第1話 役目は終わりですね
「ねえ、お母様。ぼく、本当のお母様に会いたい」
寝台の上で、レオンが言った。
七歳の柔らかい頬。まだ乳歯が一本だけ残っている口元。私が毎晩読み聞かせをして、毎朝髪を梳いて、熱を出せば夜通し額を冷やしてきた──この子が。
「……本当の、お母様」
繰り返した自分の声が、他人のように平坦だった。
レオンは悪くない。この子はただ、誰かに吹き込まれたのだ。誰に、とは考えない。考えなくても分かっている。
「レオン。お母様は少し用事があるの。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、お母様」
その呼び方が、もうすぐ聞けなくなる。
(──ああ、潮時だ)
寝室の扉を閉めた瞬間、涙が出るかと思った。出なかった。涙の出し方を、いつの間にか忘れていたらしい。
覚悟は、とうに決まっていた。
この屋敷に嫁いできた朝から──いいえ、それよりずっと前から。ただ、手放す理由がなかっただけだ。
理由が、今夜できた。
◇
深夜の書斎は冷えている。
インクの匂いが薄く漂う。七年間、毎晩ここで帳簿を開いた。旦那様が寝室に戻らない夜も──戻らない夜のほうがずっと多かったけれど──私にはこの匂いがあった。
燭台の灯りだけを頼りに、棚から帳簿を降ろす。一冊、二冊、三冊。最初の年から順に、七年分。
背表紙に触れると、微かに魔力紋が光った。私の指だけに応える、ルーンブックの封印。この光が消えたら、もう誰もこの帳簿を開けない。
(よく働いた)
労っているのは自分自身ではない。この帳簿たちに、だ。
交易路の収支、商人との契約条件、使用人の給与体系、社交界の贈答品の予算。この屋敷が回る仕組みの全部が、この棚に詰まっていた。
全部、私が作った。
旦那様が宮廷で「我が領地は順調でして」と笑うたび、その数字を整えたのは私だった。隣国との通商交渉で使った資料も、夜会の招待客の席順表も、全部。旦那様はそれを知っていたはずだ。知っていて、一度も名前を出さなかった。
(まあ、いいのだけれど)
いいのだ。もう。
鞄に入れたのは、自分のルーンブック管理道具と、ペンと、母から譲り受けた硯箱だけ。帳簿そのものは一冊も持ち出さない。持ち出す必要がない。
財産分与の請求も、しない。手切れ金をもらって去る妻になるつもりはなかった。
最後の帳簿を棚に戻し、扉を閉める。魔力紋がすうっと消えた。
今期の四半期決算は来月だ。引き継ぎの儀は──求められていないので、行わない。
求められなかったのだから、仕方ない。
◇
翌朝。
旦那様の執務室は、いつも通り日当たりが良かった。陽光の中に埃が舞っている。掃除の指示を出すのも、今日が最後になる。
いや、もう出さなくていい。
「セレナ? どうした、朝から改まって」
旦那様は書類から顔を上げた。穏やかな笑顔。外交の場で人を惹きつけるあの笑顔が、今は私に向いている。
(この笑顔を信じていた時期もあった。遠い昔の話だ)
「お時間をいただき、ありがとうございます。旦那様──いえ、アルベルト様」
呼び方を変えた。それだけで、空気が少しだけ張り詰める。
「本日は、お渡ししたいものがございまして」
鞄から封筒を取り出す。机の上に、そっと置いた。
離縁届。
アルベルト様の目が、一瞬だけ見開かれた。けれどすぐに、いつもの余裕のある表情に戻る。
「……何の冗談だ?」
「冗談ではございません」
「セレナ。少し頭を冷やしたらどうだ。何が不満なのかは知らないが、公爵夫人としての暮らしに──」
「不満はございません」
遮った。丁寧に、けれど明確に。
アルベルト様の眉がわずかに動く。この人は「遮られる」ということに慣れていない。公爵家の当主に面と向かって言葉を切る人間は、宮廷にもそういない。
「不満は、何一つ。ただ、私の役目が終わっただけでございます」
役目。
この屋敷に嫁いでから七年間、帳簿を整え、領地を回し、使用人を束ね、社交界の顔として微笑み続けた。そしてあの子を──レオンを育てた。
妻としての役目。母としての役目。
どちらも、もう終わった。
「……気が済んだら戻ってくればいい」
アルベルト様は、ペンを取った。離縁届の署名欄に、流れるような筆跡でサインを入れる。迷いのない手つき。まるで夜会の招待状にでもサインするように。
(ああ──この人は、私がいなくなることの意味を、本当に何も分かっていない)
署名が終わった離縁届を受け取り、丁寧に折り畳んだ。封筒に戻す指先は、不思議なほど落ち着いていた。
「最後にひとつだけ」
振り返り、微笑んだ。泣いてはいない。怒ってもいない。七年間、毎日この顔で社交界を渡ってきた。最後の一回くらい、完璧にやってみせる。
「私の七年分の帳簿を、どうぞご自分でおつけくださいませ」
アルベルト様の表情が、ほんの一瞬、固まった。
──それを見届けて、私は執務室を出た。
廊下で、古参の侍女とすれ違った。こちらを見て目を丸くしている。旅装の鞄を手にした奥様が、朝からこの廊下を歩くのは確かに珍しいだろう。
何か言いたげな彼女に、小さく会釈だけ返す。
(ごめんなさいね。明日からの献立表は、台所の引き出しの二段目に)
声には出さなかった。
◇
馬車が動き出す。
窓の外に、グランツ公爵家の屋敷が遠ざかっていく。手入れの行き届いた庭園。私が毎年予算を組んで、庭師の配置を決めて、季節ごとの花を選んだ庭。
振り返らなかった。
(別の道を選んでいたら、私は今ごろ──)
八年前、断った縁談のことが一瞬だけ頭を過ぎった。辺境の、不器用な伯爵。帳簿を見せてくれた時に、少しだけ目が輝いたあの人の──
(いいえ。今はそれを考える時ではない)
馬車の揺れに身を預ける。鞄の中には、帳簿道具とペンと硯箱。たったそれだけ。
七年分の帳簿は、あの書斎の棚に残してきた。読めるものなら、読めばいい。
春の風が、髪を揺らした。
軽い。指輪を外した左手が、嘘みたいに軽い。
◇
その夜。
グランツ公爵アルベルトは、妻が──元妻が管理していた帳簿の棚を開けた。
革表紙の帳簿を手に取り、開く。
文字が、ない。
数字も、表も、何も。真っ白な頁が広がっている。いや──よく見れば、うっすらと魔力の残滓が光っているような気がする。確かに何かが書いてある。書いてあるはずだ。
だが、読めない。
「……セレナ?」
誰もいない書斎に、その名前だけが落ちた。




