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リンクリングトラウム  作者: 田川 竜
第四章 ヤマアラシのジレンマ
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ヤマアラシのジレンマ(6)

どこもかしこも真っ暗だった。

暗くて、寒くて、静かで。声を上げても誰も応えてくれなかった。


***がいれば良かったのに。暗闇を歩きながら考えた。

***がいたら、どこにいたって怖いことなんかないのに。


暗くて、寒くて、静かで。独りの暗闇はとても寂しくて。

誰か来てくれないかな。

そう思った瞬間、呼ばれたような気がして振り向いた。


誰かいるの? その問いかけに、声が応えた。

願いを言えって? どんなことでも叶えてくれるの?

もしそれが本当なら、俺の願いは――。


◇◇◇


今日もまた夢を見た。迷子の子供が母親を求めて彷徨っているかのような、心細くて寂しい夢だった。夢の中で夢を見るというのは何とも奇妙な話だが、あれはいったい何なのだろうか。陽千香自身の夢ではないだろう。夢の中の人物は、自分のことを"俺"と呼んでいたのだから。

もしかして宿主の夢だろうか。今も界境世界の中心にいるはずの見知らぬ誰か。その意識が、夢の中の夢として陽千香に流れ込んでいるのかもしれない。

宿主はずっと寂しいと訴え続けていた。夢の内容に引き()られて、こちらの胸が痛くなるほどに。早く救い出してあげたい。陽千香は強くそう思った。本当にそう思ったのだが――。

「……どうしよう」

陽千香は中庭の真ん中で困っていた。

先日と状況が同じだ。周囲に仲間達の姿は見えず、校舎内のどこかにいるような気配もない。陽千香一人だけが、この断面に放り出されてしまっていた。正確にはもう一人いるはずだが、相手に合流の意思がないことは分かっている。何とかこちらから近付いて、協力してもらえるよう説得しない限り、陽千香は一人きりも同然なのだった。

接触できるチャンスが巡ってくること自体はありがたかった。だが、一人で探索する危険度は相応に高いと思われた。この状況がずっと続くとなると、説得の成否は陽千香の身の安全に直結してくる。自分から引き受けたこととはいえ、思った以上に条件は厳しい。急がなければならない。

最後の一人は、やはり蒼真なのだろうか。あの後屋上に行ってみたが、今日は結局会えずじまいだった。いつも屋上にいるわけではないらしい。ただでさえ教室には寄り付かないのに、校内での所在が分からないのは難儀(なんぎ)だった。

『陽千香、気を付けてくださいまし。今夜は背筋がビリビリしますわ』

リヒトの声に頷いて、陽千香は剣の柄を握り締める。彼女の言う感覚は、陽千香も先ほどから感じている。うなじの辺りが焼けるようだ。気配の主は、そう遠くない場所にいる。

警戒しながら廊下を行く陽千香の耳に、低い唸り声が響いてきた。意識を向けた先には、黒い小さな影が佇んでいる。狼を思わせる体躯(たいく)に鋭い牙と爪。憤怒(ふんど)の色を(まと)った縦長の瞳が、揺らぎもせずに陽千香を見据えていた。

狼はこちらが構える隙も与えずに地を蹴ると、剥き出しにした牙を突き立てようと迫って来た。陽千香は突進の軌道から僅かに身を()らすと、振り上げるようにして剣を払った。金属を鳴らす硬い音。牙を防がれたと見るや、狼は宙で体勢を(ひるがえ)し、今度は後ろ足での一撃を繰り出した。身を捻ってかわすと同時、螺旋(らせん)を描くように振るった刃が、狼の毛並みの数本を散らした。

床に降り立つ狼を視界に捉えながら、陽千香の意識は背後から迫る気配に向いていた。荒い息を吐きながら地を駆ける爪の音。恐らくは目の前の悪魔と同じ型。二体同時は分が悪い。挟み撃ちだけは回避しなければ。

正面の狼が飛び掛かって来た脇をすり抜け、陽千香は先の廊下を走った。すぐ後ろを追ってくる足音との距離に神経を()きながら、敵を分断する(すべ)に思考を巡らせる。鍵のかかる場所にはいくつか当てがある。一体を誘い込み、扉を破られる前に倒す。金属製の扉ならさらに少し時間を稼げるだろう。

陽千香は跳ぶようにしながら階段を駆け、三階を目指した。北側の特別教室区画、東の端にある音楽室。角を折れてもう間もなく、という時、不意にぞくりと肌が粟立(あわだ)った。正面からゆっくりと、小さな影が迫って来る。ピンと立った耳をこちらに向け、鼻先に皺を寄せている黒い獣の姿。

――三体目!?

陽千香は一瞬足を止めかけ、そのまま強行して手前の角で進路を変えた。まさかこれ以上増えてしまうなんて。下手に分断を考えるより、壁を背後に戦った方がまだ堅実(けんじつ)かもしれない。廊下の端から駆けて来る三体に一瞥(いちべつ)を向け、陽千香は階段を跳び下りる。一階まで下ろうとして、そこで階下から聞こえてくる足音に戦慄(せんりつ)した。

「ま、さか……!?」

思わず声を漏らしてから、迫りつつある息遣いに慌てて周囲を見やる。迷っている暇はない。窓から見える景色を見回し、そこに影の姿がないことを確かめると、陽千香は鍵を外して窓を開けた。すぐ背後まで迫った牙をかわして空中に飛び出すと、着地に備えて体勢を整えた。

足の裏に地面を感じた瞬間に膝を曲げ、その勢いで前転して衝撃をいなす。視界の回転が止まり、何とか無事着地できたことに息をつく。立ち上がった陽千香の前には、一本の立派な樹が生えている。窓から飛び降りた先は中庭だった。

二階の窓からぎゃんぎゃんと耳障りな鳴き声が聞こえる。奴らはすぐに下りて来るだろう。ここで待ち受けるしかない。陽千香は剣を正面に構え、狼達がやって来るであろう方向に意識を研ぎ澄ませ――

突然、視界がぶれた。ぐるぐる回る景色に混乱したのは一瞬。背中に受けた叩き付けるような衝撃と、脇腹辺りに感じる鈍い痛み。そして目の端をよぎった黒い影に、自分の油断を悟る。二階の追手に気を取られるあまり、自分のすぐ傍にある気配を見逃してしまった。

息を止めて痛みを(こら)え、両腕を支えに立ち上がろうとする。が、身体が言うことを聞かない。揺さぶられでもしているかのように視界が揺れて、酷く気分が悪かった。

意識が真っ青に塗り潰されていく中で、まだ辛うじてはっきりしている耳が複数の足音を捉える。陽千香の目には、近付いて来る黒い獣の群れが映っていた。

群れの中でも一回り大きい狼が、嗤うように口を開けた。真っ赤な口元に、陽千香の脳内で警告音が鳴り響く。だが、相変わらず身体は自由が利かず、意識はどんどん陽千香の手を離れていく。今気を失えば、自分は確実に悪魔の餌食(えじき)になってしまう。

――気を失っちゃ、ダメ……!

その思いも虚しく、陽千香の視界は暗転し――

どこか遠くで、地鳴りのような低い音が聞こえたような気がした。


目を開けると、見慣れない天井がそこにあった。

「……あれ……?」

声に出して呟くと、一段意識が鮮明になった。手の先、足の先から順に動かして身体が動くことを確かめ、ゆっくりとその場に上体を起こす。自分が横たわっているのが保健室のベッドらしいと認識した途端、顔面目掛けて白い何かが飛んで来た。

『陽千香ぁっ!』

リヒトだった。目元に(おお)い被さった彼女を両手でそっとどかし、陽千香は室内を見回しながら訊ねた。

「リヒト……私、あれからどうなったの? あなたがここまで運んでくれた……わけないわよね?」

(てのひら)サイズの彼女にはまず不可能と思いながら、念のために確認する。リヒトは目に溜めた涙を拭いながら答えた。

『悪魔に吹き飛ばされて、気を失ったことは覚えてますの?』

「うん……視界が真っ暗になって、意識が遠のいて……最後の一瞬、もうダメだと思ったのに。でも、どうして私ここにいるの?」

あのままだったら、陽千香は間違いなく悪魔の手に掛かっていたはずだ。

こちら側での死は、界境世界との繋がりを永遠に失うことを意味する。精神が行き来できなくなるだけではない。界境世界にまつわるあらゆる記憶も、同時に失われてしまうのだ。悪魔のこと、御使いのこと。そして何より、大切な神子の仲間達のこと。あの時の自分は、それら全てを失う危機に(ひん)していたはずなのだ。それがどうして、まだ界境世界と繋がっていられるのだろう。

『助けてくれたんですわ』

呟くようなリヒトの言葉に、陽千香は目を見開いた。

『陽千香が気を失った直後に、見知らぬ方がやって来て悪魔を倒してくれたんですの。(まばた)きの間でしたわ。あの悪魔達を、一瞬で……』

「そ、その人、それからどうしたの!?」

食い気味に訊ねる陽千香に、リヒトは上半身をのけ反らせながら答えた。

『ひ、陽千香を抱えて、保健室まで運んでくれましたわ。その後は、黙ってどこかへ行ってしまいましたけど……』

「名前……名前は訊かなかったの!?」

真剣に問い詰めるあまり怒鳴るような調子になってしまい、リヒトが怯えたように表情を歪めた。はっとなって身を引くと、リヒトは小さく息をついて続けた。

『すみません、陽千香のことで気が動転して、そこまでは……でも、男の方でしたわ。こう、わたくしと同じような髪の色をした……』

自分の髪の毛の一房(ひとふさ)を摘まんでみせたリヒトに、陽千香は口元を押さえて押し黙る。

間違いない、蒼真だ。何ということだろう。向こうから接触してくれたタイミングで気を失っているなんて。

「お、追いかけなきゃ……っ!?」

ベッドから降りようと脚を着いた途端、身体がぐらりと横に揺れた。膝から床に倒れた陽千香に、リヒトが心配そうな声を上げる。

『急に動いたらダメですわ! そんなに消耗しているのに――』

「で、でも、早くしないとその人が夢から()めちゃう……!」

『もう遅いですわ。言ったでしょう? 悪魔はその方が倒してしまった、と。悪魔がいないなら、こんな世界に長居する理由はありませんでしてよ』

「そんな……」

床にうずくまったまま、陽千香は肩を落とした。せっかく話ができるチャンスだったのに。

「……お礼も言ってないのに……」

陽千香はベッドの脇に座り込んだまま、悔しさに唇を噛んだのだった。

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