第83話
小さき陸の生き物によって片目を奪われ、逃げ帰ってきて暗い水底で傷が癒えるのを待つ。狭くなった視界に幾らかの不便さを感じるが、数十年と生きてきた身としては湖の地形は全て覚えているし、他の生命体は己の姿を見れば勝手に避けてくれる。岩に衝突することも無ければ、他の生物と接触することも無い。
傷の痛みに耐えていると、ふつふつとやり場のない感情が生まれるが、この感情を表す術を己は持ち得ない。
湖の中には相変わらず青い濃淡の色が満ちていたが、己が片目を失ってからは鈍色の線が幾つも現れ、広がる青に穴を開けていた。美しい世界が汚されている様は看過できぬが、原因が分からない。水面より先から光に混じって差し込んでいることは分かるが、己が知るのは水中の世界のみ。そこから先の事はとんと知らぬ。水面を渡る陸の者ならば何かを知っているやもしれぬが、あの臆病者共が己と言葉を交わせる筈もない。
水面近くで光と鈍色を浴びながら、眼前を通り過ぎて行く陸の者を眺める日々が続く。陸の者は時にただ通り過ぎ、時に小さな水棲生物を捕って帰って行く。同じ湖で育った生物が捕らえられ、命を落として行く事に特別な感情は抱かなかった。生きる為に他者の命を食らう。ごく自然なことである。しかし、異変は起きた。
青と鈍色の世界を泳いでいると、言葉が聞こえる。否、脳や心臓に刻まれた言葉は体内に響いたと表すのが適当だろう。これまで感じたことのない現象に身を捻り、水底の砂を巻き上げた。生を望む言葉に体内が蝕まれるような不快さを覚え、頭から尾までを激しく振るうが、体内に入り込んだ言葉は消えない。
気味が悪い。言葉を発しているのが何者かは知らぬが、己の身の為に消え失せてもらう。
深い水底から一直線に水面を目指す。やがて水面には陸の者が水上を移動する箱が見える。言葉の主がそこに居るかは定かではないが構わない。水上に姿を現し、不快感の元凶を探し出さねばならぬ。
水底から上るクライペン・スラングの姿は通常であれば青い濃淡に包まれて神々しく見える筈が、今は随分と濃くなった鈍色の帯に導かれており禍々しく見えた。
ステイン達がグロート町に到着した翌日には既にクライペン・スラング討伐の準備が整えられた。元々、魔術師団が準備を進めていたこともあり、戦力の要となるのが魔術のため、物資的な準備は水上の拠点となる船ぐらいだった。その船もマルリースが船乗りギルドに掛け合ってすんなりと調達した。
港には自警ギルドと魔術師団が総出で列を形成し、湖を背に立つステインへ視線を集中させていた。
「これより私達はメエル湖に巣食う厄災と化したクライペン・スラングの討伐に当たる!強大な敵であるが、王都とグロート町を繋ぐ水路が絶たれ、民の生活を脅かす存在を野放しにする訳にはいかない。しかし、此度の脅威は水上のみならず地上にも表れる可能性がある。そこで自警ギルドの諸君には魔術師団と連携し町の防衛を任せたい。水上の脅威を排し、地上の険難から防護し、平穏を取り戻そう!」
ステインの宣誓に魔術師団は敬礼し、自警ギルドは拳を挙げて雄叫びを上げた。町全体に雄叫びが轟いたところで、片手を上げたマルリースがステインの隣りに並び立ち、戦闘員の昂りを抑える。
「慣れぬ水上と、襲撃予測の出来ぬ地上での戦いに苦戦が予測されるが、ステイン王子の御前で敗北は勿論、無様な戦いは見せられん!己の魂が燃え尽きるその時まで、戦士として誇り高く在れ!総員、作戦通り配置に着け!」
士気を鼓舞し、銀朱の肩掛けを翻して右腕を払うと、これまで整然と列を成していた魔術師団も自警ギルドも一斉に走り出す。
町の入り口となる西門と南門は自警ギルドを中心とした配置。町中はいくつかの区域に分け、自警ギルドと魔術師団の混合小隊で警護する配置だ。
「流石です。ステイン王子のお声で兵達の士気は最高潮に達しました」
マルリースの方が声の張りも威厳も上だった気がするが、謙遜しても何の得にもならない。寧ろ、これから戦いに赴くには余計な考えだ。ステインは肯定も否定もせず、シルフィアとテレシアへと向き直った。片や微笑んで手を叩き、片や腰に手を当ててニヤニヤと笑っている様子に、折角引き締めた戦意が緩められそうになるが、眉間に力を入れて堪える。
「作戦開始だ。シルフィアは船へ、テレシアは庁舎で待機し状況に応じて行動」
「はーい。テレシア、気を付けてね」
「はいよ。シルフィアから貰ったお守りもあるし、こっちは大丈夫だって。そっちこそ、気負いご主人様をよろしくな」
まるで買い物に出掛けた帰り道の別れ際の如き雰囲気で挨拶を交わし、テレシアは庁舎へと走って行く。途中、何度か振り返って手を振る姿も含めて、およそ戦いに行く者とは思えない。が、ステイン達も彼女の姿が見えなくなるまできっちり見送ってから船に乗り込んだ。
桟橋の先に停められた船はグロート町に停船している船でも一番大きく、湖を渡るだけでなく大陸間の航海も十分に熟せる代物だった。ステインも最初に見た時は「随分と大きい物を調達したね」と言葉を漏らした。
甲板に出ると、先に乗り込んだ魔術師団に混じって船乗りギルドの面々や長老、クラースの姿もあった。マルリースが船乗りギルドに船の借用を尋ねたところ、快く協力してくれたが唯一つ、クラースの同乗だけが条件として提示された。その場にステインがいれば止めただろうが、マルリースは二つ返事で承諾した。危険は承知の上だろうし、自分よりも、この町のだれよりも湖を知っている者が同乗してくれるならば、僅かな状況の機微にも反応してくれると判断したからだ。
「出港だ!」
「おーう!帆を張れ!」
マルリースの指示に一番に声を上げたのは昨日、魔術師団と言い合っていた青年、ニコラスだ。伸ばされた前髪は陸に居る時と違って掻き上げられ、ヘアバンドで留められている。
ニコラスの声に応じて張られた帆が風を受け、船はクライペン。スラング討伐の為に出港した。
「勇敢な人達だ」
船を動かす船乗り達を見てステインが呟いた。これから巨大モンスターの出現場所に行くというのに、誰一人物怖じしていないどころか、実に生き生きと動いている。
「彼らもこの町を守りたいのです。彼らの協力を得た上で敵を倒すことができれば、グロート町の人々にこれまで以上の活気が生まれるでしょう」
肩掛けと髪を風に揺らされながら答えるマルリースは「ですが」と言って言葉を繋ぐ。
「ステイン王子の許可なく彼らの同乗を承諾したこと、申し訳ありません」
謝罪するマルリースであったが、その頭は下げられることはなかった。ステインの手が先に彼女の頭の上に置かれたからだ。
「謝る必要は無いよ。グロート町はマリーの管轄で、判断も正しいと思う。それに、ここはもう戦場だから、安易に頭を下げるのは良くないよ」
「ステイン王子……。失礼しました」
謝罪の言葉を飲み込み、敬礼をすることで即座に気を入れ替える。その様子を見たステインはマルリースの頭を一撫でしてから、船首で話しをしているシルフィアとクラースの元へ向かった。
「クラースさん、湖の様子はどうですか?」
「まだ穏やかですぞ。クライペン・スラングが出るのはまだ先ですので、ゆっくりしていてくだされ」
「そうさせてもらいます。ところで、その釣竿は?」
「はっはっは。長年釣竿を握っていると、体の一部見たいになりましてな。陸に居る時はともかく、水上じゃ釣竿を握っておらんと落ち着かんのですわ」
麦わら帽子の上から頭を叩いて笑うクラースに、ステインも僅かばかり表情を緩くした。
「もしモンスターが出て来なかったら、おじいさんが釣り上げてくれるって」
「これこれ、老人の戯言を王子様にまことしやかに言わんどくれ」
ステインが来る前に二人で話していたのだろう。シルフィアの無邪気な物言いにクラースは若干慌てた。
「シルフィアは調子良さそうだね」
「うん。いつも通り元気だよ!任せてね!」
明るい笑顔を見せられたが、ステインの心は逆に陰った。国の発展の為に空魔精錬術を教えてもらう筈が、驚異から町村を守るための戦力として頼ってばかりである。シルフィアを危険な目に遭わせてばかりなことをクヨーラが知ったらどんな罵声が飛んでくるだろうか。それとも、風の便りで既に知っていて、霊山で怒り狂っているかもしれない。湧き上がってくる謝罪の気持ちを捨てる様に、ステインは水平線へ視線を投げた。
「船は安全圏で停めるようにしてありますが、危険を感じたら直ぐに港まで後退してください。水面上に降りた者の帰りは待たなくて結構です」
「王子様を見捨てるような真似は……」
「降りる者は皆魔術に自身がある者ばかりです。船がなくとも自力で岸まで逃げることは難しくありません」
「そう仰るなら、あっしは信じますが、若者はどうにも理屈では動いてくれませんて」
血気盛んな船乗り達に後退の言葉が通じなくとも、船を動かす手段はある。
「その時はシルフィア、君が風の魔術を使って船を動かしてほしい。僕らにかけている水の魔術は切っていいから」
話しを振られたシルフィアは戸惑う。船乗り達と気性は似ても似つかないが、彼女とて誰かを見捨てて自分だけ逃げることに強い抵抗がある。答えに窮したシルフィアの脳裏に、マルリースの姿が映る。記憶の中の彼女は勇ましく在り、シルフィアの心に反論する勇気を与えた。
「戦う前から後ろ向きなこと考えちゃ駄目だよ。直接戦うのはステインなんだから、目の前のことに集中して!わたしも誰も失わないように頑張るから!」
前のめりになるシルフィアに思わず目を見張るステインであったが、彼女の言葉は尤もである。万が一の時の安全ばかり考え、自分の成すべき事が疎かになるところだった。前線で戦う者が難無く討伐を完了すれば、後退する手筈をあれこれと考える必要は無い。仮に不安要素があったとしても、その時の対処法は自らの頭の中に描けていれば良くて、無闇に味方を不安がらせるのは下策である。
「シルフィアの言う通り、僕は僕の役目に集中するべきだね。ありがとう」
「どういたしまして」
話しが一段落し、穏やかな風が三人の間を通り過ぎた時だ。クラースが少し慌てた様子で舳先から身を乗り出す。
「風の乗りが良すぎたか。いや、奴の縄張りが広がったのか?どっちにしろ、そろそろ停船せんと危険じゃぞ!」
クラースの大声に船乗り達は慌てて錨を下ろし、帆を調整して停船を試みるが、船は風に引き摺られるように進んで行く。このままではクライペン・スラングの縄張りに侵入しかねない。そう思われた時、船は不自然に急停止した。慣性に引かれて船上に立っていたほぼ全員が体勢を崩す中、凛とした声が響き渡る。
「これより我ら王国魔術師団第四部隊はステイン王子と共にクライペン・スラング討伐の為に出撃する!補助魔術を受けた者から順次発進せよ!後方支援の隊列は後回しで良い!」
部下達へ指示を出しながら舳先へ駆け寄るのはマルリースだ。
「部下に風の魔術を発動させました。乱暴な停め方で申し訳ありません」
「いや、助かったよ。僕達も行こうか……シルフィアお願い」
「うん!」
シルフィアは元気に頷いた後、目を閉じて魔術発動の為に集中する。淡い青の光が渦状にシルフィアの体を包んだと思うと、光は二分してステインとマルリースの足に宿った。
「ありがとう。それでは、マリー、出撃だ」
「はい!」
二人は同時に舳先へ片足を掛け、高く跳び上がると水面へと降下して行く。水面には既に魔術師団の面々が指揮官の到着を待機していた。




