第85話
水上を駆け抜けて標的に接近しながらステインは視界の端で水泡の軌道を追っていた。自分達が走り滑っている速度よりも圧倒的に遅く、対象を絞って追尾してくる訳でもない。気流に任せて流れているようだが、無視はできない。魔術師達が万全の状態で放った攻撃を防ぎ切ったのだから、水泡が残っていれば攻撃を通せる場面が制限される。
後続を走る魔術師達に攻撃魔術の準備をさせながら、ステインは水泡の一つを打ち消せないか試みるが、クライペン・スラングとて黙って見ているわけではない。身を捩らせたかと思うと、全身を覆う鱗を開かせて中から極細の水弾を射出して来た。
水上に出て見えている部分だけでも、見上げるだけで首が痛くなりそうな程の巨体に一体いくつの鱗があるのか想像もできない。
無数の水弾は一度上空に打ちあがった後、一斉に降りかかって来る。集中豪雨を濡れずにやり過ごす手段などない。ステインは水泡に向けて使用する筈だった魔術を急速変換、自身と連れの魔術師達を覆う半球状の屋根を出現させた。土属性で作られた屋根は魔力の含まれた攻撃には信用が置けるものであったが、流石に数が多過ぎた。いくつか水弾が抜けてきて最後尾を走っていた魔術師が被弾する。
「くっ、負傷者の状況は!?」
先頭を走るステインは後ろを向きたい気持ちを抑えて声を張る。
「右肩に一発と脇腹をいくつか掠めましたがまだ戦えます!数は多いですが、威力は大したことありません!」
気合いの入った声を背中に受け、ステインは胸を撫で下ろしたかったが、そう悠長にはしていられない。クライペン・スラングが雄叫びを上げて水中に潜ったのだ。
「各員、波に備えろ!」
魚類特有の起伏の少ない顔が水中に沈むと、人間程度ならば簡単に飲み込む高波が押し寄せてきた。回避する術は無かったが、ステイン含む四人の体を薄い水色の球形の膜が覆い、脅威から身を守った。支援部隊からの防御魔術だ。
防御膜によって砕かれた波で視界が極端に悪くなったが、ステインの眼はクライペン・スラングの影を捉え続けていた。波の余波が治まらぬ内に声を上げる。
「散開しろ!下から来るぞ!」
言うが早いか、ステインは急速前進し、魔術師達もそれぞれ別方向へ散開した。
「俺を狙ってくるか」
高速で滑るステインの直ぐ下を黒い影が様子を伺う様に付いて来る。隊列を組み直して追跡しようとする魔術師達だったが、尾を払って威嚇されてしまい思うように身動きが取れないでいた。
「奴を王子から引き剥がせ!」
一人の魔術師が号令を出し、それぞれが得意とする属性の魔術を放つが、斬撃系も貫通系も破砕系も水中のクライペン・スラングに傷を付けることはできなかった。それどころか魔術発動の隙を狙われて尾で薙ぎ払われてしまい、三人共後方に吹き飛ばされて水飛沫を上げた。
煩い連中がいなくなったところで、クライペン・スラングは本命の相手へ襲い掛かることにした。水面ぎりぎりまで浮上し、あといくらも経たない内に大口を開けて標的を飲み込む気でいた。
後方で魔術師達の悲鳴が聞こえたが、振り向く訳にはいかない。今振り向けば間違いなくやられると本能が警鐘を鳴らしていたのだ。とはいえ、このまま逃げ続けたところで戦域を悪戯に広げるばかりだ。攻撃の要であるマルリースの魔術発動までの注意を引き付ける己の役目を見失う訳にはいかない。ステインは正面を向いたまま後方に神経を集中し、クライペン・スラングの気配を確認した後、固唾を飲んで決心する。
心を決めてからの行動は軽やかだった。両の足先を上げ、踵を前に出す形で減速を掛けると共に足裏と水面の間で火と風の混合魔術を爆発させた。水面が炸裂音を立てて弾け飛び、ステインの体は高く打ち上がりながらバック宙する。
獲物の移動に合わせてクライペン・スラングも長い体を捻って上空へ口を伸ばす。結構な速度で前進していた事と、獲物が後方に飛び上がった事が合わさり、意外にも距離が離れていたが体を伸ばせば十分に届く距離である。
クライペン・スラングは水上へ体を伸ばして獲物を噛み砕こうとする。その迫力はあらゆる生命が自らの終わりを悟るに十分過ぎるものであったが、空中で動きが制限されている筈のステインは落ち付いた表情で迫り来る隻眼を見据えていた。蒼穹を映したかの様な美しい瞳は消え、曇った光りの中に獲物を映している。
己の片目を奪った人間に対して憎悪を抱いているのかと思っていたが、曇った瞳に感情はなく、まるで自らが生きる為に他の生物の命を奪うといった、自然の摂理に沿っただけの本能しか感じ取れなかった。
ステインがクライペン・スラングの牙から逃れる為に魔術を発動するより早く、彼らの頭上からは翼を持つ巨影が迫っていた。
時は少し戻り、クライペン・スラングが水中に潜った頃。マルリース達は水泡を全て水中に叩き落し、降りかかってきた無数の水弾を防ぎ切り、漸く落ち着いて攻撃魔術の詠唱に入ることができた。
「うひーっ!でかいだけあって攻撃も派手にやってくれるな!」
「水泡は湖に落とせば簡単に消えたことと、雨は一つ一つの威力が大したことないことが救いだ!」
マルリースの護衛に付いている二人の魔術師は全身を水で濡れた顔を拭い、後方から聞こえて来る詠唱に薄く笑みを浮かべた。
「青水よ緑風纏い仮初の神獣となりて飛翔しこの地に巣食う厄災の悉くを打ち滅ぼせ」
トンファーから二回、炸裂音が鳴り、水色と薄緑色の粒子がマルリースを包む。この時点で既に、目の前にいる部下二人分以上の魔力が蓄えられているが、まだ魔術を解き放とうとはしない。
「此通りし地に訪れるは破邪の風と黎明の時」
追加で一回、水色の粒子の舞と共に炸裂音が鳴ると、マルリースの背後で湖の水が逆巻いていく。巻き上げられた水は水上に出ているクライペン・スラングに劣らぬ高さまで昇ると、次第にある姿を形成していく。
三本の爪が生えた二本の脚部だけでも既に人間の数倍はある巨大さであり、脚部に支えられた胴体からは長い尾が生えている。尾の半分程度の長さの胴体は水で出来たというのに鋼の様にに強靭で、両脇から伸びる腕は脚部ほどの重厚さは無いが、その分長く鋭い爪を四本ずつ有している。胴体から伸びた頭部は口と鼻が全面に突き出た形をしており、頭頂部には形容し難く湾曲した二本の角が伸びていた。そして最後に背中からは自身の全長よりも長く、胴体を覆うほどに広い一対の翼が生えた。
伝説上の生物で、神獣の一種とも伝えられる生物をマルリースは自らの魔術で具現化してみせたのだ。
「急襲せよ!カノープス・ウォーター!」
左手を転に掲げて術名を呼ぶと、水で出来た作り物の瞳に光りが宿り、翼から大量の水飛沫を撒き散らして上空へ垂直に飛び立った。
獲物を喰らわんと大きく開けられた口へ先に入ったのは水の巨体であった。鋭く並んだ牙の殆どをへし折ったが、巨体も自らの形を維持できなくなり激流へと変わった。深い水中でも活動ができるクライペン・スラングでさえも、身に降り掛かる激流の圧に耐えかねて体を捻って逃れようとする。しかし、元の形を失えど激流はマルリースの魔術である。執拗にクライペン・スラングの頭部を追い掛けて水圧を掛けた。だが、骨を粉砕される前にクライペン・スラングは水中へと逃げ込み、標的を失った激流は湖へと還った。
激流が湖に飛び込んだ時、相応の衝撃が生じると思われたが、激流は音も無く消え去っただけでなく戦域に清涼な風を吹かせた。
「期待以上だ。それにこの風は……」
水上に着地していたステインは水中へ逃げる影を目で追いながら、身を包む風によって自身の魔力が活性化していることに気付く。
「王子!ご無事ですか!?」
後方に吹き飛ばされた魔術師三人が高速で滑って来る。派手に尾で薙ぎ払われたようだが、大きな負傷には至らなかったようだ。
「ああ。君達も無事そうで何よりだ。だが、まだクライペン・スラングは倒せていない」
既に影も見えなくなった水中へ視線を向けながら答える。水中でも使える魔術はあるが、当てずっぽうで使用して倒せる相手でもない。
標的を引き上げる為の準備をするように後方支援へ魔術の通信を送った時だ。先行部隊の三人が無事に見つかったという。派手な水浴びをしてしまい体力を消耗したが、まだ魔力量に余裕があるとのことだったので、後方支援へ加わって術式発動を手伝うように指示を出す。
「マルリース達と合流するぞ」
そう言って滑り出した時だ。数瞬前までステインが立っていた所から水の柱が打ち上がった。クライペン・スラングが水中から魔術を発動させてきたのだ。小さくないダメージを受けた筈だが、まだ闘争心は折れないらしい。
「前言撤回!散開しろ!」
四人は速度を上げて扇状に分かれる。柱は一本ずつだが連続的に立ち上って行き、迷いなくステインの背後へ迫る。
「王子!」
「俺に構うな!それよりも魔術の流れを辿って奴の居場所を特定するんだ!」
「承知しました!」
三人の魔術師はステインから離れるように移動し、十分な距離を取った所で魔気の流れと魔力の集中している箇所を探り始めた。




