ヤマアラシのジレンマ(5)
「陽千香先輩、昨日は何してたんですか!? 心配したじゃないですか!」
開口一番、眉を吊り上げて迫って来た圭介に、陽千香は思わずたたらを踏んだ。上背がないのと、顔立ちが幼いのとで全く迫力はないのだが、扉を開けた瞬間に目の前に立たれるとさすがに少しびっくりする。
体勢を立て直して資料室の奥に視線をやれば、他の面々もどこか困惑したような表情で陽千香の方を見やっていた。唯一普段と変わらずに読書を続行している貴則の姿が、何故だか妙にほっとする。
彼らが言わんとしていることは分かっていた。陽千香は小さく息を吐くと、彼らの顔を順に見ながら答えた。
「合流できなくてごめんなさい。でも私、昨日も界境世界には行ってたのよ」
「学校中探したんですよ? いったいどこにいたって言うんですか?」
「私だけ別の断面に飛ばされたみたいなの。リヒトに訊いてもらえば分かるわ」
陽千香の答えに、圭介は面食らったように口をつぐんだ。困ったように振り返り、意見を窺うように良一達と顔を見合わせている。やがて良一が陽千香に向き直って言った。
「綾藤さんの言うことが本当なら、どこにも姿が見えなかったのは納得だけど……急にどうして? 今までそんなこと一度もなかったのに……」
それは昨夜、陽千香が抱いたのと同じ疑問だった。誰もが答えられずに首を捻る中、本のページを繰っていた貴則がようやく顔を上げた。
「変わったことは?」
目を瞬かせる陽千香に、貴則は小首を傾げながら同じ台詞を繰り返した。
「向こうで変わったことはなかったか、と訊いたんだけど?」
それでやっと自分に対する問いかけだと認識した陽千香は、同時にこの場で話しておくべき重大な事項を思い出した。昨夜の界境世界での出来事を伝えると、一同が俄かに色めき立つ。
「何でそんな大事なこと最初に言ってくれないんですか!?」
「圭介くんが詰め寄って来たから驚いてタイミング逃しちゃったのよっ」
興奮のせいか、些か理不尽な圭介の言葉に言い返しながら、陽千香は横目で貴則の様子を窺った。彼はおとがいに指の背を当てながら、何事か考え込んでいるようだった。陽千香の視線に気付くと、彼は唇を三日月に歪めて嗤った。
「陽千香君、最近何か良いことあっただろう?」
「はい? 良いこと、ですか?」
天井を仰いで、最近の出来事を思い出す。そう言われても、特にピンとくるものがない。咽喉の奥で唸る陽千香に、貴則は目を細めながら言った。
「例えば、新しいトモダチができたとか」
友達。口の中で呟いてから、まさか、と頭の中で否定する。蒼真のことだ。あれは一方的に陽千香が喋っていただけで、友達どころか知り合いと呼べるかどうかも怪しい。まして、彼の前でそれらしき話をした覚えは――。
「……あ」
思い当たって、間抜けにも口をぽかんと開けてしまう。羽根だ。羽根を見せた。意図したわけではなかったが、あの時彼は陽千香の羽根を見たのではなかったか。
「どうやら思い当たる節があるらしいね?」
念を押すように訊ねてくる貴則に、陽千香は眉を下げて答えた。
「ないこともない……です。でも彼、全然そんな素振りはなかったんだけど……」
「彼ってことは、最後の一人は男子ですね。で?で? 誰なんです?」
圭介にせっつかれ、陽千香は散々迷った挙句にその名前を口にした。事態の進展に沸き立っていた空気が一転、まるで凍り付いたように場が静まり返る。
「……ええと。人のこと、こんな風に言うのはあんまり良くないとは思うんだけど、その人って確か……」
「割と有名な不良クンだねェ。可能性が現実になったわけだ」
あえて最後まで言わなかった良一の配慮をまるっきり無視して、貴則が皮肉っぽく肩を竦めた。
「ひ、陽千香先輩、そんな人とどうやって知り合ったんですか? まさか、見た目によらず意外とワルだなんてことは……」
「違います。失礼ね」
身を引きながら訊ねる圭介にむくれた顔を向けて見せてから、陽千香は先日の一部始終を話して聞かせた。不良三人に絡まれたくだりで一同が表情を引き攣らせる中、貴則だけは一人愉しそうに咽喉を鳴らしていた。
「不良の巣窟に飛び込んで行くなんて、陽千香君も案外肝が据わってるねェ。ちょっと見直したよ」
「元はと言えば久我先輩のせいじゃないですか。屋上を覗いてみろ、なんて言うから」
「ボクは可能性の話をしただけだよ。実行しようと思ったのはキミの自由意思だ」
屁理屈だとは思う。思うのに、上手い反論が浮かんでこないのが悔しい。陽千香は唇を引き結んで理不尽を飲み込むと、ため息と一緒に話の続きを吐き出した。
「とにかく……その時に羽根を拾ってもらったんです。他に思い当たることもないし、彼がそうかもしれません」
「限りなくクロだねェ。タイミングが良すぎる。面識のないボクらは接続を拒否されたと考えれば、陽千香君一人だけ別の断面に繋がったことの説明もつくしね」
貴則の言葉に、あやめが天井を仰ぎながら呟いた。
「でも、どうして逃げちゃったんでしょうか? せっかく綾藤先輩と合流できたのに……」
陽千香は俯いて唇を噛んだ。それについては陽千香もずっと引っ掛かっていた。陽千香の存在に気付いた上でいなくなったのだとすると、相手にはこちらと合流する意思がないということになる。正体が本当に蒼真なら、友好的な人物と言い難いのは確かだ。同じ神子とはいえ、よく知りもしない相手を簡単に受け入れてはくれないかもしれない。警戒心の強そうな眼を思い出しながら、陽千香は小さく嘆息した。
「相手が相手ですから、一筋縄ではいかないかもしれませんねー。でも、そういう相手って根気がものを言うことも多いですよ」
口を閉ざした陽千香を励ますように、圭介が明るい声で言った。
「前にも言いましたけど、気難しい人を相手にする時こそ、諦めないのが重要なんです。繰り返しその人のところに通ってれば、少しずつでも必ず心を開いてくれるもんですから」
「ま、一理あるね。このまま陽千香君に任せられるようなら、確かに有効だとは思うけど……」
貴則は中途半端に言葉を切り、その先を迷うように視線を逸らした。珍しく歯切れが悪い。
不審に思って首を捻ると、良一が不安そうな呟きを漏らした。
「綾藤さん一人に任せっきりにするのは、さすがにちょっと危なくないかな」
蒼真にはあまり良い噂がない。陽千香も直接会うまでは、彼に対して危険な印象しか持っていなかった。まともに顔を合わせたこともないであろう良一からすれば、そう考えるのはもっともだと言えた。普段傍若無人に振舞っている貴則も、こればかりは良一と同意見のようだ。陽千香の意思を見定めるかのように、黙ってこちらに視線を向けている。陽千香は言った。
「心配ないと思います。志筑くん、見た目はちょっと怖いけど、自分からは何も仕掛けてこないから」
面識のないメンバーを引き連れて会いに行くのが得策だとは思えない。同じクラスという接点もあることだし、このまま陽千香一人に任せてもらった方が、蒼真に無用な警戒を抱かせずに済むだろう。
だが、貴則は首を振りながらいつになく真面目な声音で言った。
「気にしてるのは、志筑君のことだけじゃないんだよ」
どういう意味だろう。疑問符を浮かべた陽千香に、良一が答えた。
「さっき言ってただろう? 三年の不良に絡まれたって。彼ら志筑君を目の敵にして、年中ケンカ吹っ掛けてるんだよ」
「高橋に藤堂、それと杉下。揃いも揃ってクズばかりさ。怒鳴り散らすくらいしか能がないくせに、学校中を牛耳ったような顔してるんだ」
良一の言葉に続けて、吐き捨てるように貴則が言った。よほど嫌っているのだろう、口元の笑みを引っ込めて、微かに眉を寄せている。並べた単語も、いつもの数割増しで辛辣だった。
「特に高橋君……女子にも容赦しないらしくて。志筑君の知り合いってことで目を付けられでもしたら大変だから」
「下品なオレンジの刈り上げ頭。覚えがあるだろう?」
貴則に問われ、陽千香は無言で頷いた。確かに彼は、自分の喧嘩に何の躊躇いもなく陽千香を巻き込んだ。あの時はたまたま居合わせた陽千香を利用しただけかもしれないが、今後もこちらに手を出さない保証はない。
「もう済んだ話だから、さっきは笑って聞いてたけどね。また同じ目に遭わせるかもしれないと分かってて、それでも役目を押し付けるほど無責任じゃないつもりだよ」
「久我君の言うとおりだ。残念だけど、志筑君のことは暫く様子見にしよう。界境世界で会えるなら、他に何か近付く方法もあるかもしれない」
先輩二人に揃って却下され、陽千香は暫く言葉を失った。陽千香の身を案ずるがゆえの判断だ。本来であればありがたく指示に従い、別のチャンスを待つべきなのだろう。
それでも。
「……大丈夫です。私、また志筑くんに会いに行きます」
「せ、先輩、今話聞いてました? 危ないんですよ!?」
圭介が顔を引き攣らせながら問うてくる。その隣でおろおろと視線を彷徨わせているあやめに微笑んでみせると、陽千香は三年生両名に向き直って言った。
「お二人の心配は理解してます。でも、やっぱり今やるべきだと思います。引力があるからってそう何度もチャンスが巡ってくるとは思えない。久我先輩の時だって、私が一度きりって約束したから受けてくれたんじゃないですか。……それに」
そこで一度言葉を切り、困った笑顔を浮かべて続けた。
「目を付けられたらって話なら、もう手遅れだと思います。あの人達、私を志筑くんの彼女だと思い込んじゃったみたいなので」
言った瞬間、二人は面食らったように目を見開いた。ただ呆然と頭を掻き混ぜている良一と、渋面で額を押さえた貴則に、きっぱりと宣言してみせる。
「志筑くんのことは任せてください。何とか協力してもらえるように、頑張ってみますから」
「……言っておくけど、何かあってもボクは手助けできないよ。界境世界とは違うんだからね」
椅子の背もたれに沈み込みながら、貴則が投げ遣りな調子で言った。回りくどい心配の仕方がおかしくて、陽千香は思わず笑ってしまった。
「分かってます。心配してくれてありがとうございます」
そう言うと、貴則は拗ねたように鼻を鳴らして眼鏡の蔓を押し上げた。




