表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 覚えていた味


 カモミール、ペパーミント、レモンバーム、林檎の乾燥茶。


 ヴァイス伯爵領に来てから二ヶ月、毎晩経理室に置かれる茶の種類を数えてみたら、一度も同じものがなかった。


 最初は気にしていなかった。温かい茶が机にあること自体がありがたくて、味の違いにまで意識が回らなかった。でも、ある夜からはっきり気づいた。私が前の晩に「今日のお茶、美味しかったです」と誰にともなく呟いた翌日には、必ず同じ銘柄が出る。


 一度だけでなく、何度も。


 ——偶然にしては、出来すぎている。


     ◇


 朝。経理室でハンネスと帳簿の照合をしていた。交易路の通行量が先月比で二割増えている。関税の是正に加えて、海路の代替経路を公示したことが効いた。冬を越せば、さらに伸びるだろう。


「いい数字ですね。このまま行けば三ヶ月後には単年度黒字も見えてくる」


「……すごいな。すごいっすね。セレナ殿が来る前は、帳簿開くたびに胃が痛かったんですよ」


 ハンネスが大袈裟に胸を撫で下ろしている。この人はいつも表情が忙しい。


「ところで、ハンネスさん」


「はい?」


「毎晩、お茶を淹れてくださってありがとうございます。昨日のレモンバームも、この間のカモミールも、とても美味しかったです」


 ハンネスが、首を傾げた。


「……茶? 俺は淹れてませんが」


「え」


「夜の経理室に茶を運ぶ仕事、俺の担当じゃないですよ。使用人にもそんな指示出してないし」


 ペンが止まった。


「では……どなたが」


 ハンネスは一瞬だけ何か言いかけて、やめた。代わりに、少し困ったような笑みを浮かべる。


「さあ。心当たりがあるなら、直接聞いてみたらどうです?」


 心当たり。


 茶を淹れられる人間で、夜遅くまで起きていて、経理室の場所を当然知っていて——


(……まさか)


 ペンを置いて、立ち上がった。


     ◇


 ルーカスの執務室の扉を叩くと、低い声が返った。


「入れ」


 開けると、ルーカスが書類の山に向かっていた。相変わらず壁には地図が貼ってある。領地の地形図と国境線。その横に——何か額装された紙が飾ってあるような気がしたが、今はそれどころではない。


「ヴァイス伯爵。ひとつお伺いしたいことが」


「なんだ」


「毎晩、経理室にお茶を置いてくださっていたのは——」


 ルーカスの手が止まった。


 ペンを置く。顔は上げない。窓のほうに目を向けた。


「……気にするな」


「いえ、あの。気になります。二ヶ月間、毎晩ですから」


「……」


「しかも毎回違う種類で、私が美味しいと言ったものは次の日にも出てきます。銘柄を覚えていらっしゃるとしか——」


「気にするな」


 二度目。声が少しだけ低くなった。


 ルーカスはまだ窓の外を見ている。耳が——気のせいだろうか。耳の先が、ほんの少し赤いような。


(……赤い?)


 いや、日焼けだろう。軍人は日に焼ける。耳も日に焼ける。たぶんそうだ。


「淹れるくらい、たいしたことじゃない」


 ようやく、ルーカスが口を開いた。低い声。窓の外を見たまま。


「夜遅くまで仕事をしている人間がいるなら、茶くらい出す。軍にいた頃もそうしていた」


(ああ——軍の習慣なのか)


 そう思えば納得がいく。夜番の兵士に差し入れをする指揮官、という話は聞いたことがある。


「そうでしたか。ご迷惑をおかけしていたのですね。すみません、遅くまで残って——」


「迷惑じゃない」


 遮るように。短く。


「…………」


 沈黙が落ちた。長い沈黙。窓の外で風が鳴っている。


「……ありがとうございます。ヴァイス伯爵」


「ああ」


 それだけだった。


 執務室を出て、廊下を歩きながら、自分の胸に手を当てた。速い。どうして速いのか、よくわからない。茶を淹れてもらっていただけだ。上司が部下にそうするように。軍の習慣として。それ以上の意味は、ない。


 ——ないはずだ。


(気にするな、と言われたのだから。気にしなくていいのだ)


 自分にそう言い聞かせた。あまり効かなかった。


 経理室に戻ると、机の上の帳簿がそのままだった。ハンネスの分の帳簿も開きっぱなしだ。二人とも途中で席を立ったのだから当然だが、数字が目に入った瞬間、頭が切り替わった。


 仕事がある。仕事をしよう。


 椅子に座り、ペンを取る。数字を追い始めたら、胸の速さは少しだけ収まった。——少しだけ。


     ◇


 夕方、部屋に戻ると、机の上に書簡が置かれていた。グランツ公爵家の封蝋。


 開封する。


『セレナ。先日の返書は受け取った。だが、これは王家を介すような話ではない。帳簿の解読だけでいい。一度だけ戻ってきてくれれば済む話だ。頼む。——アルベルト』


 前回より短い。そして——「頼む」の二文字が、前回にはなかった。


(追い詰められている。四半期の報告ができないまま、王家に何と説明しているのだろう)


 少しだけ、考えた。


 一度だけ戻って、帳簿を解読してやれば、それで済むのかもしれない。アルベルト様の面目は保たれ、領地の混乱も収まる。レオンの生活にも影響が——


(駄目だ)


 便箋は出さなかった。


 一度戻れば、二度目がある。「やっぱり戻れるじゃないか」と言われる。そしてまた、名前のない七年が始まる。


 書簡を折り畳んで、引き出しにしまった。前回の手紙の隣に、重ねて。


(私は、ここにいる)


 窓を開けた。潮の匂いがした。遠くで波の音がする。公爵家の窓からは花の香りがしたけれど、あれは私が選んだ花ではなかった。予算を組んで、庭師に指示して、来客のために整えた庭の匂い。


 ここの潮風は、誰のためでもない。ただ吹いている。それが良かった。


     ◇


 夜。


 市場で買ってきた小さな花を、一輪だけ花瓶に挿した。


 白い野花。名前は知らない。市場のおばさんが「これ、丈夫でいい花だよ。水だけで長持ちする」と言って、帳簿用の紙を買ったおまけにくれたものだ。


 花瓶は経理室の棚にあった古いもので、ハンネスに「これ使っていいですか」と訊いたら「ああそれ、何に使うかわかんなくて放置してたやつです」と言われた。この屋敷には花瓶の使い道がわからない男しかいないらしい。


 白い花を、机の隅に置いた。


(——きれい)


 公爵家では、毎週花を飾っていた。来客用の応接間、食堂、廊下、玄関。季節に合わせて花材を選び、花屋に発注し、配置を指示する。それは仕事だった。


 自分のために花を飾ったのは、これが初めてかもしれない。


 灯りの下で、白い花弁が少しだけ揺れている。窓から入る夜風のせいだ。


 ふと、今夜の茶のことを考えた。今夜も置いてあるだろうか。あの人が。


「……あの人は、なぜここまでしてくれるのだろう」


 声に出してから、慌てて口を閉じた。誰もいない部屋で、何を言っているのだ。


 花瓶の水を少し足して、灯りを消した。


 暗闇の中で、潮風の匂いと、微かに残った茶の香りがした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ