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リンクリングトラウム  作者: 田川 竜
第四章 ヤマアラシのジレンマ
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ヤマアラシのジレンマ(16)

背後で奇怪な音が鳴る。それが悪魔の(わら)い声だと気付いた瞬間、陽千香は自分の中で何かが切れる音を聞いた。剣の柄を強く握り、一気に踵を返して嗤い続ける眼に跳びかかる。怒りのままに振るった剣は、しかし寸でのところで触手に絡め取られ、陽千香の手から奪い取られてしまった。四肢(しし)の自由すらも奪うべく襲い来る触手に、武器を持たない陽千香はなす術もない。全身に巻き付いた触手に自分の身体が持ち上げられていくのを感じながら、陽千香はまだ辛うじて動く首を蒼真の方へ向けた。

どうして。絞め付けられる苦しさと、自分の無力に対する悔しさに歯を食いしばりながら、地に倒れたままの蒼真を見下ろす。こんな状況になってまで、自分の能力は何故目覚めてくれないのか。悪魔を倒す力もなければ、仲間を守る力もない。どうして自分なんかが神子に選ばれてしまったのか。

「し、づき……く……っ」

咽喉が絞まって、もうまともに声も出せない。景色が(かす)み、全身から力が抜けていく。みんなの顔が脳裏に浮かんだが、これ以上抵抗する方法が思い付かなかった。目の前に迫った死の恐怖よりも、何もかも忘れてしまうことがただ悲しくて、陽千香は目の端から静かに涙を零した。

悪魔の嗤い声が高らかに響く。陽千香を(ひね)り殺すべく、蛇の胴のような触手がうねった、その刹那。


――()めんな。


薄れていく意識の向こうで、その声だけがやけにはっきりと耳に届いた。一瞬我を取り戻した陽千香の視界に、小さな光が飛来する。

『ひちかっ、目とじてっ!!』

フラットだった。顔面目掛けて飛んで来た彼は、陽千香の両目を(おお)うかのように手を広げ、そして。


轟!!!!


耳をつんざく爆音とともに、(まぶた)の向こうが白一色に染まった。自分は悲鳴を上げたのだろうか。地鳴りのような低い音が聴覚をめちゃくちゃに引っ掻き回し、他に何の音も聞こえない。強い力で振り回されるような感覚に続けて、全身に打ち付けるような衝撃が走る。痛みに息を詰まらせ、咳き込むこと数回。ようやく目を開けて、自分がろくな受け身も取れぬまま地面に投げ出されたのだと知る。

ゆっくりと身体を起こし、額を押さえながら周囲を見回す。耳鳴りが酷くて、まだ音はよく聞こえない。光に焼かれた目の方は多少痛むが、近くを見るくらいなら何とかなりそうだ。まず傷だらけになった自分の身体を確認し、そこからすぐ傍に転がっている触手の先端に目を移す。つい先ほどまで自分を捉えていたはずのそれは、今は白く(にご)って焦げた臭いを発している。根元の方へと辿って視線をやれば、地に落ちた巨大な目玉が、虚ろに空を仰いでいた。焦げ目から青白い火花を散らし、気持ちの悪い液体を()き出していたそれは、やがて弾けるようにして宙に消えていった。

悪魔の消滅を見届けた陽千香は、身体の痛みを押して立ち上がると、ふらふらしながらも蒼真の方へ走り出した。一足先に彼の元へ戻っていたフラットが、その頬を叩きながら泣きそうな声で呼びかけている。

蒼真の傍らに膝を付いて肩を揺すろうとすると、リヒトに鋭い声で制止された。

『陽千香っ、動かしちゃダメですわ!』

慌てて手を引っ込め、行き場をなくした手を蒼真のそれに重ねる。

ぞっとした。先ほど触れた時よりも明らかに冷たい。

「志筑くん……?」

そう呼びかける自分の声が震えている。動かない蒼真を前に、どうしたら良いのかが分からない。冷え切った手を握ろうとした時、指先の色が透けていることに気付いて心臓が止まりそうになる。

『ダメだよそーま……ゼンブ消えちゃうよ……!』

視線を蒼真の指先に釘付けにしながら、呆然とフラットの声を聞く。

消える。消えてしまう。こちらの世界の蒼真の存在が。あちらの世界の蒼真の記憶が。陽千香と過ごした時間も、話したことも全て忘れて。また屋上の崖っぷちから、不審に満ちた目で陽千香を睨む彼に戻ってしまう。

訊きたいことが山ほどある。話せていないこともたくさんある。さっき言いかけたことは何だったのか。あの寂しげな表情の理由は。(かば)ってくれたお礼だって、まだ。

「ダメよ志筑くん……戻って来て……」

蒼真の手を強く握り、何とかこの場に留めようとする。だが蒼真の身体は端からどんどん薄れてきており、最初に異変の起きた指先は、もう輪郭(りんかく)すら見えなくなりかけていた。

「お願い、起きて……全部忘れちゃうなんて嫌……!」

抱き締めるように蒼真の腕に(すが)り付き、懇願(こんがん)するように呟く。冷たい。冷たい。こんなのは嫌だ。

陽千香は心の中で叫んだ。お願い。どうか私に。


志筑くんを助けるための力を。


きつく(つむ)った瞼の向こうに、ほのかな明かりが透けて見える。恐る恐る目を開いて光源に視線を向けると、それは自分の掌から零れ落ちていた。湧き水のように溢れては降り注ぐ光の粒子が、陽千香の指の間をすり抜け、腕を伝って蒼真の身体にしみ込んでいく。陽の光にも似た淡い温もりが、凍えるような蒼真の指先に徐々に体温を呼び戻していく。

『陽千香、あなた……』

陽千香の手元に目をやったまま、リヒトが驚いたように呟いた。陽千香はただ強く蒼真の手を握りながら、ありったけの想いを溢れ出る光に託した。光は陽千香に応えるように蒼真の傷を癒やし、呼吸を芽吹かせ、切れかかった命の糸を紡ぎ直していく。

やがて光が収まり、全身に重石(おもし)が乗ったような倦怠(けんたい)感を感じ始めた頃。陽千香は握り締めていた蒼真の手を解き、両の掌で包み込んだ。

消えかけていた指先が、今は確かな存在感をもってそこにある。手の中に広がる体温に、思わずほっと涙が零れそうになる。蒼真の手を地面に横たえると、陽千香は彼の顔に掛かった前髪をそっと払い()けてやった。普段の刃物のような印象が嘘のような、幼い顔立ちについ微笑んでしまう。

「……また、助けてもらっちゃったね」

そう囁きながら、じっと蒼真の顔を見つめる。そのまま見入ってしまっていると、蒼真の肩に止まってこちらを見上げていたフラットが不思議そうに首を傾げた。

『ひちか? そーまのかお、何かヘン?』

「……えっ?」

はたと気付いて顔を上げると、空中でにやにやと意味深な笑みを浮かべているリヒトと目が合った。

『あら~? あらあら~?』

「な……何よ?」

どもりながら訊ねると、リヒトは『いいえ~別に~』と歌うように言いながら背を向けた。熱くなった顔を両手で仰ぐ陽千香を、フラットはきょとんとした様子で眺めていた。

『さて、と……何とか支配格も倒せましたわね。後はわたくし達に任せて、陽千香はもう目覚めなさいませ』

「え? でも……」

リヒトの言葉に、陽千香は地面に倒れたままの蒼真に目を向けた。怪我の方はもう大丈夫だとしても、このまま置いて行くのは忍びない。

陽千香の心配を汲んだのだろう、御使い二人は陽千香を(さと)すように続けた。

『だいじょうぶ! ぼくたち、ずっと見てるから!』

『貴女も今日は随分消耗したはずですわ。あまり無理して、貴女まで倒れてはなんですから、ね?』

陽千香は暫く逡巡(しゅんじゅん)し、やがて頷いた。立ち上がろうとした拍子に足元が少しふらついて、確かに疲れているようだと自覚する。

「フラット、一つお願いしても良い?」

『いいよ、なぁに?』

笑顔で応じるフラットに、陽千香は微笑みながら言った。

「志筑くんに、"みんなと一緒に中庭で待ってる"って伝えてもらえない?」

陽千香を信じてくれたのなら、陽千香が信じるみんなとだって、きっと打ち解けられるはずだ。

『ナカニワ、だね。うん、伝えとく!』

元気良く頷いたフラットに笑顔を向けて、陽千香はようやく(きびす)を返した。風船を膨らまし始めたリヒトを前に、もう一度振り返って蒼真を見る。

――また学校で、ね。

心の中で言い終えた瞬間、周囲に風船の割れる音が鳴り響いた。急速に薄れていく視界の中で、フラットが大きく手を振っているのが見えた。

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