第2話 空の台所、満ちた実家
実家の門は、思ったより小さかった。
グランツ公爵家の門が馬車三台分の幅があったのに対して、フェルゼン子爵家のそれは馬車一台がやっと通れる程度。石壁の表面には蔦が絡まり、門柱の角が少し欠けている。
——こんなに小さかっただろうか。
いや、違う。私の目が公爵家仕様になっていただけだ。ここはもともと、こういう家だった。蔦が絡まるのを「風情がある」と言って放置する、そういう家。
「セレナ」
門の内側に、父が立っていた。
エルヴィン・フォン・フェルゼン。白髪が増えた。腰も少し曲がったように見える。——七年は、私だけでなくこの人からも時間を奪っていたのだ。
父は鞄を持つ私の姿を上から下まで見て、一瞬だけ顔を歪めた。それから、いつもの穏やかな表情に戻る。
「帰ってきてくれたか」
ただ、それだけ。なぜ、とも、何があった、とも訊かない。
「……ただいま戻りました。お父様」
声が震えそうになった。堪えた。公爵家の玄関では完璧に微笑んで出てきたのに、実家の門で崩れかけるなんて。
「台所に来い。お前の好きなスープ、まだ作れるぞ」
父は踵を返して、さっさと歩き出した。
ついていく。台所に入ると、鍋がもう火にかかっていた。カブと玉ねぎのスープ。子供の頃、風邪を引くたびに父が作ってくれたやつだ。母が亡くなってから、父はこれしか作れない。
(……待っていてくれたのだ。鍋を火にかけて)
いつから待っていたのかは、訊かなかった。
◇
荷解きは、すぐに終わった。
当たり前だ。鞄ひとつしかない。ルーンブックの管理道具、ペン、硯箱。七年間の結婚生活の持ち物がこれだけだと思うと、笑えるような、笑えないような。
旧部屋はきれいに掃除されていた。寝台のシーツも新しい。窓際の本棚には、嫁ぐ前に読んでいた本がそのまま並んでいる。背表紙の色が少し褪せていた。七年分の日焼け。
一冊抜いてみる。冒険譚。十七歳の私が夢中になっていた本だった。ぱらぱらとめくると、栞が挟まったまま残っていた。嫁ぐ日の朝、読みかけで止めたページ。
続きが気にならないわけではない。でも今は文字が頭に入ってこなかった。本を戻す。
——さて。
座って、手持ち無沙汰になった。
公爵家では、こんな時間はなかった。朝は帳簿の確認、昼は商人との打ち合わせ、午後は社交の準備、夜は翌日の献立と使用人のシフト表。レオンの宿題を見るのは寝る前の一時間だけで、それが一日の中で唯一の「楽しい時間」だった。
レオン。
元気にしているだろうか。朝ごはんはちゃんと食べただろうか。——いけない。もう考えても仕方がないのだ。あの子には、あの子の母親がいる。
今、何もない。
何もないことが、こんなに落ち着かないとは知らなかった。
結局、机の上にルーンブックの道具を並べてしまった。使う帳簿もないのに。ペンを置く角度を整え、硯箱の位置を微調整する。やっていることが馬鹿みたいだと分かっているのに、手が止まらない。
(私、帳簿がないと何もできない人間になっていたのか)
七年間、自分のために使った時間がどれだけあっただろう。
——思い出せない。
窓の外で、鳥が鳴いている。聞き覚えのある声だ。子供の頃はこの声で目を覚ましていた。公爵家の朝は、使用人の足音で始まる。ここは鳥の声で始まる。
それだけのことが、少しだけ嬉しかった。
◇
同じ頃。グランツ公爵家の台所は、静まり返っていた。
正確には、静まり返っていたのではなく、止まっていた。
「今朝の献立は?」
料理長が台所の入り口に立ったまま、使用人たちを見回す。誰も答えない。奥様からの指示書が、今朝は届いていない。昨日も届かなかった。
「旦那様にお伺いを——」
「旦那様は『いつも通りにしろ』と仰っただけです」
いつも通り。その「いつも通り」を毎朝組み立てていたのが誰だったか、この台所の全員が今さらのように思い知っていた。
昼前に、リーリエ・メルツが台所に姿を見せた。
「わたくしがお手伝いしますわ。献立くらい、どうにかなりましょう?」
薄い微笑み。使用人たちが顔を見合わせる。料理長が黙って食材庫の在庫表を差し出した。リーリエはそれを受け取り、目を通し——しばらく動かなかった。
在庫表に並ぶ数字の意味が、分からなかったのだ。
夕方、屋敷の奥から先代公爵夫人マルガレーテの声が響いた。
「たかが献立ひとつ決められないの? この屋敷の者は何をしているの」
誰も、何も言い返さなかった。
◇
三日後の朝。
父が淹れてくれた茶を飲みながら、手紙を開いた。差出人の名はない。だが筆跡に見覚えがあった。公爵家で一番長く仕えていた侍女——あの、廊下ですれ違った彼女だ。
『奥様。失礼を承知でお手紙をお送りいたします。お屋敷が止まっております。献立も、仕入れも、使用人の当番表も、何もかも。リーリエ様が采配を振ろうとなさいましたが、在庫表の読み方をご存じなく——』
手紙はそこで丁寧語に戻り、くどくどと屋敷の現状が綴られていた。最後に『どうか、お戻りくださいませ』の一行。
手紙を折り畳む。
(……そうでしょうね)
少しだけ、笑った。意地悪な笑いではないと思う。たぶん。
在庫表が読めない。そうだろう。あれは私が独自に組んだ書式だった。品目コードの振り方、季節ごとの仕入れ先の優先順位、産地別の品質ランク。全部私の頭の中にある体系を帳面に落としたもので、引き継ぎなしに読めるようには作っていない。
——作る必要がなかったから。誰にも引き継ぐつもりがなかったから。
いや、違うか。引き継ぐ相手がいなかったのだ。
私がいなくなれば、ああなる。分かっていた。分かっていて、出てきた。だから今さら驚きはしない。
ただ——「お戻りください」の一行が、小さな棘のように引っかかった。
(戻れると思いますか。戻りたいと思いますか。——いいえ。もう、あそこに私の居場所はない)
手紙を引き出しにしまった。返事は、書かない。
「セレナ」
父が書斎に顔を出した。手に封筒を持っている。
「そういえば、昨日これが届いていてな。ヴァイス伯爵から書簡が来ている」
「……ヴァイス伯爵?」
八年前に断った縁談の、あの伯爵。
父は封筒をひらひらと振って、意味ありげに笑った。
「まあ、読んでみなさい。悪い話ではないと思うぞ」
茶が少し冷めていた。窓の外で、また鳥が鳴いている。
手紙を二通も受け取る朝になるとは、思っていなかった。




