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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ


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第5話 読めない帳簿、揺れる公爵


 帳簿が、読めない。


 グランツ公爵アルベルトは書斎の椅子に座ったまま、三度目の溜息をついた。目の前に開かれた帳簿は、真っ白ではない。うっすらと魔力の紋様が浮かんでいる。文字があるはずの場所に、読めない光の筋が走っている。


 ルーンブックの封印。管理者以外には解読できない帳簿。管理者は——もういない。


「旦那様。やはりセレナ様をお呼び戻しになっては?」


 扉の前にリーリエが立っていた。細い肩に薄い肩掛け。心配そうな顔。


「必要ない」


「ですが、四半期の報告期限が——」


「わかっている。自分で何とかする」


 リーリエは口を閉じた。何か言いたそうな顔のまま、静かに下がっていく。


 机の上には、もう一通の書簡があった。王家の紋章入り。


『グランツ公爵領における本年度第一四半期の収支報告について、期日を過ぎても提出が確認できません。速やかにご説明をお願いいたします』


 アルベルトの手が、止まった。


     ◇


 同じ頃。ヴァイス伯爵領の朝は、パンの焼ける匂いで始まる。


 経理室の窓を開けると、厨房からの煙が風に乗って流れてくる。一ヶ月前に着いた時は潮と風しか感じなかったこの場所に、少しずつ匂いが増えている。パンの匂い。帳簿のインクの匂い。窓辺に置いた小さな鉢植えの、土の匂い。


(馴染んできた、のかもしれない)


 机の上に、一通の書簡が届いていた。


 見覚えのある封蝋。グランツ公爵家の紋章。


 開封する。


『セレナ。公爵家の帳簿が読めず困っている。至急、解読の協力を願いたい。条件は相談に応じる。——アルベルト』


 短い文面だった。相変わらず、用件だけの人だ。「至急」と書いてあるが、この手紙が届くまでに魔法鳥で二日かかる。二日前にはもう困っていたということだ。


(条件は相談に応じる、か)


 七年間、条件を相談されたことは一度もなかった。


 便箋を取り出し、返事を書いた。


『グランツ公爵閣下。お手紙拝受いたしました。離縁が成立しております以上、帳簿の引き継ぎにつきましては王家の仲裁を通じてご依頼ください。私から直接お力添えすることは致しかねます。——セレナ・フォン・フェルゼン』


 旧姓で署名した。七年間使わなかった名前を書くのに、一瞬だけ手が迷った。ペン先が紙の上で止まる。それから、はっきりとした筆跡で「フェルゼン」と書いた。


 署名の墨が乾くのを待って、封をした。


 ——手が、少しだけ震えていた。


 怒りではない。悲しみでもない。ただ、この手紙を書いている自分が、一ヶ月半前の自分とは違う場所にいるのだと実感しただけだ。あの書斎で帳簿を閉じた夜から、まだ四十五日しか経っていない。もっと前のことのように感じる。


 封筒を机の端に置いて、帳簿を開いた。今日の仕事がある。あの人のことを考えている暇は、ない。


     ◇


 午後。ヴァイス領の中央広場に、領民が集まっていた。


 月に一度の領政報告会。ルーカスが領民の前に立ち、今月の施策と成果を報告する——のだが、普段は出席者がまばららしい。ハンネスが「十人来れば多いほうです」と言っていた。


 今日は三十人を超えていた。


「交易路の関税を見直した」


 ルーカスが、いつもの短い言葉で報告を始めた。


「通過税と取引税の二重課税を是正した。結果、先月の商人通行量が前月比で四割増。港の取引高も回復傾向にある」


 領民がざわめく。良い数字だ。一ヶ月で四割増は目に見える変化だ。


「この改革は——」


 ルーカスが、一度言葉を切った。


 私を見た。まっすぐに。


「——セレナ殿の策だ」


 空気が変わった。領民たちの視線が一斉にこちらを向く。


(——え?)


「セレナ殿が帳簿を分析し、改善案を設計した。関税率の試算も、業者の交渉も、海路の代替案も、全て彼女の仕事だ。俺は判子を押しただけだ」


 判子を押しただけ。そんなわけがない。ルーカスは改善案を即決で承認し、領民への説明にも自ら立ち、反対する者には自分で頭を下げに行った。「押しただけ」なんて——


「セレナ様ー! ありがとうございますー!」


 広場の端から声が上がった。


「おかげで市場が賑わってきたよ!」


「うちの旦那が港で仕事もらえたんです!」


「セレナ様、長くいてくださいね!」


 口々に。あちこちから。笑顔で。こちらを見て。


 ——私の名前を呼んでいる。


(……え。あの。ちょっと待ってください)


「い、いえ、あの——当然のことを、しただけで——数字を、整理しただけですので——」


 早口になっていた。目が泳いでいる自覚がある。顔が熱い。手の置き場がわからない。帳簿を持っていれば帳簿を盾にできるのに、今日は手ぶらだ。


 七年間。


 一度も、名前を呼ばれなかった。


 仕事の成果を「我が領地の」と言い換えられ、「公爵夫人が」とすら呼ばれず、帳簿の影で数字を整え続けた七年間。名前なんて、なくても同じだった。


 だから——名前で呼ばれることに慣れていない。褒められることに、慣れていない。


「セレナ殿」


 ルーカスの声がした。低く、短く。


 顔を上げると、ルーカスが少しだけ眉をひそめていた。


(……怒っている? 何か気に障ったかしら。はしゃぎすぎた? いえ、はしゃいでいたのは領民の方で——)


 でも、ルーカスの眉は私に向いていないように見えた。もっと遠くの——私の後ろ側の、何かに向いている気がした。七年分の何かに。


「……よくやった」


 短い一言。それだけ言って、ルーカスは領民のほうに向き直った。外套の裾が風に翻る。背筋の伸びた後ろ姿に、さっきの眉の険しさは残っていない。


 ——よくやった。


 たったそれだけの言葉が、胸の中でやけに大きく響いた。


(……ああ)


 目の奥が、また少しだけ熱くなった。堪えた。広場で泣くわけにはいかない。泣く理由を訊かれても、うまく説明できる気がしない。


 隣にいたハンネスが、何も言わずに白い手巾をそっと差し出してきた。


「……使いません」


「まあまあ。念のため」


 受け取らなかった。でも、ハンネスはしばらくの間、手巾を持ったまま隣に立っていてくれた。


     ◇


 その日の夜。


 グランツ公爵アルベルトの元に、セレナからの返書が届いた。


 封を切り、読み、机に置いた。


 旧姓での署名。「王家の仲裁を通じてご依頼ください」。丁寧で、隙がなくて、完璧に他人の文体。


 しばらく椅子に座ったまま動かなかった。


 やがて立ち上がり、外套に手をかけた。


「——ヴァイス領に行く。馬を用意しろ」


 廊下に声が響いた。返事は、すぐには返ってこなかった。

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