第7話 知っていた
その夜会で出された料理を、招待客は「残念」の一言で片付けた。
グランツ公爵家の大広間。先代公爵夫人マルガレーテが主催する春の夜会は、例年であれば王都社交界の目玉のひとつだった。——例年であれば。
今年は花が萎れていた。花材の発注が遅れたのだ。料理の味付けが濃すぎ、デザートの果物は季節を外していた。招待客の席順が間違っており、仲の悪い家同士が隣り合わせになって、開始一時間で二組が帰った。
「グランツ家も落ちたわね」
翌日、王都の茶会でその囁きが広がった。三十年かけてマルガレーテが築いた社交界での地位に、初めて亀裂が入った日だった。
その噂は、数日後には魔法鳥に乗って辺境にまで届いた。ハンネスが朝食の席で「グランツ家の夜会がひどかったらしいですよ」と何気なく言うのを、私は黙って聞いていた。
花の手配、料理の献立、招待客の席順。全部、私がやっていた仕事だ。
感慨は、あまりなかった。ただ、少しだけ、レオンのことを考えた。あの子はあの夜会の隅で、退屈そうにしていただろうか。それとも、もう寝ていただろうか。
——考えても仕方がない。今日も仕事がある。
◇
ヴァイス伯爵領の執務室は、夕方になると西日が差し込む。
私とルーカスは向かい合って書類を広げていた。交易路の拡張計画。冬季の海路輸送の見積もり。港の増設案。数字を突き合わせる作業は二人でやったほうが早い。私が数字を読み、ルーカスが地形と距離の現実を補正する。最初の頃はぎこちなかったこのやり取りが、いつの間にか滑らかになっていた。
ルーカスは数字は読めないが、地形は完璧に把握している。「この山道は冬場、膝まで雪が積もる」「この港は東風が吹くと船が出せない」——そういう、帳簿には載らない情報を持っている人だ。私の数字とルーカスの現場感覚が噛み合うと、計画の精度が格段に上がる。
「この区間、馬車だと四日かかるが、海路なら二日で行ける。ただ、冬の波が——」
「荒れる時期は十二月から二月ですね。であれば十一月末までに在庫を積み増しておけば」
「それだと倉庫が足りない」
「港の空き地を一時倉庫にすればいいんです。ほら、ここ」
地図を指差そうとして——手が滑った。インク壺に指が当たる。黒い液体が書類に散り、慌てて拭こうとした手を、ルーカスが支えた。
大きな手だった。私の手を下から包むように。
「……すまない。驚かせた」
「いえ、私が——」
言いかけて、止まった。
ルーカスが、私の手を見ていた。
指先。爪の際に残ったインクの染み。右手の中指と薬指にできたペンだこ。左手の人差し指には、帳簿の紙で切った古い傷の跡。どれも、一朝一夕にはできないものだ。
七年分の、手。
「……ずいぶん、働いた手だな」
低い声だった。ルーカスの視線は私の指先に落ちたまま動かない。
「よく」
一度、言葉を切った。
「——よく、耐えたな」
世界が、少しだけ揺れた。
違う。揺れたのは世界ではなくて、私の中の何かだ。七年間、鍵をかけて奥のほうにしまっていた何かが、たった一言で——
「……っ」
目から、涙がこぼれた。
驚いた。自分が一番驚いた。泣くつもりなんかなかった。この人の前で泣くなんて、仕事相手の前で泣くなんて、一番やってはいけないことだ。公爵家で七年間泣かなかった私が、なぜ今——
止まらなかった。
声は出さなかった。嗚咽もしなかった。ただ、涙だけが静かに落ちる。頬を伝って、ルーカスに支えられたままの手の甲に落ちた。
ルーカスは何も言わなかった。手を離さなかった。
「……すみません」
「謝るな」
「でも——」
「謝るな」
短い。強い。でも、怒っているのではないと分かった。声の奥に、別の感情がある。何かを堪えている声だ。
しばらく、そのままだった。どれくらいの時間が経ったのか分からない。窓の外の西日が少しだけ傾いた気がする。
涙が止まった。
ルーカスがようやく手を離しかけた時、私は口を開いていた。
「——私は、結婚した日から、全部知っていました」
ルーカスの手が止まった。
「レオンが、誰の子か。夫が何をしていたか。愛人が誰で、義母がそれを黙認していたことも」
声は平坦だった。涙の後なのに、不思議なほど落ち着いていた。もう隠す理由がなかった。
「全部、最初から知っていて——それでも残ったんです」
「……なぜ」
ルーカスの声が掠れていた。
「あの子に罪はありませんでしたから」
レオン。七年間育てた子。私の血は繋がっていない。でも、初めて熱を出した夜に額を冷やしたのは私だ。初めて文字を書いた日に「お母様、見て」と駆けてきたのは私のところだ。
「あの子が私を必要としている間は、離れるわけにいかなかった。それだけです」
「……七年間、ずっと」
「ずっとです。離縁届は——嫁いだ日に書きました。いつでも出せるように。引き出しの奥に入れて、毎年、日付だけ書き直していました」
自分でも不思議なほど、落ち着いて話せていた。七年間、誰にも言えなかったことが、するすると口から出ていく。ルーカスの手の温度のせいかもしれない。
「……泣かなかったのか。七年間」
「泣いたら負けだと、思っていました」
誰に負けるのか。アルベルト様に? リーリエに? マルガレーテに? ——違う。泣いたら、自分自身に負ける。泣いたら「可哀想な自分」になってしまう。そうなったら、あの家から出る力がなくなると思った。
だから泣かなかった。泣けなかった。レオンの寝顔を見ながら「この子のために」と自分に言い聞かせた夜が、何百回あっただろう。泣き方を、本当に忘れたのだ。
「——それが、今」
声に出さなかった。今、この人の前で泣けた。七年分が。
ルーカスは黙っていた。長い沈黙。西日が執務室を橙色に染めている。
彼の手が——もう離れかけていた手が、もう一度、私の手を握った。
今度は支えるためではなかった。指を絡めるように。強く。
「ヴァイス伯爵——」
「ルーカスでいい」
「……ルーカス、様。今のお話は——どうか、お忘れください。仕事には関係のないことですし——」
「忘れない」
短く。低く。
「忘れるつもりもない」
手を、離さなかった。
窓の外で風が鳴っている。潮の匂い。西日が少しずつ沈んでいく。机の上の書類がオレンジ色に染まって、インクの染みも地図の線も全部同じ色になった。私たちの影が、執務室の壁に長く伸びていた。
握られた手が温かい。剣だこのある、硬い手。この手が毎晩、私のために茶を淹れていたのだと思うと、胸の奥がまた痛んだ。痛いのに、離したくなかった。
手を握られたまま、私はようやく一つだけ分かった。
この人は——私の仕事を見ているのではない。私の能力を見ているのでもない。
七年間ペンを握り続けた、この手そのものを、見ている。
それが何を意味するのか。考えるのが、少しだけ怖かった。




