第9話 私の居場所は、私が決めます
王城の監査室は、思ったより天井が高かった。
石造りの壁。細い窓から差し込む朝の光。長い机の向こうに王家監察局の監査官が三名座り、その手前にアルベルト様とマルガレーテが並んでいる。傍聴席の端に、ルーカスの姿があった。
アルベルト様は正装だった。外交の場と同じ完璧な身なり。けれど、顔色が悪い。目の下に隈がある。五ヶ月前に離縁届を受け取った時の余裕は、どこにもなかった。
マルガレーテは唇を引き結んでいた。扇で顔を隠している。
私は証人席に座った。手元に帳簿はない。帳簿なしでこの場に立つのは、裸で戦場に出るようなものだ。——いや、違う。帳簿の中身は全部、頭の中にある。
「では、セレナ・フォン・フェルゼン殿。お手元の書類をご覧ください」
監査官が、二種類の書類を並べた。
左側は、グランツ公爵領が王家に提出してきた年次報告書。右側は、王家が独自に入手したルーンブックの管理者記録——帳簿の筆跡と魔力の照合結果だ。
「この報告書に記載された領地の収支データは、グランツ公爵閣下が作成されたものとして提出されています。しかし——」
監査官が書類の一箇所を指差した。
「ルーンブックの管理者記録によると、過去七年間の帳簿は全て、元公爵夫人であるあなたの魔力で封印されています。つまり、作成者はあなたである、と」
「はい。その通りです」
淡々と答えた。
監査官が次の書類を広げる。交易路の改革案。商人との契約書。社交界の運営予算。どれも私の筆跡で、アルベルト様の署名だけが上に載っている。
「これらの文書は全て、あなたが起案し、作成されたものですか」
「はい」
「公爵閣下はこれらの文書の作成に関わっておられましたか」
「いいえ。旦那——グランツ公爵閣下は、完成した文書に署名をされるだけでした」
向かいの席で、アルベルト様の手が膝の上で動いた。何か言おうとしている。
「異議があればこの後の弁明の時間に——」
「事実と異なります」
アルベルト様が口を開いた。声は落ち着いていた。さすがに外交の場を渡り歩いてきた人だ。窮地でも声は乱れない。
「妻は——元妻は有能な補佐でしたが、最終的な判断は全て私が行いました。署名がその証拠です」
監査官が帳簿の魔力記録をもう一度示した。
「管理者記録には、帳簿への書き込みの日時と魔力パターンが残ります。公爵閣下の魔力パターンは、七年分の帳簿のどこにも検出されておりません」
アルベルト様の口が、閉じた。
「あの嫁は勝手に——」
マルガレーテが扇の陰から声を上げた。監査官が視線を向ける。マルガレーテの声は尻すぼみに消えた。「勝手に」の先を言えなかったのだ。勝手に何をしたと言えばいいのか。勝手に帳簿をつけた? 勝手に領地を回した? それは告発ではなく賞賛だ。
証拠の前に、言葉は無力だった。
「セレナ殿」
監査官が私に向き直った。
「最後に確認いたします。グランツ公爵家の帳簿の引き継ぎの儀が行われなかった理由について、ご説明いただけますか」
「引き継ぎを求められなかったからです」
「公爵閣下から依頼がなかった、と」
「はい。離縁の手続きの際、帳簿の引き継ぎについて一切の指示がございませんでした」
アルベルト様は黙っていた。反論できない。引き継ぎを求めなかったのは事実だ。私が去ることの意味を、あの人は本当に何も分かっていなかったのだから。
「以上で事実確認は終了いたします。セレナ殿、最後に何かございますか」
立ち上がった。
監査室の全員の視線が集まる。アルベルト様。マルガレーテ。監査官たち。書記官。傍聴席のルーカス。
ルーカスの目だけが、問いかけていなかった。ただ、こちらを見ていた。静かに。
「一つだけ」
声は震えなかった。七年間、社交界の顔として微笑み続けた喉だ。ここで震えてたまるか。
「帳簿の引き継ぎをお求めであれば、王家の正式な手続きを通じてお受けいたします。ただし——」
まっすぐ前を向いた。アルベルト様の目を見て。
「私は戻りません」
一度、息を吸った。
「**私の居場所は、私が決めます**」
監査室が、一瞬だけ静まった。
それから、監査官が軽く頷いた。書記官のペンが動く音が、やけに大きく聞こえた。
◇
監査結果は、その場で言い渡された。
グランツ公爵領の収支報告における虚偽記載——元公爵夫人の功績を公爵本人の業績として報告していた事実が認定された。
公爵位は、嫡子レオンが成人するまで一時停止。アルベルトは後見人として領地に残るが、王家から派遣される監査官の管理下に置かれる。
リーリエ・メルツは公爵家との関係を解消され、メルツ男爵家に送還。
先代公爵夫人マルガレーテは社交界での活動を自粛するよう「強い勧告」を受けた。法的な処分ではない。だが王家からの勧告は、社交界では事実上の追放を意味する。
アルベルト様は、監査結果を聞いている間、一度も私のほうを見なかった。
マルガレーテは扇を握ったまま、微動だにしなかった。
私は何も感じなかった——と言えば嘘になる。ただ、思っていたほどすっきりはしなかった。復讐が目的ではなかったから。ただ、事実を述べただけだ。あの帳簿に書かれていたことを、そのまま。
監査室を出る時、アルベルト様の背中が見えた。五ヶ月前より、少しだけ小さく見えた。
◇
王城の中庭に出ると、風が吹いていた。ヴァイス領の潮風とは違う。石畳と薔薇の庭の、乾いた風だ。
ベンチに座って、深く息を吐いた。手が震えていた。——証言台では震えなかったのに、終わった途端にこれだ。
「セレナ」
振り向くと、ルーカスがいた。いつの間に傍聴席から出てきたのか。
ルーカスは私の前に歩いてきて——止まった。
そして、片膝をついた。
石畳の上に。傍聴席にいた時と同じ外套のまま。泥がつくとか、そういうことは気にしない人だった。
「……ルーカス、様?」
「八年前の答えを、今聞いてもいいか」
心臓が跳ねた。
八年前。縁談の席で、私が断った相手。あの時、この人は何も言わなかった。追いかけてもこなかった。八年間、ずっと——
(ずっと、待っていたのか)
花。あの夜、扉の前に置かれていた白い花。
「……冗談、ですか」
「冗談は八年前に使い切った」
ルーカスの目は真っ直ぐだった。嘘の色がない。怒りの色もない。緊張しているのか、耳の先がまた赤い。膝をついた姿勢のまま、こちらを見上げている。
この人は——帳簿の折り目がついたページを八年間持ち歩いて、毎晩茶を淹れて、花を扉の前に置いて、拳を震わせながら「お前の人生だ」と言った人だ。
答えは、もう分かっている。
分かっているのに——
「……少しだけ、考えさせてください」
声が震えた。今度は隠せなかった。
ルーカスは目を閉じて、小さく笑った。笑ったのだ。口の端がわずかに上がっただけの、ほとんど見えない笑み。
「……待つのは慣れている」
立ち上がって、外套の膝の泥を払った。ルーカスの手が一瞬だけ、私の頬に触れた。涙がついていたらしい。いつの間に泣いていたのだろう。——また、この人の前で。
拭ってくれた指先は、温かかった。
中庭の薔薇が風に揺れていた。二人の間に、言葉は必要なかった。




