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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ


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第10話 花を植える朝


 ヴァイス伯爵領の朝は、焼きたてのパンの匂いがする。


 市場通りにまでパンの匂いが届くようになったのは、ここ数ヶ月のことだ。交易路が復活して小麦の仕入れが安定したおかげで、新しいパン屋が開いた。朝七時には行列ができる。領民が行列を作れるということは、朝に余裕があるということだ。余裕があるということは、暮らしが回っているということだ。


 帳簿の数字で見れば、ヴァイス伯爵領は昨年度で単年度黒字を達成している。交易路の通行量は改革前の三倍。港の取引高は過去最高。中間業者を整理し、直接取引に切り替えた結果、利益率も大幅に改善した。


 ——数字で見なくても、朝のパンの匂いで分かるのだけれど。


 経理室の窓を開けた。潮風が入ってくる。机の上には今日の帳簿。花瓶には先週ハンネスが「市場で安かったんで」と持ってきた黄色い花。


 一年前の私は、公爵家の書斎で白い帳簿を閉じていた。


 今の私は、この窓を開けている。


     ◇


 昼前に、ルーカスの執務室を訪ねた。


 交易路の拡張計画の最終案を持っていく。三期目の予算書。海路の増便スケジュール。来年度の目標値。——仕事の話だ。仕事の話をしにきたのだ。


 扉を叩くと、「入れ」の声がした。


 執務室は半年前と変わらない。壁の地図。最小限の書類。ただ、一つだけ変わっていたものがある。


 壁に額装された紙。ずっと前からあったのに、中身を確認したことがなかった。今日、初めてちゃんと見た。


 ——私の字だった。


 最初の報告書。ヴァイス領に着いて三日目に提出した、交易路の分析レポート。数字がびっしり並んだ、飾り気のない報告書。あれが額に入って、壁に飾られている。


「……ルーカス様。あれは」


「ああ」


「あれ、いつから……」


「最初からだ」


 最初から。私がこの領地に来た日から。


(この人は——)


 予算書を机に置いた。


「ルーカス様」


「なんだ」


「半年前のお返事を、してもいいですか」


 ルーカスのペンが止まった。


「……ああ」


「はい」


 一言。それだけ。


 ルーカスは顔を上げた。私を見た。しばらく黙っていた。——それから。


「……遅い」


 目が細くなった。口の端が上がった。笑っていた。この人が、笑っていた。ハンネスが「久しぶりに見た」と言っていた、あの表情。不器用で、ぎこちなくて、でも確かに笑顔だった。


(ああ——この顔を、もっと早く見たかった)


「九年、待たせてしまいました」


「……待つのは慣れている。言っただろう」


 ルーカスが立ち上がった。机を回り込んで、私の前に立つ。


 大きな手が、私の手を取った。指を絡めるように。あの夕暮れの執務室と同じ握り方。でも今度は涙の代わりに、予算書のインクが指についていた。


「……仕事中ですが」


「ああ」


 手を離さなかった。私も離さなかった。


 しばらくそのまま立っていた。窓から潮風が入ってくる。机の上に広げた拡張計画の紙がめくれる。ルーカスの手が温かい。


「……計画書、見てくださいますか」


「見てもわからん」


「知ってます」


 笑ってしまった。自分でも驚くくらい、軽い笑い声だった。


     ◇


 部屋に戻ると、机の上に小さな封筒が置いてあった。


 宛名の字が歪んでいる。子供の字だ。


『おかあさまへ』


 心臓が跳ねた。


 封を切る。中には便箋が一枚。大きな字で、ところどころインクが滲んでいる。


『おかあさま。おげんきですか。ぼくはげんきです。じはまだうまくかけません。


 おかあさまがいなくなってから、おやしきがかわりました。あさごはんがまえとちがいます。おにわのはなも、まえとちがいます。


 まえのほうがよかったです。


 ぼくのおかあさまは、あなただけです。


 あいたいです。


            レオン』


 便箋を胸に当てた。


(——ありがとう、レオン)


 目を閉じた。泣かなかった。泣く代わりに、笑った。あの子は元気だ。字を覚えて、手紙を書けるようになった。それだけで十分だ。


 いつか、会いに行こう。あの子が望むなら。


 便箋を丁寧に折り畳んで、引き出しにしまった。アルベルト様の手紙があった場所に、レオンの手紙を重ねて。


     ◇


 同じ頃。


 グランツ公爵家の書斎は、かつてより暗かった。


 窓の掃除をする使用人が減ったのだ。残った者も最低限の仕事しかしない。指示を出す人間がいない。指示の出し方を知っている人間が、もういない。


 アルベルトは書斎の棚を整理していた。王家から派遣された監査官に提出する資料を探すためだ。棚の奥から、古い帳簿の束が出てきた。


 ルーンブックの封印はとうに解除されていた。王家の手続きを経て、形式上の引き継ぎが行われたからだ。中身は読める。


 開いてみた。


 一頁目から、びっしりと数字が並んでいた。


 セレナの筆跡。細かく、正確で、一画の乱れもない。頁をめくる。どの頁も同じだ。交易路の収支。商人との契約。仕入れ先の比較表。季節ごとの変動分析。贈答品の予算。使用人の給与計算。


 七年分。


 何千頁という数字の群れが、同じ筆跡で、同じ精度で、途切れることなく続いている。


 いつ書いたのだろう。日中は社交界の準備やレオンの世話をしていたはずだ。夜だ。毎晩、誰もいない書斎で、一人で。


 ——七年間。


 アルベルトは帳簿を持ったまま、しばらく動けなかった。


     ◇


 夕方。


 ヴァイス伯爵領の庭に、土を掘る音がしていた。


 私は膝をついて、花の苗を植えていた。白い花。あの夜、扉の前に置かれていた花と同じ種類のもの。市場のおばさんに品種を訊いたら「丈夫でいい花だよ」と笑われた。苗を五つ買った。


 隣にルーカスが立っている。外套を脱いで、腕まくりをしている。シャベルを持っているが、使い方がぎこちない。剣のほうがよほど手に馴染むのだろう。


「そこ、もう少し深く掘ってください」


「……これくらいか」


「もう少し」


「……」


「ルーカス様、穴を掘るのはお上手ではないですね」


「塹壕なら掘れる」


「花壇には塹壕の深さは要りません」


 ルーカスが黙ってシャベルを動かした。不器用な手つき。でも、言われた通りにやる。この人はいつもそうだ。


 苗を穴に入れて、土を被せた。水をやる。白い花弁が夕日に透けている。


「……また増えたのか」


「ええ。増えました」


 立ち上がって、土のついた手を払った。庭を見渡す。半年前、ここには何もなかった。黒い土だけが湿っていた花壇。今は白い花が五つ、夕風に揺れている。


「これは——」


 息を吸った。潮の匂い。土の匂い。花の匂い。


「——私の庭ですから」


 ルーカスが隣にいた。何も言わなかった。ただ、泥のついた手で、私の手を取った。


 夕日が沈んでいく。明日の朝にはまた、焼きたてのパンの匂いがするだろう。経理室の窓を開けて、帳簿を広げて、この人が淹れた茶を飲む。


 そういう朝が、これからずっと続く。


 それだけで、十分だった。

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