ガラス細工の針(1)
かたり、と椅子を引く音に、有紀はその形の良い眉を跳ね上げた。視線を隣の席に向けると、早くも弁当を片付けた陽千香が、いそいそとどこかに出かける準備をしている。手鏡を片手に念入りに前髪を整え、リップクリームまで塗っている姿は、ある種滑稽で可愛らしくもある。もっとも、それは有紀が何も知らずにいればの話だ。自分から蜘蛛の巣に飛び込む支度をしている蝶。今の有紀の目に、彼女の様子はそんな風に映っていた。
有紀は目線を反対に動かし、一緒に弁当を囲んでいた他の二人の顔を見やった。奈緒も明美も、ともに覚悟は決まったとでも言いたげな表情でこちらを見返している。長い吐息を一つ。有紀はいよいよ自分も腹を括って、隣の親友に声をかけた。
「陽千香、この後ちょっと良い?」
準備万端、鏡を畳んだところで声をかけられ、陽千香は驚いたようにこちらを向いた。次いで困ったように眉を下げ、首を傾げながら訊ねてきた。
「ええと、私これからちょっと行きたいところがあるんだけど……急ぎの用事?」
急ぎの用事?ときたもんだ。もちろんそうだ。火急の用事だ。何しろ親友の将来に関わりかねない大事な話をするのだから。有紀は大きな目を細く鋭く眇めながら、地を震わせるような低音で言った。
「行きたいところって……まさか屋上じゃないよね?」
ぎくり、と言わんばかりに見開かれた目に、その答えを確信する。ここ数日の付き合いの悪さや、不在の間どこにいたのか。それらの要素が、これで全て繋がってしまった。一瞬横目に視線を投げると、奈緒と明美が頷くのが見えた。
有紀は吼えた。
「陽千香、ちょっと顔貸しな。嫌って言っても逃がさないからね」
やって来たのは、南東の非常階段だった。時々先生が煙草を吸いに来るほかは、めったに人通りがないここは、内緒話をするのにはうってつけの場所だ。外から見たら姿は丸見えなのだが、声さえ周りに漏れなければそこはご愛嬌だ。扉の隙間から外の気配を探り、誰もいないことを確認して踊り場に出ると、吹いてきた風が有紀の長い髪を揺らした。
「さて……」
口の中で呟いてから踵を返し、正面に立つ親友の姿を眺める。奈緒と明美に左右をがっちり固められ、逃げるに逃げられない状況の彼女は、まるでこれからカツアゲされるいじめられっ子のような顔をしてそこに立っている。上目遣いにちらちらとこちらを見ている陽千香に、有紀は言った。
「陽千香。あんた、あたし達に何か言うことがあるでしょ?」
「な……何かって……?」
有紀達の顔を交互に見回しながらとぼける彼女に――もしかしたら、本当に分かっていないのかもしれないが――有紀は眉を吊り上げる。
「へぇ、とぼける気? だったら……奈緒、言ってやんなよ」
有紀が促すと、奈緒は待ってましたというように笑みを浮かべて言った。
「アタシらさっき、モリちゃんから変なこと訊かれたんだよねぇ。何て訊かれたと思います奥サ~ン? 正解はズバリ……"綾藤は志筑と付き合ってるのか"!?」
その名前が出た瞬間、陽千香の頬の色が変わったのを有紀は見逃さなかった。顔を俯けて表情を隠そうとする彼女を、追い詰めるように質問を重ねる。
「急にそんなこと言うから驚いて、守山先生に事情聞いたんだよ。何でも随分な無茶までして志筑くんを助けたらしいじゃない? そりゃぁ、そこまですれば何かあると思われるのは当然かもね。分からないのは、その件に関してどうしてあたし達に一言の相談もなかったのかってことなんだけど?」
普段よりもゆっくりと言葉を吐き出しながら睨み付けてやると、陽千香は慌てたように両手を振って否定した。
「ち、違うのっ、その件はそういうんじゃなくて、し、志筑くんのことだって、ええとっ……!」
その顔は、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい分かりやすく染まっている。有紀は盛大にため息をついた。
「あんたね、相手が誰か分かってんの? 何日か前に自分で言ってたんじゃない、ケンカしてるとこ見かけて怖かったって」
陽千香がお人好しなのは知っている。蒼真に無実の罪が着せられそうになっているのを知って、放っておけなくなったのだろうということも容易に想像がつく。クラスメイトを助けるのが悪いとは言わないし、それが気になる相手だったというのなら、本当ならよくやったと褒めてあげたいところなのだ。
だが今回ばかりはそうもいかない。何がきっかけだったのか知らないが、校内屈指と名高いあの不良に陽千香を近付けさせるわけにはいかない。何しろこの娘は純情なのだ。痛い目を見ることが分かっていて、黙って見守っていることなどできない。
「悪いことは言わないから、志筑君はやめときな。あんたとは棲んでる世界が違いすぎるよ。誰が見たって火遊びなのは、あんただって分かるでしょ?」
先日のやり取りを思い返すに、陽千香が蒼真に興味を持ってからまだそれほど時間は経っていない。ちょっと気になる、程度の想いであれば、引き止めるのはそう難しくないはずだ。せっかくの芽を摘んでしまうことが少しかわいそうではあったが、これも陽千香のためだ。悪ぶった男子というのは、得てして格好良く見えるものなのだ。真摯に説得すれば、彼女なら思い留まってくれるだろう。
だが有紀の考えに反して、陽千香の表情は険しかった。俯いて視線を逸らしてはいるが、眉間に刻まれた皺と一文字に結ばれた唇が、有紀の言葉への反発を如実に語っている。思わぬ事態に動揺し、有紀はついきつい口調で訊ねてしまった。
「……何よ? 何か言いたそうじゃない?」
「……志筑くんのこと悪く言わないで」




