第一話 大街獣モスクワ
毎日毎日、耐え難い悪臭と共に野次郎兵衛は目覚める。
長屋を出ると相棒の汚八が鼻を摘んで顔をしかめながら声をかけてきた。
「おはよう野次さん!都は今日も健康で、朝っぱらからぶりぶりとけっこうなことだがよ。この臭いばかりはどうにかならねぇもんかなぁ」
「この臭いがなけりゃあ、かえって穢土らしくねぇってなもんよ」
二人の住んでいる所は、京の都の中でも尻尾に近い。
尻尾に近いということは、ケツの穴に近いということで、京都が排便する度にこの辺りは耐え難い悪臭に包まれることとなる。
また、尻尾は京都が他の街獣と戦う時には武器にされるからそういう時は死の危険にもさらされる。
もっともそんなことはここ百年近く起きていないのだが。
排便を済ますと京都はゆっくりと動き始めた。
足元が左右に揺れるが、みんな慣れたものであっちへよろよろこっちへよろよろと動きながらぶつかる者はほとんどいない。
「と、思っていたがなんでいなんでい、おめえはどこに目をつけてやがるんでぇ!」
人力車を引く男が俺にぶつかった。
そいつは上背があり、細面で目つきが鋭い。
青い羽織袴で、腰には大小の刀を提げている。
「かまっている暇はない。どけ」
男はぶっきらぼうに言った。
「おやめなさい、左近。すみません、うちのものがぶつかってしまって。先を急ぎますので、どうかこれで」
車に乗っていた市女笠を被った若い女が小判を差し出した。
虫の垂衣の間から覗く顔は透き通るように白かった。
「お武家さんだかお公家さんか何か知らねぇが、こんなもんはいらねぇや。こいつがぶつかったんだから、こいつが謝るのが筋ってもんだろ」
「なんだと……」
武士は目をいからせて拳を握る。
「やめなさいッ!」
女の剣幕に武士は拳を下げ、そして頭を下げた。
「すまなかった。本当に急いでいるんだ、通してくれ」
「おう、いいってことよ」
人力車は風のように遠ざかり、町外れの幽霊屋敷のほうへ向かっていった。
◇
「野次さん、どうにも空が暗くっていけねぇや」
用事を済ませて長屋に戻ると、汚さんがふすまから外を眺めて嘆いている。
「こんな夏の盛りにおかしなことだね、やや!?」
どんよりと曇った空に、六個の青い光が灯り、甲高い音が鳴り響いた。
耳の穴を切り裂くような高い音が、何かの鳴き声だと気がつくまでにはしばらくかかった。
そして空に輝く複数の光が、想像を絶する体長の街獣の目であるということを理解するのには更に時間がかかり、その理解を受け入れるのはさらに時を要した。
街獣の全容はわからないが、その背には玉葱みたいな形をした色とりどりの屋根がある宮殿が見える。
街獣の長い首は三つあり、左から白く長い瞼のようなものが垂れ下がった単眼の顔がついた首、赤く猛々しい熊のような顔のついた首、青くナマズのような魚類めいた顔のついた首がゆらゆらと揺れている。
続いて頭の中に女性の声が響いた。
『我が名はジナイーダ。全ての街獣の母モスクワの巫女にして女帝。誇り高きルーシ及び諸民族を治める王の中の王。直ちに降れ。さすれば、平和の内に融合されるであろう。抵抗するならば、モスクワは汝らを捕食する』
続いて、モスクワの声と比較すると低く穏やかな鳴き声が響き、続いておっとりとした声が頭に流れた。
『東の天子である時仁は、北の天子ジナイーダにまみえたことを、嬉しく思う。モスクワは海を超えられぬ街獣と聞いていたので、いささか驚いているが、出会いは素晴らしいことだ。街獣キョウトも同じ気持ちである。しかし、融合か捕食か、とは穏やかではない。対等な立場での交易を望む。返答やいかん」
街を治める王達の会話は、神器を介して心話で行われる。
強い街獣は街の住人全てに語りかけることが出来る。
『全ての街は天地開闢以来モスクワの下にあり、神の代理人たる皇帝はクレムリンの皇帝唯一人である。東の最果ての小街獣が天子だなどとのぼせあがるな。お前が屈服することは決まっている。血を見る前か、後かそれだけを選べ』
『驕れる暴君よ。融合したとて我が臣民を奴隷とするのは目に見えている。我らは日出る街の誇り高き住民である。融合も、捕食も、どちらも願い下げだ』
『愚か者め』
街獣モスクワから伸びる三本の首のうち、真ん中の赤い熊のような首が京都の首筋に迫り、噛み付いた。
首を伝ってモスクワから兵隊たちが雪崩れ込んでくる。
その中には木造の家屋を背負った家獣も混ざっていた。
「あわわ、野次さん、偉いこっちゃ。戦になっちまった」
「汚さん、戦になったっちゅうことはよう……柱に捕まれッ」
街獣京都は、俺たちの乗った穢土の街ごと、その長い尾を振って応戦を始めたのである。
◇
一方、京都の中心部ではは侵入したモスクワの家獣を迎え撃つため、金閣寺や銀閣寺といった名のある家獣が出撃していった。
「破邪麻呂さま!敵は桂川を既に渡河して、雪崩れのようにこの御所に迫っております!」
「ええい、うろたえるでない。古今伝授の太刀を持てい」
青侍は素早く伝来の太刀を主人に差し出す。
破邪麻呂は太刀を佩くと、真っ直ぐに清涼殿に向かっていった。
清涼殿の「鬼の間」に入った破邪麻呂は狩衣を脱いで、その鍛え上げられた上半身をあらわにする。
「帝に仇なす悪鬼どもめ、この烏丸少将破邪麻呂が相手になるでおじゃる」
破邪麻呂は古今伝授の太刀を抜き、構える。
「光たもれぇーッ」
太刀が光輝くと、清涼殿を背に負った家獣はにわかにその身を起こし、動き出した。
家獣としての清涼殿は、清涼殿を頭と胴体に据えたような形で、蜥蜴のようなイボイボの手足が生えている。
右手は刀のように硬質化していた。
清涼殿はずんずんと烏丸通りを進んでいくが、辺りは不気味に静まり返っていた。
「出ておじゃれ、モスクワの。隠れていても獣は臭いでわかりまするぞ」
元からそこにあった家のようにうずくまっていたモスクワの家獣と随伴の歩兵が姿をあらわした。
モスクワの家獣は切妻屋根の丸太小屋で前面に赤絵の陶器で縁取られた四角い窓が三つ付いている。屋根からは煙突が伸びて、煙を出していた。
丸太と丸太の継ぎ目に一切釘がないのが特徴的だ。
家の下からは毛むくじゃらの熊みたいな手脚が生えていた。
手は刀にはなっていないが、長い鉤爪が生えていた。
「世に聞くイズバという建築洋式でおじゃるな。興味深いでおじゃるが……」
イズバはいきなり飛び掛かってきた。
迎え撃つ破邪麻呂の太刀は窓を突き破り、中の操縦士、こちらでいうところの「御家人」を潰した。
イズバはバラバラに瓦解し、歩兵たちは丸太に押し潰されて沈黙した。、
背後から猛烈な勢いでもう一体、イズバが跳ねてきたが、こちらも一閃。
清涼殿の刀は丸太と丸太の間に滑り込むと操縦士を両断した。
崩れ落ちていくイズバの背後に更に三体のイズバが現れる。
「敵は手練れだ。同時にかかれ」
リーダー格と思しきイズバは心話で仲間に伝える。
その声はうら若い女性のものだった。
心話の難点は敵にも傍受されてしまうところだ。
そのイズバは青を基調とした色とりどりの陶器で飾られ、お菓子の家のようだった。
家の下からは鳥のような骨張った脚と、羽毛に包まれた腕が伸びている。
「名のある将とお見受けする。麻呂は烏丸少将破邪麻呂でおじゃる。汝の名を名乗られよ」
「これから死ぬ者にそのような情報を与える必要性は感じないが……まあ、よかろう。私はワシリーサ少佐。“麗しの”ワシリーサと呼ばれている。フフッ」
「じ、自分で“麗しの”とか言ってしまうでおじゃるか?失笑ものでおじゃる」
「う、うるさいっ!かかれっ!」
三体が同時に飛び掛かってきた。
正面の一体を刀で貫き、左手をもう一体の窓から突き入れて操縦士を握りつぶす。
しかし、更にもう一体の鉤爪が清涼殿の屋根を貫き、破邪麻呂の身体を引っ掻いた。
噴き出る血潮。
屋根の破れ目からワシリーサのイズバが冷然と破邪麻呂を見下ろしていた。
「左近、姫を頼んだでおじゃるぞ」
鳥の爪がもう一度刺し入れられ、破邪麻呂を肉片に変えた。
◇
住民ごと振り回された穢土の町は、モスクワの首の一つ、ナマズのような青い首がその根元を噛んだことによって停止した。
青い首から数体の家獣と歩兵が穢土の町にも侵入する。
ナマズの首は大きな瞬きを数回繰り返し、京都の尾の付け根を噛みちぎった。
京都の身体から切り離された穢土の町は、凄まじい衝撃とともに地面に打ち付けられた。
「汚さん、無事かぁ!」
「いててて、なんのこれしき、野次さんこそ、怪我ァねぇか」
二人のいた長屋はなんとか持ち堪えたが、穢土の貧民窟はあちこちで家が崩れ、火事が起こっている。
「家の下敷きになった人たちが息のあるうちに助けようや」
「よしきた」
野次郎兵衛と汚ハ(きたはち)は、瓦礫をどかして人々を助け出す。
街を彷徨う人々の中に、ぬっ、と書院造りの建物につるつるした手足のついた家獣が姿を現した。
瓦のあちこちが苔むして、漆喰や破風にはヒビが入っている。
「ありゃあ、町外れの幽霊屋敷じゃねぇか」
家獣の中から、昼間にぶつかった武士と公家の女が顔を出した。
「お前たちはここで何をしている」
「見てわかんねぇか。怪我人を助けて安全なところに逃してるのさ」
「安全なところがあるのか?」
「俺たちの長屋は無事だった」
武士は腕組みをして、考えている様子だ。
「姫をそこに連れて行ってはくれないか。俺はこれから、あれを斬り伏せる」
家獣が指差す先には、二体の丸太小屋に脚の生えたようなモスクワの家獣イズバが立っている。
尻尾が切り離されたときにそのまま一緒に落ちてしまったらしい。
「左近、あなただけでは。私もともに戦います」
「姫、いや内親王殿下にもしものことがあっては皇統が危うくなります。烏丸少将にも顔負けできません。どうかお聞き分けください」
家獣が膝をつくと、姫が目に涙をためて降りてきた。
「なんだかよくわからねぇが、任された!安心して戦ってきな」
武士は野次郎兵衛の顔を覗き込んでいる。
「かたじけない……その顔……いやなんでもない。頼んだぞ」
野次郎兵衛と汚八は姫の脇を固めて、長屋へと向かった。
◇
切断された尾の上の街、穢土の家獣から京都を見上げる。
巨大な黒い亀のような京都は、硬い甲羅から突き出た手脚をモスクワの三本の首に噛みつかれている。
口から吐く火球は、モスクワの口から放たれる白く輝く息の前にかき消されていく。
清涼殿、そして内裏に火が放たれ、燃え上がるのが見えた。
左近、烏丸少将破邪麻呂に仕える青侍の徳川左近は、その手に神器を握りしめる。
「少将、この左近は必ずや務めを果たします」
姫から渡された神器、倶利伽羅剣が赤く光り、家獣の手が紅の刀に変形した。
じりじりと迫ってくるモスクワの家獣イズバは、鉤爪を振りかぶる。
一足跳びに距離を詰め、刀を振り抜く。
イズバの上半分が斬り落とされたが、操縦士は伏せて無事だった。
下半身だけのイズバが体当たりしてくる。
もんどりうって左近の家獣は倒れる。
「くそっ、それがしが少将だったらさっきの一太刀で倒せていたろうに……」
イズバは脚で左近の家獣を踏み潰そうとするが、すんでのところで左近の刀はその脚の裏を貫いた。
泥試合は続く。
◇
野次郎兵衛と汚八、姫の三人は、他の焼け出された人々と共に長屋に向かうが、一体のイズバが背後から追ってきた。
長屋に駆け込んで戸を閉めるが、めきめきという音とともに戸が破壊されていくのがわかる。
弥次郎兵衛は天井を叩いて天板を外す。
上からガシャリと音を立てて落ちてきたのは、長ドスと銃身を切り詰めた火縄銃だった。
「あなたがたは何をお仕事にしていらっしゃる方なのですか?」
「こまけえこたぁいいんだよ、お姫さん」
「あの化け物は俺たちがやっつけてやらぁ。姫さんは隠れててくんな」
「いえ、私も戦いますわ。私にも武器があるのですよ。この家にはご加護を感じます。きっと答えてくれるはず」
姫はゴソゴソと胸の谷間から巻き物を取り出して、広げた。
「龍畜経よ、古き家に宿りし家霊を目覚めさせたまえ。光あれっ」
龍畜経が光り、そして長ドスと火縄銃もまた光り輝いた。
床がぐらぐらと揺れだし、競り上がった。
長屋の床板から生えた青い脚は、戸に取りついていたイズバを蹴飛ばした。
野次さんと汚さんが障子から外を除くと、長屋の床からでかい両腕両脚が生えており、右手は刃に、左手は大筒のような形になっている。
イズバはわずかにひしゃげたが、怯まずに立ち上がった。
「お二人とも、あれをやっつけるおつもりで部屋の中で武器を振るってください」
「よしきた」
汚八は火縄銃を構えて引き金をひく。
長屋の家獣は左手を構えると、大筒から火を噴いた。
轟音とともに発射された弾丸は、狙いをわずかにそれ、イズバの肩口を粉砕したに留まった。
「腕が鈍ってるんじゃねぇのかい、“テッポウの汚八“さんよ」
「面目ねぇ、あとは“ヤッパの野次郎兵衛”にたのんだぜ」
野次郎兵衛が長ドスを振り下ろすと、イズバの腕が飛んだ。
「おりょりょ、上手くいかないもんだな」
「ぜぇぇぇぇい!」
姫が経典を持ったまま回し蹴りを放つ。
長屋の青い脚はイズバの家の中心を的確に貫いた。
◇
無事にイズバを倒した左近と、三人は合流した。
「姫。ご無事でなによりでございます」
「左近こそ怪我はありませんか」
「ははぁっ、もったいないお言葉。それがしが二体をすぐに仕留めれば、姫を危険な目に合わせることもありませんでしたのに。……お前たち二人にも礼を言う。姫を助けてくれてありがとう。お尋ね者の“野次汚ぶらざぁず"よ」
「いいってことよ。ってか、俺たちの正体を知ってたのに、お姫さんを任せてよかったんか」
焦げ臭い街の中にはまだ焼け出された人々が彷徨っている。
争いあっている内に大分離れたか、遠景に大街獣モスクワがくずおれた街獣キョウトを食い散らかす様子が見えた。
引きちぎった頭の付け根から赤い首を甲羅の中に突っ込み内臓をすすっている。
白い一つ目の首からは豆粒のような小ささの京都の街の人々がモスクワ兵に連行されていく様が見えた。
青いナマズの首からは、木材や金銀財宝が運ばれていく。
「ああ、京都が。千年の都が……」
汚八がへたり込む。
「今上は、私に、この八尋に神器を託されました。都はまだ終わっていません。あれが京都を食らうのに夢中になっている内に離れなければ。左近、倶利伽羅剣を私に」
左近が倶利伽羅剣を捧げる。
姫は右手に龍畜経、左手に小さな玉匣を持った。
「京都の霊よ、この穢土に参り、浄土となさん。光あれっ」
街がにわかに揺れ出した。
穢土の街、その下にある尻尾の肉がぶるぶると震えているのだ。
ぬちゃっという音と共に右手が生え、ついで左足。
左手と右足は同時に生え、最後にはトカゲめいた顔が尻尾の付け根の赤い切断面からにょきにょきと生えた。
「穢土が街獣になった???」
「穢土、いや街獣として新たに漢字を当てて、江戸とでも名付けましょうか。江戸よ、今は逃げるのよ」
モスクワはと言えば、赤い首は甲羅の中に顔を突っ込んでいるし、白い首は長い瞼が邪魔をして周りが見えていない様子である。
そして、ナマズのような青い首は、早く行けとでと言うように顎をくいくいと促すような素振りをした。
こうして、街獣エドの歴史は始まったのである。




