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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第14話 花壇を、また広げる朝


 春の朝の、茶碗の数が、経理室の机の上で、数えきれる範囲を、少しだけ、はみ出していた。


 はみ出した、というのは、数えないことにした、という意味、でもあった。朝のこの時間、わざわざ、茶碗を、指で、ひとつずつ、数える必要は、もう、なかった。数えなくても、それぞれの湯呑みが、それぞれの持ち主のところに、ちゃんと、届くようになっていた。届けるのは、私では、ない。


 扉の向こうから、シャルロットの、朝の挨拶の声が、聞こえてきた。


「オスカーさん、おはようございますっ。ハンネスさん、今朝は、また、早いですね」


「今朝のハンネスさんのは、勘弁してください、鍵、わたしが開けたかったのに、ほんとは」


「あ、ごめんごめん、俺、癖で」


「癖、ですか」


「……癖ですね、たぶん」


 扉の、向こう側の、三人の、朝の、すでに、自然な呼吸。


 一年、この呼吸を、少しずつ、私が、後ろに、下がる形で、育ててきた。下がる、ということは、消える、ではなかった。後ろに回って、扉の向こうの呼吸を、聞いていられる場所に、座り直す、ということだった。──今朝の私の、座り直した場所から、三人の声が、ちょうど、聞きやすい角度で、届いてきていた。


     ◇


 扉を、開けた。


 私のほうから、入る時間。


「おはようございます」


「セレナ様、おはようございますー!」


 ハンネスさんは、今朝も、声色だけは、いつも通り、だった。違ったのは、声の続く長さ、だった。以前より、半分の長さで、ちゃんと、次の用件に、入る。副官時代の、喋り続けていた頃の、あの、軽い冗長さは、もう、ほとんど、ない。必要な分だけを、軽く喋る、という難しい技術を、この人は、いつの間にか、身につけていた。


 机の左の、いちばん端の場所に、いつものレモンバームの茶碗が、置かれていた。


 置いたのは、シャルロットではなかった。今朝は、オスカーさん、だった。並べる順番を、三人で、曜日ごとに、回しているらしかった。──そのことを、私は、先月、廊下で、偶然、耳にした。直接、訊いたわけでは、ない。知らなかったふり、を、しばらく、続けるつもり、だった。


「今日の、前半の締め、もう、半分、わたしが、始めておきました。セレナ様は、最後の一頁だけ、ご確認、いただけますか」


「……助かります」


 シャルロットの机の、いちばん上の頁の、管理者の欄に、彼女の、去年より、もうひと回り、まっすぐになった線の、署名が、入っていた。


 署名の、墨の、乾き方を、見ていた。


 ひと月半前、この子は、正式に、引き継ぎの儀を、受けた。施したのは、ハンネスさんだった。私は、部屋の奥で、立会人の席に、座っていた。去年の夏、ハンネスさんのために、自分で、呼んだ「ひらく」の一言を、今度は、ハンネスさんが、シャルロットに向けて、呼んだ。紋の青は、ハンネスさんの、育てた紋から、シャルロットの、空の冊子のほうへ、途切れずに、渡った。──立会いの方が、「成立」と、低く、告げられた時、私の膝の上の、両手の指が、ほんの少しだけ、震えた。震えは、私自身が、施した去年のあの日の、指の震えと、同じ種類では、なかった。別の種類の、震え方だった。


 今は、その儀の、次の準備が、始まっていた。


 ハンネスさんが、オスカーさんに、施す日取りが、次の夏の終わりに、決まっている。オスカーさんは、自分から、「次は、俺の番で、いいですか」と、春の、ある夜、経理室の扉を叩いて、仰った。わたしは、その夜、シャルロットと、机の向こうで、笑った。笑ったのは、「いいですか」と訊かれたのが、たぶん、自分の役目では、なかったから、だった。


     ◇


 机の端の書簡の束の、いちばん上に、王妃陛下の、個人紋が、あった。


 春の、最初の早便、だった。


『セレナ様へ。


 お子様のお健やかなご成長、何よりに存じます。

 次の秋、東部のブライエン領より、書式のご相談を、ひとつ、お願いしたいと、当方に、問い合わせが来ております。

 ご無理のない範囲で、お返事を、いただけますと、幸甚です。

 どうぞ、お大事に。


       王妃』


 短かった。


 去年の秋の、「次の秋」の、その、次の秋の、一通、だった。


 私は、机の上で、便箋を、開いたまま、しばらく、眺めていた。眺めながら、頭の中で、秋の予定を、並べた。──秋の、ロレンの、月齢。秋の、ヴァイス領の、海路の、状態。秋の、シャルロットの、仕事の、進度。秋の、ルーカス様の、喉の、具合。全部が、並んで、ひとつずつ、「大丈夫」の印が、静かに、ついていく。


 返事を、書いた。


 長くは、書かなかった。


『王妃陛下へ。


 お声がけ、ありがとうございます。

 東部のお話、お受けいたします。

 秋、ヴァイス領より、二日の旅程にて、お伺いいたします。

 どうぞ、お心配りに、心より、お礼申し上げます。


          セレナ・フォン・ヴァイス』


 署名の、ヴァイスの字が、二年前、初めて自分の指で書いた時より、重心が、少しだけ、下に、落ちていた。どっしりとして、字の、いちばん下の線が、紙の上で、ちゃんと、足をついている感じだった。


 墨が、乾くのを、待った。


     ◇


 午前の、遅い時間に、庭に、出た。


 経理室の扉を、閉めるとき、シャルロットが「ごゆっくりー」と、声を、かけてくれた。ハンネスさんは、片手を、軽く、上げた。オスカーさんは、机に向かったまま、頷いた。──いつもの、三人の、いつもの、送り方、だった。


 花壇の、いちばん端に、ルーカス様が、先に、立っておられた。


 シャベルは、今年も、あまり、上手ではなかった。外套を脱いで、腕をまくって、土の、ひとつ目の穴を、開けておられる途中だった。土の、跳ね方が、塹壕のそれと、やっぱり、似ていた。


「……今年は、ここまで」


「ここまで、ですか」


「去年より、半歩ぶん、外、だ」


 半歩分。──ルーカス様が去年の花壇の縁を、指で一度、測ってから、今朝、この位置にシャベルを下ろしてくださった、ということだった。測った、という動作を、私は、見ていなかった。見ていなくても、測った後の線の、位置で、分かる。この人は、いつも、そういう人、だった。


 花壇の、少し離れた、木陰のベンチに、乳母のヘルダさんが、静かに、腰を下ろしていた。腕の中に、柔らかい、白い布に包まれた、小さな体があった。


 ロレン。


 名付けたのは、ルーカス様だった。ヴァイス領の、古い言葉で、「最初の風」、という意味だそうだった。──名付けるのに、三晩、かかった。三晩目の朝、「……ロレン」とだけ、仰った。私は、頷いた。頷いたあと、枕元の紙に、ヴァイス家の名の、下に、その名前を、自分の指で、書き添えた。


 今、ロレンは、眠っていた。


 小さな口の、息の動きが、白い布の胸のあたりで、ほんの少しずつ、上下していた。ヘルダさんは、揺らすでもなく、ただ、抱いておられた。抱き方に、まだ、余計な動きが、ない。──この方の子供の抱き方は、「セレナ様」とか「奥様」とか、そういう呼び名の外側にある、もっと大きな人間の、抱き方、だった。


 私は、膝を、曲げて、花壇の、土の手前に、しゃがんだ。


 しゃがむとき、お腹は、もう、以前のようには、大きくはない。けれど、体の真ん中に、まだ、馴染みの、軽い疲労感が、残っている。疲労感を、自分の指で、一度、確かめてから、土に、手を、下ろした。


 苗の袋を、開けた。


 白い花の苗。今年も、市場のおばさんが、「今年は、もっと育ったよ」と、昨日、家の門先まで、自分で運んでくださった。袋から、最初の一本を、抜いた。根の下の、黒い土の粒が、手袋の、指の先に、ついた。


 ルーカス様が、シャベルを、一度、止めて、こちらを、見ていた。


「……セレナ」


「はい」


「──よく、やった」


 短かった。


 短かったけれど、今朝のこの「よく、やった」は、いつもの、あの「よく、やった」と、同じ重さ、だった。最初に、広場で仰ってくださった日。二年前、二度目の花壇の朝に、仰ってくださった日。──全部、同じ声の、重さ。


 私は、苗を、穴に、下ろした。土を、上から、被せた。水を、やる前に、一度、顔を、上げた。上げた視線の、いちばん端に、ルーカス様の、土のついた、大きな手が、あった。私は、自分の、土のついた手を、その手の、上に、そっと、乗せた。二人の、手の甲の、土の粒の、色が、同じだった。


 指のあいだで、小さな砂粒が、鳴った。


 鳴った音は、二年前の、あの朝と、ほとんど、同じ音、だった。


     ◇


 昼前、家のほうから、マリーカ様の、遠い声が、聞こえた。


「セレナ様ー、ロレンちゃんのお昼寝時間、あと、ちょっとだけで、終わりますよー」


「……分かりました」


「ヴァイス領のお茶、今日も、渋みが、ないですねー」


 去年の春と、同じ台詞、だった。


 いえ、去年の春の、前の年と、同じ台詞、でもあった。台詞が、同じであることを、今年も、マリーカ様は、気にしておられなかった。気にしないのが、この方の、優しさの、かたち、だった。


 シャルロットが、新しい、温かいお茶を、盆に載せて、庭に、運んできた。


「ハンネスさんの分も、作りました。オスカーさんは、自分で持ってきますって」


「ありがとう、シャルロットさん」


 シャルロットは、花壇の、まだ、何も植えていない端のところに、盆を、静かに、置いた。それから、少しだけ、屈んで、ロレンの、眠っている顔のほうを、一度、見た。見てから、ほんの少しだけ、自分の、頬を、緩ませた。その緩ませ方が、一年前の、経理室の朝の、緊張の残り方を、もう、持っていなかった。


     ◇


 昼、ロレンが、目を、覚ました。


 ヘルダさんの腕の中で、小さな声を、上げた。泣き声ではなかった。「おはよう」の、音の、こちらの解釈、だった。私は、手袋を外して、土の匂いのする指を、一度、エプロンで、拭いた。拭いてから、ヘルダさんから、ロレンを、預かった。軽い、けれど、確かな、重さ、だった。


 家の奥に、レオンからの、先週届いた手紙が、まだ、机の上に、開いたまま、置いてあった。


 読み返しに、戻った。


『おかあさま、ルーカス様、ロレンへ。


 お手紙、ありがとうございました。

 ロレンの、はじめての、笑い声のお話、何度も、読み返しました。

 来月、監査官と一緒に、ヴァイス領に、うかがいます。

 ぼくの、木剣、ちゃんと、磨いてきます。ロレンは、まだ、持てない大きさだけれど、「もうすぐ、おにいちゃんに、なります」って、伝えて、ください。


 ──こんどは、ぼくが、おかあさまに、本を、読みに行きます。


          レオン』


 最後の、一行の上で、指が、止まった。


 止まったまま、しばらく、動かなかった。


 あの頃、この子が、まだ七歳のころ、私は、寝る前の一時間だけ、この子に、本を、読んでいた。一日のうちで、唯一の、楽しい時間、だった。──それを、この子は、覚えていた。覚えていて、十歳になった今、逆の方向から、私のところへ、来る、と、書いてくれていた。


 渡して、広げていったものが、違う道から、自分のほうへ、戻ってくる朝があることを、あの頃の私は、知らなかった。


     ◇


 午後、ルーカス様と、二人で、花壇の、残りの苗を、植え終えた。


 ロレンは、庭の木陰の、ヘルダさんの腕の中で、また、眠っていた。シャルロットとハンネスさんとオスカーさんは、経理室のほうで、笑いながら何かを話しているのが、遠くから、届いてきた。マリーカ様は、王都への馬車の時間に間に合うように、昼過ぎに、軽くお辞儀だけされて、発たれた。


 最後の一本の苗に水をやり終えた時、私は立ち上がって、庭の真ん中あたりから、屋敷の全部を、一度、見た。


 広場の、石畳の、端の苔。経理室の、細く開いた窓。執務室の、地図の前の、誰も立っていない位置。子供部屋の、壁に、飾られた、レオンから送られてきた、小さな木剣。木陰の、ロレンの、小さな白い布。花壇の、苗の、増えたぶんの、縁。


 ──全部、私の、居場所、だった。


 「私の、居場所は、私が、決めます」と、二年半前、ある冬の夜、口にした。今は、その言葉の、続きの、朝に、立っていた。


 役目は、終わるものでは、なかった。


 渡して、広げて、そして──戻ってくるもの、でした。


 指のあいだで、まだ、土の、乾いていない粒が、かすかに、鳴っていた。ルーカス様の、土のついた手の、硬い手のひらが、私の手の、甲の上に、もう一度、重なった。


 春の、風が、ヴァイス領の、白い花壇の、新しい苗の上を、いちばん、最初に、通っていった。


 ──ロレン、という、名前の、風、だった。

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