ガラス細工の針(17)
声は、舞台の下から聞こえていた。見下ろす陽千香の視線の先で、倒れていた少年が目を開ける。薄っすらと笑みを浮かべてこちらを見返した彼は、小さな掛け声とともに上半身を起こし、何事もなかったかのように立ち上がってみせた。額から滴っている血液をぞんざいに手の甲で拭うと、舞台端に設置された階段を上って悠々と舞台上に上がって来る。
「……誰なの、あなたは?」
剣を構えて問いかける。少年の方から漂ってくる気配は、悪魔のそれによく似ていた。うなじの辺りが焦げるような、強い悪意に満ち満ちた空気。それに見合わない無邪気な笑みを浮かべ、少年はおかしそうに答えた。
「誰だなんて、やだなぁ。少なくとも、お姉さんは知ってるはずでしょ?」
そんなはずはないと思いながらも、陽千香は頭に浮かんだ名前を口に出した。
「……蒼司くん、なの……?」
「せいかーい!」
少年はにぱっと笑って手を叩いてみせた。空虚に響く拍手の音を聞きながら、陽千香は背中に立つ蒼真の方に意識を向ける。空気を通じて、彼の震えが伝わってくる。今仕掛けられたら、恐らく彼は戦えない。
「どうしてこんなことするの……?」
陽千香は目の前に立つ少年を見据えて訊ねた。この少年が本当に蒼司だというのなら、なぜ蒼真の傷を抉るようなことをするのか。弟を想って全てを犠牲にしてきた蒼真を、蒼司が恨むはずがない。そんな自分の考えは甘かったのだろうか。
「……信じてたんだよ」
不意に笑顔を潜めて、蒼司が呟いた。彼の目線は、陽千香を通り越して蒼真の方に向いていた。
「暗くて、寒くて、苦しくて。"彼ら"に願いを叶えてもらっても、いつもどこか穴が開いてるような気分だった。だけど、きっと兄貴も同じ思いでいてくれてると思ったから耐えられた。ここに来てるって知って、俺のこと探してくれてるって思って、嬉しかったんだよ?……だから、答えて」
ぞっ、と。全身総毛立つような感覚が背中を突き抜けた。直前に見せていた無邪気な笑顔が嘘のような昏い瞳を向けながら、蒼司は囁くような声で訊いた。
「兄貴は、また約束破るつもりなの……?」
「っ……!!」
背後で蒼真が息を呑む。怯えたように後ずさる蒼真の足音に合わせて、蒼司が一歩こちらに近付く。
「こ……来ないで……!」
立ち塞がるようにして剣を構えるが、蒼司は陽千香のことなどまるで意に介していないようだった。ひたすら真っ直ぐに蒼真の方を捉えながら、闇色の気配を膨らましていく。
彼の足を止めたのは、耳元を掠めた一本の矢だった。蒼司が肩越しに振り返るのを見て、陽千香はようやく彼から視線を外す余裕を得る。
「飛鳥先輩……!」
舞台の下に、仲間達が立っていた。弓に新たな矢を番える良一の横で、貴則が大鎌を肩に担ぎながら言う。
「お取込み中のところ申し訳ないんだけどねェ……そろそろ事情の説明を要求しても良いかい?」
「……あー……」
息を吐くついで、とでも言わんばかりの気の抜けた声を出しながら、蒼司が仲間達の方に身体を向けた。
「そういえばいたんだっけ? 空気すぎて忘れてた、ごめんごめん」
「志筑君の関係者なのかな? だとしたら非常に残念だけど、どうやらあまり躾がなっていないみたいだ。良かったら、日本語の文法くらい教えてあげようか? 敬語の使い方で恥をかくのはかわいそうだ」
口元に笑みを浮かべる一方で、鋭く蒼司を睨み付けながら貴則は言う。蒼司は痛烈な皮肉を嘲るように声を立てて嗤うと、心持ち顎を上げながら貴則達を見下ろした。
「願い下げかな。お兄さんに日本語なんて習ったら、兄貴に嫌われちゃいそうだし」
たんっ、と軽い音を立てて、蒼司が空中へと地を蹴った。翼が生えているわけでもないのに、その身体は宙へ浮き、体育館の天井近くまで舞い上がる。陽千香達を眼下に見ながら、蒼司は声を響かせた。
「どうせ挨拶だけのつもりだったから、今日はここまでにしとくよ。また遊びに来て。今度はみんなに楽しんでもらえるように、面白い遊び考えておくから。もちろん、兄貴と一緒に、ね」
「待って蒼司くん! 質問に答えて!」
「じゃあね~♪」
陽千香の問いかけを無視すると、蒼司はパチンと指を鳴らした。
「蒼司くんっ!!」
叫んだ陽千香は、自分の目の前の景色が一瞬ですり変わってしまっていることに気付き、はっとなって息を呑んだ。
見慣れた白い天井。柔らかい布団の感触。パジャマ姿の自分。陽千香はいつの間にか、自分の部屋のベッドの上にいたのだった。
「陽千香? 今何か叫んでたけど大丈夫? 陽千香?」
ドアをノックする音とともに、耳慣れた兄の声がする。間違いない、ここは現実世界だ。風船の音を聞いた覚えはないのに何故。混乱しながら思考を巡らせ、直前に聞いた蒼司の指の音に思い至る。
界境世界は悪魔の領域。紛れ込んだ異分子は、彼らの力を破らない限り、そこから逃れることはできない。だが、もしも悪魔が意図的に異分子を逃がすことを選んだら?
「追い出された……?」
陽千香は身体に掛かっていた布団を撥ね退けると、急いで学校へ行く支度を始めた。気にかかるのは何よりも蒼真のことだ。蒼司の問いかけに対する、あの尋常ではない怯え方。胸が騒いで静まらない。直接会って話を聞きたい。
蒼真が学校に来てくれることだけを祈りながら、陽千香は自分の部屋を飛び出した。
ちょっと短いですが、キリが悪いので今回はこれだけ。次週から最終章です。




