第6話 覚えていた味
カモミール、ペパーミント、レモンバーム、林檎の乾燥茶。
ヴァイス伯爵領に来てから二ヶ月、毎晩経理室に置かれる茶の種類を数えてみたら、一度も同じものがなかった。
最初は気にしていなかった。温かい茶が机にあること自体がありがたくて、味の違いにまで意識が回らなかった。でも、ある夜からはっきり気づいた。私が前の晩に「今日のお茶、美味しかったです」と誰にともなく呟いた翌日には、必ず同じ銘柄が出る。
一度だけでなく、何度も。
——偶然にしては、出来すぎている。
◇
朝。経理室でハンネスと帳簿の照合をしていた。交易路の通行量が先月比で二割増えている。関税の是正に加えて、海路の代替経路を公示したことが効いた。冬を越せば、さらに伸びるだろう。
「いい数字ですね。このまま行けば三ヶ月後には単年度黒字も見えてくる」
「……すごいな。すごいっすね。セレナ殿が来る前は、帳簿開くたびに胃が痛かったんですよ」
ハンネスが大袈裟に胸を撫で下ろしている。この人はいつも表情が忙しい。
「ところで、ハンネスさん」
「はい?」
「毎晩、お茶を淹れてくださってありがとうございます。昨日のレモンバームも、この間のカモミールも、とても美味しかったです」
ハンネスが、首を傾げた。
「……茶? 俺は淹れてませんが」
「え」
「夜の経理室に茶を運ぶ仕事、俺の担当じゃないですよ。使用人にもそんな指示出してないし」
ペンが止まった。
「では……どなたが」
ハンネスは一瞬だけ何か言いかけて、やめた。代わりに、少し困ったような笑みを浮かべる。
「さあ。心当たりがあるなら、直接聞いてみたらどうです?」
心当たり。
茶を淹れられる人間で、夜遅くまで起きていて、経理室の場所を当然知っていて——
(……まさか)
ペンを置いて、立ち上がった。
◇
ルーカスの執務室の扉を叩くと、低い声が返った。
「入れ」
開けると、ルーカスが書類の山に向かっていた。相変わらず壁には地図が貼ってある。領地の地形図と国境線。その横に——何か額装された紙が飾ってあるような気がしたが、今はそれどころではない。
「ヴァイス伯爵。ひとつお伺いしたいことが」
「なんだ」
「毎晩、経理室にお茶を置いてくださっていたのは——」
ルーカスの手が止まった。
ペンを置く。顔は上げない。窓のほうに目を向けた。
「……気にするな」
「いえ、あの。気になります。二ヶ月間、毎晩ですから」
「……」
「しかも毎回違う種類で、私が美味しいと言ったものは次の日にも出てきます。銘柄を覚えていらっしゃるとしか——」
「気にするな」
二度目。声が少しだけ低くなった。
ルーカスはまだ窓の外を見ている。耳が——気のせいだろうか。耳の先が、ほんの少し赤いような。
(……赤い?)
いや、日焼けだろう。軍人は日に焼ける。耳も日に焼ける。たぶんそうだ。
「淹れるくらい、たいしたことじゃない」
ようやく、ルーカスが口を開いた。低い声。窓の外を見たまま。
「夜遅くまで仕事をしている人間がいるなら、茶くらい出す。軍にいた頃もそうしていた」
(ああ——軍の習慣なのか)
そう思えば納得がいく。夜番の兵士に差し入れをする指揮官、という話は聞いたことがある。
「そうでしたか。ご迷惑をおかけしていたのですね。すみません、遅くまで残って——」
「迷惑じゃない」
遮るように。短く。
「…………」
沈黙が落ちた。長い沈黙。窓の外で風が鳴っている。
「……ありがとうございます。ヴァイス伯爵」
「ああ」
それだけだった。
執務室を出て、廊下を歩きながら、自分の胸に手を当てた。速い。どうして速いのか、よくわからない。茶を淹れてもらっていただけだ。上司が部下にそうするように。軍の習慣として。それ以上の意味は、ない。
——ないはずだ。
(気にするな、と言われたのだから。気にしなくていいのだ)
自分にそう言い聞かせた。あまり効かなかった。
経理室に戻ると、机の上の帳簿がそのままだった。ハンネスの分の帳簿も開きっぱなしだ。二人とも途中で席を立ったのだから当然だが、数字が目に入った瞬間、頭が切り替わった。
仕事がある。仕事をしよう。
椅子に座り、ペンを取る。数字を追い始めたら、胸の速さは少しだけ収まった。——少しだけ。
◇
夕方、部屋に戻ると、机の上に書簡が置かれていた。グランツ公爵家の封蝋。
開封する。
『セレナ。先日の返書は受け取った。だが、これは王家を介すような話ではない。帳簿の解読だけでいい。一度だけ戻ってきてくれれば済む話だ。頼む。——アルベルト』
前回より短い。そして——「頼む」の二文字が、前回にはなかった。
(追い詰められている。四半期の報告ができないまま、王家に何と説明しているのだろう)
少しだけ、考えた。
一度だけ戻って、帳簿を解読してやれば、それで済むのかもしれない。アルベルト様の面目は保たれ、領地の混乱も収まる。レオンの生活にも影響が——
(駄目だ)
便箋は出さなかった。
一度戻れば、二度目がある。「やっぱり戻れるじゃないか」と言われる。そしてまた、名前のない七年が始まる。
書簡を折り畳んで、引き出しにしまった。前回の手紙の隣に、重ねて。
(私は、ここにいる)
窓を開けた。潮の匂いがした。遠くで波の音がする。公爵家の窓からは花の香りがしたけれど、あれは私が選んだ花ではなかった。予算を組んで、庭師に指示して、来客のために整えた庭の匂い。
ここの潮風は、誰のためでもない。ただ吹いている。それが良かった。
◇
夜。
市場で買ってきた小さな花を、一輪だけ花瓶に挿した。
白い野花。名前は知らない。市場のおばさんが「これ、丈夫でいい花だよ。水だけで長持ちする」と言って、帳簿用の紙を買ったおまけにくれたものだ。
花瓶は経理室の棚にあった古いもので、ハンネスに「これ使っていいですか」と訊いたら「ああそれ、何に使うかわかんなくて放置してたやつです」と言われた。この屋敷には花瓶の使い道がわからない男しかいないらしい。
白い花を、机の隅に置いた。
(——きれい)
公爵家では、毎週花を飾っていた。来客用の応接間、食堂、廊下、玄関。季節に合わせて花材を選び、花屋に発注し、配置を指示する。それは仕事だった。
自分のために花を飾ったのは、これが初めてかもしれない。
灯りの下で、白い花弁が少しだけ揺れている。窓から入る夜風のせいだ。
ふと、今夜の茶のことを考えた。今夜も置いてあるだろうか。あの人が。
「……あの人は、なぜここまでしてくれるのだろう」
声に出してから、慌てて口を閉じた。誰もいない部屋で、何を言っているのだ。
花瓶の水を少し足して、灯りを消した。
暗闇の中で、潮風の匂いと、微かに残った茶の香りがした。




