第3話 八年越しの帳簿
「八年前の答えを聞きに来た——というのは冗談で」
玄関先に立っていたのは、かつて縁談を断った伯爵だった。
ルーカス・フォン・ヴァイス。八年前より背が伸びた気がするのは、姿勢のせいだろう。軍人の背筋。日に焼けた肌。目の下に薄い隈がある。あの頃はなかった。
「……仕事の相談がある」
それだけ言って、黙った。
相変わらず言葉が少ない人だ。八年前の縁談の席でも、ほとんど喋らなかった。緊張していたのかもしれないし、ただ喋るのが苦手だっただけかもしれない。当時の私にはどちらでもよかった。公爵家からの縁談を選んだのは私自身だ。
「……お久しぶりでございます、ヴァイス伯爵。どうぞ、お上がりください」
父が奥から「おお、来たか」と嬉しそうに顔を出した。露骨に嬉しそうだった。お父様、少し隠してください。
◇
応接間のテーブルに、ルーカスが帳簿を置いた。
古い革表紙。角が擦り切れている。ルーンブックの封印はかかっていない——かけられる人間がいなかったのだろう。頁をめくると、数字が剥き出しのまま並んでいた。無防備な帳簿。
「領地の経営が立ち行かない。見てほしい」
それだけ。前置きも言い訳もない。
(……正直な人だ)
アルベルト様なら「いくつか気になる点がありまして」と婉曲に切り出しただろう。この人は、駄目だから見てくれ、と真正面から言う。
帳簿を開いた。
——ひどい、というのが正直な感想だった。
いや、数字自体は嘘をついていない。記帳も丁寧だ。字が大きくて少し不揃いなのは、たぶん剣を握る手でペンを持っているからで、それは仕方がない。
問題は構造だった。
交易路の関税率がおかしい。通過税と取引税が二重にかかっている箇所がある。中間業者への手数料が相場の倍。仕入れルートが一本しかなく、その一本が季節によって途切れる。
「ヴァイス伯爵。ここの数字、おかしいですね」
指で押さえた。関税の欄。
「……どこが」
「通過税と取引税が重複しています。これでは商人が寄りつきません。それと、この仕入れルート——冬季に山道が閉鎖される地域を通っていませんか?」
ルーカスの目が、一瞬だけ見開かれた。
「……わかるのか。一目で」
「帳簿は嘘をつきませんので」
ぱらぱらと頁をめくっていく。途中で、ある頁の角に小さな折り目がついているのに気づいた。古い折り目。紙の色が少し変わっている。
(ずいぶん前からある折り目ね。この帳簿、いつのものかしら)
気にはなったが、今は中身のほうが重要だった。
交易路のデータ。港の取引量。年ごとの推移。——ああ、見えてきた。この領地は、正しく運営すれば黒字になる。それも、かなり。
「この領地は——」
口が先に動いていた。
「——もったいない」
言ってから、しまった、と思った。失礼な物言いだ。だがルーカスは怒らなかった。むしろ、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。見間違いかもしれない。
「それで」
ルーカスが鞄からもう一通の書類を出した。便箋ではない。厚手の契約用紙だ。
「経営顧問として、正式に雇いたい。報酬はここに。契約期間は半年。更新は双方合意の上。解約はいつでもできる」
契約書を受け取った。目を通す。
報酬は十分な額だった。子爵家の令嬢が自立して暮らせるだけの月給。住居の提供。経営判断の裁量権。そして——
「……『顧問の提案を尊重し、手柄を横取りしない』」
思わず声に出して読んでしまった。
顔を上げると、ルーカスは窓の外を見ていた。
「当たり前のことしか書いていない」
当たり前のこと。
(——そうだ。当たり前のことだ。当たり前のことを、七年間してもらえなかっただけで)
目の奥が、少しだけ熱くなった。堪えた。ここで泣くわけにはいかない。仕事の話なのだから。
「……ありがとうございます。少し、考えさせてください」
「ああ」
ルーカスは頷いた。それだけだった。急かさない。念を押さない。
この人は、待てる人なのだ。八年前もそうだった。断られた後、一度も追いかけてこなかった。
◇
ルーカスが帰った直後に、別の来客があった。
グランツ公爵領の商人が三名。顔見知りだった。毛織物のベルンハルト、香辛料のフリーダ、木材のオットー。いずれも私が直接取引を取りまとめてきた相手だ。
「奥様——いえ、セレナ様。突然の訪問をお許しください」
ベルンハルトが帽子を取った。後ろの二人も深々と頭を下げる。
「公爵家との取引を、見直したいのです」
「見直す?」
「契約の窓口が変わってから——いえ、正確には窓口がいなくなってから、話が通じなくなりまして。納品の確認も、支払いの手続きも、どこに聞けばいいのか」
フリーダが続けた。
「私どもの取引は、セレナ様との信頼で成り立っておりました。公爵家の名前ではなく」
(——そう、だったのか)
知っていたつもりだった。でも、面と向かって言われると、胸の奥で何かが軋む。
「お気持ちはありがたいのですが、私はもうグランツ家の人間ではございません。取引のお力にはなれません」
「承知しております。ただ——セレナ様が今後、どちらかの領地でお仕事をされるのであれば」
三人の目が、テーブルの上に置かれたままのルーカスの帳簿に向いた。
「……ご紹介いただけないものかと」
商人の嗅覚だ。新しい取引先の匂いを嗅ぎつけている。
断るべきだろうか。まだ契約書にサインもしていないのに。
「——まだ何も決まっておりません」
そう答えるのが精一杯だった。
◇
夜。自室の机に、ルーカスの帳簿と契約書が並んでいる。
帳簿をもう一度開いた。あの折り目のある頁。交易路のデータが並んでいる。ここを起点に改革すれば、半年で黒字化できる。いや、商人たちの人脈を活かせば、もっと早いかもしれない。
頭の中で数字が動き始めていた。関税の是正案。仕入れルートの複線化。冬季の代替経路。
——駄目だ。まだ契約していないのに、もう頭が勝手に仕事を始めている。
契約書に目を落とす。「手柄を横取りしない」の一文が、燭台の灯りの下で静かに光っていた。
(信じても、いいのだろうか)
七年間、信じて裏切られた。だから怖い。能力を求められるのは構わない。でも、また「利用されるだけ」だったら。
帳簿に手を伸ばした。頁をめくる。数字を追う。——ああ、駄目だ。やっぱり面白い。この領地の可能性が見え始めると、止まれない。
私は結局、帳簿がないと生きていけない人間なのだ。
「……ヴァイス伯爵」
いない相手に向かって呟いた。
「全帳簿を見せていただけますか。少しだけ——少しだけ、見せていただければ」
少しだけ、が少しだけで終わらないことは、自分が一番よく分かっていた。




