Dear My Brother(15)
「……やめた」
ぽつりと聞こえた声に、陽千香はきつく瞑った目を開けた。
周囲は痛いほどの沈黙に包まれている。恐る恐る振り返った先には、蒼真の無事な姿がある。その首元に目をやれば、あの忌まわしい首輪は影も形もなくなっていた。
陽千香は蒼真の胸元に取り付いて、呆然と佇む彼の肩を、力いっぱい拳で殴った。震える息を吐き出してから身を離し、蒼司の方に視線を向ける。
蒼司は、虚ろな表情を浮かべながら同じ場所に立っていた。先ほどまでの刺すような殺気は消えている。陽千香が黙って見つめていると、視線に気付いた彼が自嘲気味の笑みを浮かべて口を開く。
「何か……急にバカバカしくなっちゃった。俺はただ、また兄貴と一緒にサッカーしたいって夢を、叶えてみたかっただけなのに……兄貴がそんな調子じゃ、絶対叶いっこないじゃん……」
「蒼司くん……」
寂しげな声に思わず近付いて行こうとして、道を貴則の腕に阻まれる。警戒を解くのはまだ早い。言外に訴える貴則から目線を逸らし、いたたまれない気持ちで蒼司を見る。
蒼司は続けた。
「分かってたよ、全部……この世界で叶う願いが空っぽだってことも、そこに兄貴を巻き込むべきじゃないってことも。でも、約束したから……いつも、どんな時でもずっと二人一緒だって、小さい頃からの約束だったから……このまま兄貴に置いてかれるんじゃないかって思ったら、抑えが効かなかったんだ。俺から兄貴を奪ってく、お姉さん達が羨ましくて仕方なかったんだ……」
「……蒼司」
蒼真が呟いて歩き出した。視線を飛ばす貴則に緩く頭を振り、蒼司の方へ近付いて行く。
陽千香は貴則に視線を向け、無言で思いを訴えかけた。貴則は小さく息をつき、陽千香を留めていた腕を下ろした。蒼真の後を追う陽千香に続いて、他の面々も動き出す。
「蒼司」
弟の正面に立った蒼真が、気遣わしげにその名を呼ぶ。伏せていた視線を上げた蒼司は、微かに赤みを帯びた目元をくしゃりと歪め、震える声で笑った。
「さんざ迷惑掛けどおしでゴメンね兄貴。兄貴の気持ちは分かったから……兄貴の言うとおり、もう夢を見るのはやめにするよ。大丈夫、真っ暗なのは慣れっこだからさ」
蒼真が右手を伸ばし、蒼司の頭を乱暴に掻き混ぜる。蒼司は顔を俯けて言った。
「あーあ、やんなっちゃうなホント。ワガママだしガキっぽいし、いつまで経っても兄貴に甘えてばっかだし。俺みたいな迷惑な奴は、さっさと――」
――ドクン。
穏やかだった空気を切り裂いて、凄まじい殺気が場に満ちた。
「な……何……?」
驚いた蒼司が顔を上げる。その表情は不安に翳っており、先に見せたような狂気の色は欠片も認められなかった。
蒼司ではない。この殺気はいったいどこから。武器を構えて周囲を警戒する陽千香達の後ろで、ロベルトが蒼司を問い詰める声がした。
『志筑蒼司、何を願った……!?』
「え? な、何って……?」
『先ほど何か言いかけただろう、あの時何を言おうとした!?』
強い調子で問うロベルトに、蒼司は少し怯んだように答えた。
「……し……死んじゃえば、良いのにって……」
『馬鹿者が……っ!!』
『なんてことを……!!』
目を剥いたロベルトの隣で、キキョウが口元を両手で覆う。蒼司は視線を揺らしながら言った。
「だ……だって、俺さえいなくなれば兄貴、もっと楽できるのにって思って……だから……」
『この馬鹿野郎、一番やっちゃなんねェことやっちまった!!』
「どういうことだい!?」
隠しもせずに焦りの言葉を口にする御使い達に、貴則が鋭い口調で問いかける。答えたのはミレイだった。
『悪魔は"望みを叶える"という契約行為を経て、宿主の魂を喰い荒らす……万が一宿主が、自身の"死"を望むようなことがあれば……』
「お望みどおりにってわけか……!」
体育館の壁沿いの空間が、波打つ水面のように歪む。地獄の釜の蓋が開いたような唸り声が、そこかしこから聞こえてくる。
「久我センパイ……どうしたら良いですか……?」
「何でボクに訊くのかな……」
「いつも偉そうに講釈垂れてるでしょう何かないんですかっ!?」
「キミは無茶振りって言葉を覚えた方が良さそうだねっ」
圭介と貴則の口喧嘩も、今は空元気のようにしか聞こえない。空間の歪みからは黒い靄のようなものが立ち昇り始めており、そこから感じたこともないほど密度の濃い悪魔の気配が押し寄せてくるのだった。
蒼司を中心に背中を合わせ、悪魔達の襲来に備える。そして、とうとう姿を現した一体が、殺気を剥き出しにしながら蒼司目掛けて飛び掛かってきた。
「ひっ……!」
小さく悲鳴を上げた蒼司の前で、閃く光が悪魔を撃った。遅れて轟いた硬質な音は、獣の遠吠えのごとく体育館に響き渡る。
「ふざけんな……!」
それと同じくらい低い声で吐き出すと、蒼真は背中越しに蒼司に向かって怒鳴った。
「勝手に死ぬとか言ってんじゃねぇ……最初に言ってあっただろうが。俺はお前を助けるためにここまで来たんだ!!」
「……あ……」
――ゥォオオオオオオオオオオオオオオオオオオン……!!
大気を揺らして悪魔の雄叫びが渦を巻く。靄を割って次々に溢れ出てくる悪魔の群れが、全方位から迫ってくる。
絶望。そんな単語がしっくりくるような、絶体絶命の状況。しかし、それを歯牙にもかけないような強い光を瞳に宿し、少年はそこに立ちはだかっていた。
雷を纏った獣がごとく、少年が吼えた。
「蒼司に指一本触れてみろ……消し炭も残らねぇ奴をくれてやるぞ!!」




