①
初夏の柔らかな風が、瑞穂町の街並みを静かに吹き抜けていた。
西多摩郡瑞穂町に位置する東京都立瑞穂高等学校。
放課後を告げる終業のチャイムが校舎全体に優しく響き渡り、部活動へと向かう生徒たちの足音や賑やかな話し声が廊下に溢れ出す。
木造の温もりが残る校舎の三階、廊下の突き当たりにある手芸部の部室。
その重厚な木製のドアには、あたたかみのある生成りの麻布に、色とりどりの刺繍糸で『手芸部』と一針一針ていねいに刺繍された、可愛らしい手作りの看板が下がっていた。
からりと扉を開けると、そこには放課後の斜光が窓いっぱいに差し込み、部屋全体を香ばしい琥珀色に染め上げていた。
室内には様々な色柄の生地やリボン、色とりどりの糸巻きが整然と並び、ほのかに布地特有の乾いた良い匂いが漂っている。
「想与香、今日の刺繍、すごく綺麗で揃った縫い目だね。
針の落とし方がすごく丁寧」
作業台の向かい側で裁ちバサミを手にしていた二年生の藤本乙花が、想与香の手元を覗き込んで感心したように目を細めた。
手芸部で一番のしっかり者であり、面倒見の良いお姉さん役の乙花に褒められ、想与香の表情がパッと華やぐ。
「本当? えへへ、ありがと!
このくまさんのマスコット、もう少しで完成なんだ〜」
片岡想与香は、作業台の上で楽しそうに針と糸を動かしていた。
四月四日生まれの十七歳、高校二年生。可愛い布地やぬいぐるみが大好きな、どこにでもいるごく普通の女子高生だ。
小柄で柔らかい雰囲気を持つ彼女だが、一度こうと決めたら周囲が驚くほどの集中力を発揮し、最後まで決して投げ出さずにやり遂げる真面目さと頑張り屋な性格は、部内でも誰もが認めるところだった。
「ん……っと。
ここをフレンチリボンステッチにして、最後に玉結びをキュッと隠して……」
小さな指先で器用に糸を手繰り寄せ、針先を布地の裏側に抜く。
最後の一針を静かに引き締めると、ふっくらとした可愛いマスコットが想与香の手の中で完成を迎えた。
「よしっ、できた!
今日の部活はここまでかな」
想与香が完成したばかりの手作りマスコットを誇らしげに掲げると、隣で生地の裁断をしていた乙花が、穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、すごく可愛くできたね。
お疲れ様、想与香」
「うん! お先です! みんなもまた明日ねー!」
「お疲れ様〜、気をつけて帰ってね」
「想与香ちゃん、バイバイ〜」
部室に残る部員たちと温かく手を振り合って挨拶を交わすと、想与香は手際よくハサミや糸巻きをマイ裁縫箱へ片付けた。
カバンをしっかりと肩にかけ、部室をあとにした彼女は、昇降口で上履きからローファーへと履き替える。
自転車置き場から愛用の自転車を引き出すと、心地よい夕風を全身に浴びながら、夕焼け空の下を軽快にペダルを漕いで自宅へと向かった。
「ただいまー!」
玄関で靴を揃えて脱いでいると、奥のキッチンからトントンと包丁を鳴らす音とともに、母親が顔を出した。
「あ、想与香、おかえりなさい。
ねえ想与香、週末の予定なんだけどさ。
おじいちゃんがちょっと腰を痛めちゃったみたいでね。
奥多摩の家の中庭、雑草が伸び放題で困ってるらしいのよ。
もしよかったら、手伝いに行ってあげてくれない?」
「えっ、おじいちゃん大丈夫!? うん、わかった! 週末、手伝いに行ってくるね!」
想与香は即座に頷き、二階にある自分の部屋へと階段を駆け上がった。
ドアを閉め、制服のリボンを解きながら小さくため息をつく。
(おじいちゃんの家に行くの、今年のお正月に遊びに行って以来だな……)
数年前に優しいおばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんは奥多摩の古い家でずっと一人暮らしを続けている。
普段、電話で話す時はいつでも「俺は元気だぞ」と笑っているけれど、一人きりの広い家で腰を痛めてしまったとなると、やっぱり心配でならない。
クローゼットからハンガーを取り出し、脱いだ制服のスカートを丁寧にかけながら、想与香は「よしっ」と自分の頬をぽんと叩いて気合を入れた。
「お庭の草むしりくらい、わたしがバッチリ終わらせて、おじいちゃんを安心させてあげなきゃ!」
手芸部で培った根気強さは、庭仕事だってきっと役に立つはずだ。
想与香はカレンダーの週末の日付を見つめながら、固く心に誓ったのだった。
◇
――そして、土曜日。
梅雨の晴れ間が広がり、六月の陽光が濡れた樹木の葉をキラキラと青金色の光で照らしていた。
東京都西多摩郡奥多摩町。
想与香が暮らす瑞穂町から青梅線に揺られ、さらに路線バスへと乗り継いでたどり着くその場所は、同じ東京都内とは思えないほど深い山々に囲まれ、澄んだ空気と力強い緑の匂いに満ちあふれている。
バス停から少し歩いた山沿いの一角に、想与香の母方の祖父の自宅があった。
「おーい、想与香。足元気をつけろよ」
母屋の縁側から、腰に湿布を貼ったおじいちゃんが少し辛そうに、けれど孫の訪問を心から喜ぶ笑顔で声をかけてきた。
「大丈夫だよ、おじいちゃん!
庭の草刈り手伝いに来たんだから、奥の物置から草刈りの道具取ってくるね!」
制服のスカートから動きやすいジャージに着替えた想与香は、白いスニーカーを鳴らして家の中庭へと元気よく走っていった。
母屋の裏手にひっそりと佇むのは、昔ながらの重厚な木造の古びた納屋だった。
引き戸をガラガラと音を立てて開けると、外界の暑さとは対照的なひんやりとした土の匂いと、どこか甘く香ばしい機械オイルの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
「うわ、ちょっと暗いな
……草刈り機と鎌はどこだろ」
薄暗い室内を目で探しながら奥へ進もうとした想与香は、部屋の中央でふと足を止めた。
そこに、巨大な小山のような物体が静かに鎮座していたからだ。
分厚いグレーの防炎シートがすっぽりと被せられ、何年分もの埃が層を成している。
「あれ……?
なんだろう、これ。大きな機械……?」
首をかしげつつも、想与香はまず本来の目的を果たすため、奥の木棚から草刈り機と金属製の手鎌、そして目を保護するためのプラスチック製防護メガネを引っ張り出し、母屋の中庭へと向かった。
「よーし、頑張るぞー!」
ブーンという軽快な草刈り機のエンジン音とともに、想与香は額にうっすらと汗を浮かべながら、黙々と作業に取りかかった。
膝の高さまで伸び放題になっていた背の高い雑草を根元からバッサバッサと刈り取り、機械の手が届かない石垣の隙間や植木鉢の周囲は、小さな手鎌で根元の土をほぐしながら、手作業で根っこから丁寧に引き抜いていく。
一度作業を始めると、途中で妥協することができない持ち前の頑張り屋な性格が遺憾なく発揮され、最初は雑草の海だった中庭は、一時間も経つ頃には見違えるほど美しく整えられていた。
「ふぅーっ! 綺麗になったー!」
想与香はジャージの袖で額の汗を拭い、さっぱりと綺麗になった庭を眺めて達成感に胸を張った。
借りた道具を片付けるため、想与香は再び裏手の木造納屋へと向かう。引き戸を開け、草刈り機と手鎌を元の棚へと整然と戻したところで、彼女の視線は自然と中央の防炎シートを被った機械へと引き寄せられた。
「やっぱり……気になるな」
シートの隙間から覗くそのシルエットは、どう見ても古い機械――いや、車のような形をしている。
しかし、おじいちゃんが現在乗っているのは畑仕事用の小さな軽トラックだけで、乗用車など持っていないはずだ。
好奇心に抗えず、想与香はそっと防炎シートの端に小さな手をかけた。
「うっ、重い……! せーのっ!」
ズシッと手のひらに伝わる重厚なシートを、両手に力を込めて一気に引き剥がす。




