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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 知っていた


 その夜会で出された料理を、招待客は「残念」の一言で片付けた。


 グランツ公爵家の大広間。先代公爵夫人マルガレーテが主催する春の夜会は、例年であれば王都社交界の目玉のひとつだった。——例年であれば。


 今年は花が萎れていた。花材の発注が遅れたのだ。料理の味付けが濃すぎ、デザートの果物は季節を外していた。招待客の席順が間違っており、仲の悪い家同士が隣り合わせになって、開始一時間で二組が帰った。


「グランツ家も落ちたわね」


 翌日、王都の茶会でその囁きが広がった。三十年かけてマルガレーテが築いた社交界での地位に、初めて亀裂が入った日だった。


 その噂は、数日後には魔法鳥に乗って辺境にまで届いた。ハンネスが朝食の席で「グランツ家の夜会がひどかったらしいですよ」と何気なく言うのを、私は黙って聞いていた。


 花の手配、料理の献立、招待客の席順。全部、私がやっていた仕事だ。


 感慨は、あまりなかった。ただ、少しだけ、レオンのことを考えた。あの子はあの夜会の隅で、退屈そうにしていただろうか。それとも、もう寝ていただろうか。


 ——考えても仕方がない。今日も仕事がある。


     ◇


 ヴァイス伯爵領の執務室は、夕方になると西日が差し込む。


 私とルーカスは向かい合って書類を広げていた。交易路の拡張計画。冬季の海路輸送の見積もり。港の増設案。数字を突き合わせる作業は二人でやったほうが早い。私が数字を読み、ルーカスが地形と距離の現実を補正する。最初の頃はぎこちなかったこのやり取りが、いつの間にか滑らかになっていた。


 ルーカスは数字は読めないが、地形は完璧に把握している。「この山道は冬場、膝まで雪が積もる」「この港は東風が吹くと船が出せない」——そういう、帳簿には載らない情報を持っている人だ。私の数字とルーカスの現場感覚が噛み合うと、計画の精度が格段に上がる。


「この区間、馬車だと四日かかるが、海路なら二日で行ける。ただ、冬の波が——」


「荒れる時期は十二月から二月ですね。であれば十一月末までに在庫を積み増しておけば」


「それだと倉庫が足りない」


「港の空き地を一時倉庫にすればいいんです。ほら、ここ」


 地図を指差そうとして——手が滑った。インク壺に指が当たる。黒い液体が書類に散り、慌てて拭こうとした手を、ルーカスが支えた。


 大きな手だった。私の手を下から包むように。


「……すまない。驚かせた」


「いえ、私が——」


 言いかけて、止まった。


 ルーカスが、私の手を見ていた。


 指先。爪の際に残ったインクの染み。右手の中指と薬指にできたペンだこ。左手の人差し指には、帳簿の紙で切った古い傷の跡。どれも、一朝一夕にはできないものだ。


 七年分の、手。


「……ずいぶん、働いた手だな」


 低い声だった。ルーカスの視線は私の指先に落ちたまま動かない。


「よく」


 一度、言葉を切った。


「——よく、耐えたな」


 世界が、少しだけ揺れた。


 違う。揺れたのは世界ではなくて、私の中の何かだ。七年間、鍵をかけて奥のほうにしまっていた何かが、たった一言で——


「……っ」


 目から、涙がこぼれた。


 驚いた。自分が一番驚いた。泣くつもりなんかなかった。この人の前で泣くなんて、仕事相手の前で泣くなんて、一番やってはいけないことだ。公爵家で七年間泣かなかった私が、なぜ今——


 止まらなかった。


 声は出さなかった。嗚咽もしなかった。ただ、涙だけが静かに落ちる。頬を伝って、ルーカスに支えられたままの手の甲に落ちた。


 ルーカスは何も言わなかった。手を離さなかった。


「……すみません」


「謝るな」


「でも——」


「謝るな」


 短い。強い。でも、怒っているのではないと分かった。声の奥に、別の感情がある。何かを堪えている声だ。


 しばらく、そのままだった。どれくらいの時間が経ったのか分からない。窓の外の西日が少しだけ傾いた気がする。


 涙が止まった。


 ルーカスがようやく手を離しかけた時、私は口を開いていた。


「——私は、結婚した日から、全部知っていました」


 ルーカスの手が止まった。


「レオンが、誰の子か。夫が何をしていたか。愛人が誰で、義母がそれを黙認していたことも」


 声は平坦だった。涙の後なのに、不思議なほど落ち着いていた。もう隠す理由がなかった。


「全部、最初から知っていて——それでも残ったんです」


「……なぜ」


 ルーカスの声が掠れていた。


「あの子に罪はありませんでしたから」


 レオン。七年間育てた子。私の血は繋がっていない。でも、初めて熱を出した夜に額を冷やしたのは私だ。初めて文字を書いた日に「お母様、見て」と駆けてきたのは私のところだ。


「あの子が私を必要としている間は、離れるわけにいかなかった。それだけです」


「……七年間、ずっと」


「ずっとです。離縁届は——嫁いだ日に書きました。いつでも出せるように。引き出しの奥に入れて、毎年、日付だけ書き直していました」


 自分でも不思議なほど、落ち着いて話せていた。七年間、誰にも言えなかったことが、するすると口から出ていく。ルーカスの手の温度のせいかもしれない。


「……泣かなかったのか。七年間」


「泣いたら負けだと、思っていました」


 誰に負けるのか。アルベルト様に? リーリエに? マルガレーテに? ——違う。泣いたら、自分自身に負ける。泣いたら「可哀想な自分」になってしまう。そうなったら、あの家から出る力がなくなると思った。


 だから泣かなかった。泣けなかった。レオンの寝顔を見ながら「この子のために」と自分に言い聞かせた夜が、何百回あっただろう。泣き方を、本当に忘れたのだ。


「——それが、今」


 声に出さなかった。今、この人の前で泣けた。七年分が。


 ルーカスは黙っていた。長い沈黙。西日が執務室を橙色に染めている。


 彼の手が——もう離れかけていた手が、もう一度、私の手を握った。


 今度は支えるためではなかった。指を絡めるように。強く。


「ヴァイス伯爵——」


「ルーカスでいい」


「……ルーカス、様。今のお話は——どうか、お忘れください。仕事には関係のないことですし——」


「忘れない」


 短く。低く。


「忘れるつもりもない」


 手を、離さなかった。


 窓の外で風が鳴っている。潮の匂い。西日が少しずつ沈んでいく。机の上の書類がオレンジ色に染まって、インクの染みも地図の線も全部同じ色になった。私たちの影が、執務室の壁に長く伸びていた。


 握られた手が温かい。剣だこのある、硬い手。この手が毎晩、私のために茶を淹れていたのだと思うと、胸の奥がまた痛んだ。痛いのに、離したくなかった。


 手を握られたまま、私はようやく一つだけ分かった。


 この人は——私の仕事を見ているのではない。私の能力を見ているのでもない。


 七年間ペンを握り続けた、この手そのものを、見ている。


 それが何を意味するのか。考えるのが、少しだけ怖かった。

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