悪夢を狩る天使(3)
窓ガラスが粉々に砕けたのは、それとほぼ同時だった。慌てて割れた窓を見やると、枯れ枝のような指で窓枠をへし曲げながら、悪魔が室内に侵入してくるところだった。陽千香の姿を認めると、ミイラの顔が凶悪な笑みを形作る。
陽千香は正面に剣を構えたが、その後どうして良いか分からず後退った。武器を得たからといって、それを使いこなす術を陽千香は知らない。
悪魔が鎌首をもたげ、臨戦態勢に入る。さらに後退しようとした陽千香は、その先がもう壁であることに気付いて息を呑んだ。
身体を芯から揺さぶるような威嚇音とともに、悪魔がこちらに突っ込んできた。机や椅子を蹴散らし、隠された大蛇の口を開いて、陽千香を飲み込もうと迫ってくる。それを前に、陽千香は一歩も動くことができない。このまま突っ立っていては丸呑みにされて終わりだと分かっているのに、脚が言うことを聞かない。
やっぱりもう駄目なんだ……! 諦めて目をきつく閉じた時、不意に自分の身体が浮き上がるような感覚を覚えた。不思議に思って薄く目を開けると、悪魔の身体を上から見下ろしているような光景が広がっていた。
――違う。気のせいなどではない。陽千香は目を見開くと、自分の状態を改めて確認した。陽千香が先ほどまで立っていた場所。今の自分は、そこから数メートルの上空にいた。自分は音楽室の高い天井すれすれまで飛び上がり、悪魔を眼下に見下ろしているのだった。
悪魔が壁に突っ込んでいく姿をやけにゆっくりした感覚で眺めた後、陽千香の身体は空中で反転し、悪魔の背後に降り立った。悪魔がこちらを振り返るのに合わせて腰を落とし、力強く床を蹴る。普段の自分からは考えられない速度で悪魔との距離を詰めると、陽千香は飛びかかるようにして悪魔の人体部分に斬りつけた。
悪魔の片腕が飛び、少し離れたグランドピアノの上に落ちる。腕は暫く悶えるように痙攣し、やがて白い光となって消滅した。
奇声を上げる悪魔を横目に見ながら、陽千香は壁を蹴り、返す刀でもう一撃を喰らわせる。今度は人体の頭の部分が斬り落とされるが、悪魔は痛みにもがくだけで、倒れる気配はない。あれが本体ではないのだろう。ならばいくら攻撃しても無駄だ。陽千香は目標を切り替え、蛇の方に狙いを定める。のたうつ尻尾の隙を見計らい、袈裟懸けに剣を振り下ろす。
硬質な音とともに、両手に微かな痺れが走る。弾かれたと認識するや、陽千香は後方に飛んで距離をとった。まやかしである人体と違い、蛇の方は随分頑丈らしい。蛇体の表面を覆う鱗を見やりながら、陽千香は他に刃の通りそうな箇所を探す。どこも鱗が密集していて、こちらの攻撃は通じそうにない。
いや、一箇所だけある。陽千香は振り向きざまに剣を振るうと、背後から迫った尻尾を弾き、そのまま悪魔から離れるように教室の反対側へ走った。首を失ったミイラの身体が、陽千香の方へ向き直る。足を止めた陽千香が剣を横に構えると、鋭い威嚇音を鳴らしながら悪魔が再び突進を繰り出してきた。
まだ早い。迫り来る悪魔を睨みつけ、陽千香はその場に留まった。自分の腕力だけでは足りない。相手が突っ込んでくる勢いも利用するために、ぎりぎりまで引き付けなければ。
目の前にぽっかりと、暗い暗い穴が開く。陽千香の頭から爪先まで、丸ごと収めてしまえそうな大穴は、目前に獲物を捉えて微かに嗤ったように見えた。
――今!
陽千香は身を翻して僅かに攻撃の軸をずらすと、開いた蛇の口に刃を向け、両手で剣を支えて衝撃に備えた。
蛇は自らの勢いを殺しきれず、口の端から刃に突っ込んだ。刃は口から腹、尻尾に達し、魚を捌くがごとく一文字の傷を蛇体に刻んだ。
本体を切り裂かれた悪魔は、壁に激突した状態で息絶えたようだった。暫くのたうちまわっていた尻尾が完全に沈黙すると、光の粒子となって空中に散っていく。
『やりましたわー! 陽千香、祝・悪魔討伐一体目、ですわっ!』
これまでどこに隠れていたのやら。悪魔の最期を見届けると、リヒトが陽千香の傍に舞い戻ってきた。
「……倒せた……」
口の中で呟いた陽千香は、全身を襲った疲労感に任せてその場に座り込んだ。
今のはいったい何だったのだろう。両手でしっかりと握り締めた剣を見つめながら思い返す。戦っている最中の身のこなしや咄嗟の判断。自分にあんなことができるわけはないのに、やったのは間違いなく自分であるという事実。まるで誰かが自分の身体に入り込んで一体化し、勝手に動いたり考えたりしているようだった。
『驚いたでしょう? あんなことができるなんて』
陽千香の頭の中を覗いたように言って、リヒトが笑った。
『それが我々御使いの力です。貴女を触媒として生成されたその武器には、悪魔と戦うために必要な全ての要素が詰まっている。戦い方は武器が教えてくれますわ。貴女はただ勇気をもって、武器を振るうだけで良い。大丈夫、貴女ならやれますわ』
「……御使いの、力……」
リヒトの言葉をなぞるように口にするが、頭が重くてうまく思考がまとまらない。まだいろいろと訊きたいことだってあるのに。
『……初めてで少し消耗したのかもしれませんわね。支配格の悪魔も無事倒せたことですし、本日はこの辺でお終いにいたしましょう』
リヒトが一人で喋る声がする。ぼんやりと滲む視線でリヒトの方を見やると、彼女は何やら丸いものを手に持っている。彼女の頭と同じくらいの大きさのそれは、どうやら白い風船のようだった。
『さ、起きる時間ですわ陽千香。ご飯の後はちゃんと歯を磨くんですのよ』
リヒトが両手を大きく広げる。片手には風船を掴んだままだ。手を打ち付けたら風船が割れちゃう――。
パンッ!!
破裂音に驚いて目を覚ますと、そこは見慣れた自室だった。いつのまにやら眠り込んでしまったらしい。ベッドから身を起こして時計を見ると、午後六時を少し回ったところだった。今から買い物に行っていては、夕食の支度が間に合わない。今日は冷蔵庫の有り物でなんとかするしかないだろう。
乱れた髪を手櫛で整え、軽く伸びをしながら台所へ向かおうと立ち上がる。その時ふと、机に置かれた白い封筒が目に入った。
自分の名前だけが書かれた、差出人不明の手紙。そういえば、何て書いてあったのだったか。読もうとしたところまでは覚えていたが、そこから後の記憶がない。手紙を開けた途端に寝てしまうなんて、よほど疲れでも溜まっていたのだろうか。
既に開いている封筒から便箋を取り出し、広げて中身を読もうとする。だが、便箋に書かれていたのは不思議な形の図形だけで、文字らしきものは何も書かれていなかった。ただの悪戯だったのだろうか。
念のため、他に入っているものがないか封筒の中を覗き込んでみる。と、奥の方に何か光るものを見つけた。封筒を逆さにして振ると、掌にふわりと柔らかいものが落ちてきた。
それは、白銀に輝く小さな羽根だった。
……まさか、ね。
うっすらと脳裏に浮かぶ夢の中での出来事を思い起こしながら、陽千香は頭を振った。ちょっと変わった夢を見ただけだ。この手紙とは関係ない。あるはずない。
言い聞かせるように考えて、陽千香は封筒と羽根を机の抽斗にしまい込んだ。それから部屋のドアを開け、台所へ向かって駆けて行く。
彼女の苦難は、一通の手紙を開封したところから始まった。そしてその苦難は、まだ始まったばかりだった。