第4話 赤字の交易路に、風が吹く
ヴァイス伯爵領は、思っていたより風が強かった。
馬車を降りた瞬間、髪が顔に張りつく。潮の匂いが混じっている。辺境の交易路要衝——海に近い。山道と港を繋ぐ峠の上に、領主の館が建っている。
館そのものは質素だった。石壁は頑丈だが装飾がない。軍人の家だ、と一目で分かる。花壇はあるが、何も植わっていない。土だけが黒々と湿っている。
ルーカスが馬車の扉を開けてくれた。無言で手を差し出す。
「……ありがとうございます」
手を取った。硬い手のひらだった。剣の柄を握り慣れた手。帳簿のページで指を切ったことがなさそうな手だ。
「経理室は奥だ。案内する」
館の中は、外観と同じく簡素だった。廊下に絨毯はない。壁に肖像画もない。だが床は磨かれているし、窓は綺麗だ。掃除はされている。ただ、飾るものがないのだ。
経理室の扉を開けた瞬間、私は立ち止まった。
帳簿が、山になっていた。
机の上、棚の上、床の上。未整理の伝票が箱に入ったまま積まれ、領収書の束が紐で雑に括られている。棚の帳簿は年度順ではなく、分厚い順に並んでいた。分厚い順。
「……分厚い順」
「あ、それ俺がやりました。すみません」
奥から声がした。三十半ばの男が、伝票の山の向こうから顔を出す。人懐っこい笑顔。
「ハンネスです。副官やってます。帳簿は——正直、お手上げです」
ルーカスの幼馴染で副官。書簡に名前が書いてあった。ルーカスよりだいぶ喋る人らしい。
「やっと数字がわかる人が来てくれた……。いや本当に。俺も伯爵も数字見ると頭痛くなるんです。帳簿つけるたびに、なんでこの世には足し算があるんだろうって」
「ハンネス」
ルーカスが一言で黙らせた。
私は、帳簿の山を見回した。
——ひどい。公爵家の経理室とは比べものにならない。棚の分類体系が存在しない。仕訳の基準が年によって違う。伝票の保管期限も守られていない。
でも。
(……ああ。これは)
笑ってしまった。
「え。笑うところですか?」ハンネスが怯えた顔をした。
「いいえ。——ここは宝の山ですから」
◇
三時間で、全体像が見えた。
経理室の床に帳簿を年度順に並べ直し、伝票を仕訳ごとに分類した。ハンネスに手伝わせた。彼は数字は苦手だが、言われたことは正確にやる。軍人の部下としては優秀な人だろう。帳簿の部下としても、教えれば使える。
赤字の原因は三つ。
第一に、交易路の関税設計が間違っている。先日ルーカスの帳簿で指摘した通り、通過税と取引税の二重課税。これを是正するだけで商人の通行量が増える。
第二に、中間業者が利益を抜きすぎている。港から市場への輸送を任せている業者の手数料が、相場の二倍。業者を変えるか、直接取引に切り替える。
第三に、仕入れルートが脆弱すぎる。冬季に閉鎖される山道一本に依存している。海路の代替経路を確保すれば、年間を通じて安定する。
改善案をまとめ、ルーカスの執務室に持っていった。
机の上は意外と片付いていた。書類は少ない。そもそも経営の書類がないから片付いて見えるだけかもしれないが。壁には地図が貼ってある。領地の地形図と、周辺国との国境線。こちらは精密に描き込まれていた。軍人の部屋だ。
「ヴァイス伯爵。改善案をまとめました。ご確認いただけますか」
書類を差し出した。ルーカスは受け取り、目を通し——すぐに置いた。
「それでいい。任せる」
「……ご確認いただかなくてよろしいのですか?」
公爵家では、どんな些細な提案でもアルベルト様の承認が必要だった。承認がなければ一歩も動けない。その代わり、手柄は全部アルベルト様のものになる。
「確認した」
「いえ、あの、今ほとんど読んでおられなかったような——」
「数字を見てもわからん」
あまりにも正直な返答に、言葉が詰まった。
「お前が正しいと言うなら、正しい」
——お前。
さっきまで「セレナ殿」だったのに。たぶん、素が出たのだろう。軍人同士の会話なら「お前」が普通なのかもしれない。深い意味はない。ないはずだ。
それでも、その一言が胸のどこかに引っかかった。
正しいと言うなら、正しい。判断を、そのまま信じる。確認も、注文も、横取りもしない。
(……こういうのを、なんと言うのだったか)
信頼。たぶん、信頼と呼ぶのだ。
七年ぶりに聞いた気がする言葉だった。
◇
深夜。経理室の灯りは私だけ。
改善案の詳細をルーンブックに落とし込んでいた。関税率の試算、業者の比較表、海路の距離と日数と費用の概算。数字を書いていると時間が溶ける。公爵家でもそうだった。帳簿を開くと、朝まで止まれなくなる。
ふと、机の端に温かい茶碗が置かれていることに気づいた。
湯気が立っている。——いつの間に?
顔を上げたが、誰もいない。扉が静かに閉まる音がした気がする。
(ハンネスさんが気を利かせてくれたのかしら)
茶を一口飲んだ。カモミールだった。穏やかで、少し甘い。疲れた体に染み渡る。
もう一口。
(……おいしい)
誰が淹れてくれたにせよ、ありがたかった。公爵家では、深夜の私に茶を持ってきてくれる人はいなかった。誰も私が起きていることを知らなかった。——知ろうとしなかった。
茶碗を両手で包む。指先に温度が伝わる。なんだか泣きたくなったが、泣かなかった。泣く理由がわからなかったから。
茶碗を置いて、ペンを取り直した。まだ仕事がある。
◇
朝日で目が覚めた。
経理室の机に突っ伏して眠っていたらしい。首が痛い。頬に帳簿の跡がついている。それは別にいい。
問題は、肩に毛布がかかっていたことだ。
厚手の、軍用の毛布。柔らかくはないが温かい。使い込まれた手触り。知らない匂いがする。インクでも紙でもない、何か——風と、かすかに金属の匂い。剣の匂いだろうか。
(ハンネスさんが……いや、使用人の方かしら)
毛布を畳みながら、扉が開いた。ハンネスが顔を出す。
「お、もう起きてた。朝飯できてますよ。食堂こっちです」
「ハンネスさん、これは——」
毛布を掲げてみせた。ハンネスは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ああ、それ。まあ、誰かが気を利かせたんでしょう。この屋敷、優しい人多いですから」
それ以上は何も言わなかった。代わりに、少し声を落として。
「……セレナ殿。伯爵があなたを迎えに行った日——あの人、帰ってきてから少しだけ笑ってたんですよ」
「はい?」
「笑うんですよ、あの人。めったにないんですが。子爵家から帰ってきた晩に、一人で執務室にいて、ちょっとだけ口元が緩んでたの、俺見ちゃって」
ハンネスは肩をすくめた。
「あの人が笑うの、久しぶりに見ました。それだけです。さ、朝飯朝飯」
さっさと廊下を歩いていく背中を見送って、私は毛布を抱えたまま、しばらく動けなかった。
窓の外で、風が吹いている。潮の匂い。朝日が経理室の帳簿の山を照らしている。
——ここなら、やれる。
毛布を丁寧に畳んで、椅子の背にかけた。




