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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ


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第8話 取り戻せないもの


「妻を返していただきたい」


 宮廷の謁見室で、グランツ公爵アルベルトはそう切り出した。


 正面の椅子に座る宰相は、書類から顔を上げた。白髪混じりの眉がゆっくりと持ち上がる。


「……妻を、『返す』?」


「元妻です。離縁は成立しておりますが、公爵領の帳簿が彼女の魔法で封印されたまま解読できません。帳簿の解読のためだけでも、一度帰還させていただきたい」


 宰相は書類に目を戻した。しばらく黙って読んでいる。


「グランツ公爵。帳簿の問題であれば、王家に管理者の派遣を申請すれば済む話では?」


「ルーンブックの管理者は本人以外に解読できません。引き継ぎの儀を——」


「その引き継ぎを求めなかったのは、そちらですな」


 アルベルトの口が閉じた。


 宰相は眼鏡を直し、淡々と続けた。


「離縁済みの元配偶者に帰還を命じる法的根拠は、現行法にはありません。それとも——元奥方は公爵家の所有物でしたかな?」


 謁見室の空気が冷えた。控えている書記官が目を伏せる。


 アルベルトは何か言い返そうとして、やめた。丁寧に一礼して退出する。その背中を、宰相が書類越しに見送った。


「……帳簿ひとつで領地が回らなくなる公爵家か。公爵夫人がいかに有能だったか、逆に証明しているな」


 独り言は、書記官の耳にだけ届いた。


     ◇


 三日後。ヴァイス伯爵領に、王家の紋章入りの書状が届いた。


『グランツ公爵領の帳簿管理に関し、事情を確認したく存じます。ご都合のよい日程をお知らせください。——王家監察局』


 出頭命令ではない。あくまで「事情確認」。だが王家の紋章がついている以上、無視はできない。


 書状を持って、ルーカスの執務室に行った。


 扉を叩く。あの日以来——あの夕暮れの執務室で泣いてしまった日以来、この扉を叩くたびに心臓が少しだけ跳ねるようになった。困ったものだ。


「入れ」


 ルーカスは地図に何かを書き込んでいた。私の顔を見て、ペンを置く。


「王家から書状が来ました」


 差し出すと、ルーカスは受け取って目を通した。眉が動く。わずかに険しくなる。


「……グランツ公爵が、王家に訴えたか」


「そのようです。帳簿の解読のため、私を帰還させるようにと」


「帰還命令は出ているのか」


「いいえ。事情確認だけです。法的な強制力はありません」


「なら、無視してもいい」


「……政治的には、そうも言えません。王家の書状を無視すれば、ヴァイス伯爵領にも影響が出ます。ルーカス様にご迷惑を——」


「俺の心配はいい」


 短く遮った。書状をテーブルに置く。


 ルーカスは椅子から立ち上がった。窓辺に歩いていく。背中を向けたまま。


「……セレナ」


 名前だけ。様も殿もつかない。あの夜以来、時々こうなる。すぐに「セレナ殿」に戻るのだが、ふとした拍子に呼び捨てが出る。


「お前の人生だ」


 低い声。窓の外を見たまま。


「戻るも戻らないも、お前が決めることだ。俺が決めることじゃない」


 正しい。正しい言葉だと思う。


 でも——ルーカスの右手が、体の横で拳を握っているのが見えた。


 きつく。白くなるほど。


(……震えている)


 拳が、かすかに震えていた。


 口では「お前が決めろ」と言いながら、体は別のことを言っている。この人は——行かないでくれと、言えないのだ。言わないのではなく、言えない。私の自由を尊重するあまり、自分の感情を閉じ込めている。


 不器用な人。


「……ルーカス様」


「なんだ」


「少し、考えさせてください」


「……ああ」


 拳は、まだ震えていた。


     ◇


 夜。自室で、膝を抱えていた。


 考えていたのは、レオンのことだった。


 公爵家の帳簿が読めないなら、領地の経営が立ち行かなくなる。経営が立ち行かなくなれば、領民の生活が苦しくなる。レオンの暮らしにも影響が出るかもしれない。


(一度だけ戻って、引き継ぎの儀をすれば済むのではないか)


 頭の隅で、そう思う自分がいる。


(駄目だ。一度戻ったら終わりだ。「やっぱり戻れるじゃないか」と言われる。「頼む」の次は「命じる」に変わる。また名前を消されて、帳簿の影で——)


 分かっている。分かっているのに、レオンの顔がちらつく。あの子の朝ごはん。あの子の宿題。あの子の寝顔。


 考えがぐるぐると回る。答えが出ない。


 ——今夜は、茶が来なかった。


 いつもならとっくに机の端に置かれているはずの温かい茶碗が、ない。


(……あの告白で、引かれたのだろうか。重すぎたのかもしれない。七年分の秘密を、あんな形で——)


 違う、と思いたい。でも、茶がないという事実が、胸の奥を冷たく刺す。


 あの茶があるだけで、夜の仕事が頑張れた。誰かが起きていてくれる。誰かが私を気にしている。それだけのことが、どれほど支えになっていたか——


(……ああ、私、あの茶に頼っていたのだ)


 気づいてしまった。茶に、ではない。あの茶を淹れてくれる人に。


 膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。


     ◇


 部屋を出ようとして、足元に何かがあるのに気づいた。


 扉の前に、一輪の花が置いてある。


 白い花。茎が短く切られて、小さな水の入った瓶に差してある。丁寧な切り口だった。剣を扱い慣れた人間の切り口だ。


(……きれい)


 しゃがんで、拾い上げた。花弁に夜露がついている。いつ置かれたのだろう。つい先ほどか、それとも——


 花の名前は知らない。でも、どこかで見た気がする。市場だったか、庭だったか。白くて小さくて、風に揺れても折れなさそうな、強い花。


 部屋に持ち帰って、机の上の花瓶に挿した。先週飾った野花の隣に。


(茶は来なかった。でも、花が来た)


 言葉の代わりに。


 ルーカスが何を伝えたいのか、正確には分からない。でも——拳を震わせながら「お前の人生だ」と言った人が、夜の扉の前に花を置いていった。それだけで、答えは半分もらったような気がした。


 窓の外で、潮風が鳴っている。


 翌朝、ハンネスが慌てた顔で経理室に飛び込んできた。


「セレナ殿! 王家から続報です。グランツ公爵領の帳簿問題について——王家が独自に監査を行うことが決まったそうです」


「……監査?」


「公爵の訴えが発端になって、逆に、公爵領の収支報告そのものに不審点があると判断されたらしいです」


 書状を受け取った。王家監察局の印。


 風向きが、変わった。


 アルベルト様。あなたが「妻を返せ」と訴えたことで——王家が動いたのは、あなたの味方としてではありませんでした。


 机の上で、白い花がかすかに揺れていた。

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